『あなた』がスタレキャラと仲良く(意味深)なっちゃった! 作:ザワザワする人
白珠は、あなたの隣に座るのが好きだった。
酒の席では誰よりもよく喋り、誰よりもよく笑い、星槎を落とした話すら武勇伝のように語る女性だったが、宴が深まると決まってあなたの隣へ来る。遠慮などなかった。
いつものように肩が触れる距離まで近づき、あなたの肩に頭を預けて、満足そうに息を吐く。
「あなたの隣って、帰ってきた感じがするんだよね」
応星が杯を置き、実に嫌そうな顔をした。
「男に向ける言葉としては、少々直球が過ぎるな」
「いいじゃん。減るものじゃないし」
「お前の羞恥心は最初から在庫がない」
白珠はけらけら笑った。
その笑い声だけで、場の空気が少し明るくなる。
丹楓は静かに杯を傾けていた。持明族の長、龍尊「飲月君」。その名だけなら遠すぎる存在だったが、白珠が騒ぐたびにわずかに目元を緩める姿を、あなたは知っていた。
応星は口が悪い。だが、誰の杯が空いたかを一番先に見るのは彼だった。短命種のよそ者として仙舟朱明で腕を磨き、誰よりも残るものを作ろうとするその手を、あなたは尊敬していた。
景元は朗らかだった。軽口を叩き、白珠と応星の言い合いに笑いながら混ざる一方で、誰が疲れているか、誰が沈みすぎているかを、誰よりも早く見抜いていた。才覚はすでに軍人のそれで、だからこそあなたは時折心配になった。
鏡流は少し離れていた。
杯を持ってはいるが、酒にはあまり口をつけない。雲上の五騎士の中にいても、彼女だけはどこか月光の下に一人で立っているようだった。故郷を滅ぼされ、絶望の中で三尺七寸の剣を掴み、それからずっと剣として生きてきた人。
あなたは五人全員が好きだった。
白珠の眩しさが好きだった。
丹楓の静かな孤独を放っておけなかった。
応星の不器用な優しさを知っていた。
景元には、まだ背負わなくていいものまで背負わせたくなかった。
鏡流が剣ではなく人に戻る一瞬を、見逃せなかった。
だからあなたは、宴の終わりにいつも同じことを言った。
「皆、帰ってきてくれよ」
白珠が笑う。
「もちろん。私は飛んで帰ってくる」
応星が鼻で笑った。
「落ちなければな」
「落ちないってば」
「何度聞いても信用できない言葉だな」
景元がそう言い、白珠が頬を膨らませる。
丹楓は静かに頷いた。
鏡流だけは何も言わなかった。
けれどその夜、宴のあとで廊に出ると、鏡流があなたを待っていた。
「お前は、誰にでも帰ってこいと言う」
「言うよ」
「戦場に出る者へ向けるには、残酷な言葉だ」
月明かりの下で、鏡流の白髪が淡く光っていた。
あなたは少し笑った。
「でも言わないと、帰ってこない気がするからな。特に鏡流」
鏡流は黙った。
「我には不要だ」
「必要だよ。鏡流は、おかえりって言われるのが下手だから」
鏡流の瞳がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だった。
けれどあなたは、それを見てしまった。
見てしまったから、もう彼女をただの剣として見ることはできなかった。
鏡流は低く言った。
「……残酷な男だ」
その意味を、あなたはまだ知らなかった。
□
白珠は、あなたの手が好きだと言った。
ある酒宴の夜だった。
応星が鍛えた弓を、白珠が「騄駬は立派すぎるから、あたしは曲弓って呼ぶ」と笑っていた日。応星は呆れた顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。
白珠は唐突にあなたの手を取った。
「私、この手好き」
場が少し静かになった。
「また妙なことを言い出したな」
応星がぼやく。
白珠は気にしない。
あなたの手を両手で包む。
剣を握る手ではない。武器を鍛える手でも、星槎を操る手でも、軍を動かす手でもない。傷を押さえ、血を拭い、死にかけた者の指を最後に握る手だった。
「この手、いつも誰かを止めてるでしょ。血を止める。喧嘩を止める。応星が徹夜で炉に張り付くのを止める。丹楓が一人で沈んでいくのを止める。景元が平気な顔しすぎるのを止める」
そこまで言って、白珠は少しだけ声を落とした。
「鏡流が剣になりすぎるのも、ほんの少しだけ止めてくれる」
鏡流は何も言わなかった。
ただ、杯の縁を押さえる指に力が入った。
白珠はあなたを見上げる。
「だからさ。もし私が遠くで死んだら、あなたは覚えててね。私が格好よく飛んだって」
「縁起でもないことを言うな」
応星の声は低かった。
丹楓も静かに言う。
「死を軽く扱うな」
「軽くないよ。だから頼んでるの」
白珠は笑っていた。
けれど、その目だけは真剣だった。
あなたは、白珠が好きだった。
恋と呼んでいいのかは分からない。彼女の光は眩しすぎて、同じ温度で返せる自信がなかった。それでも、好かれて嬉しくないはずがなかった。
だからあなたは、その手を握り返した。
「忘れない」
白珠は満足そうに笑った。
「約束ね」
その言葉を、後にあなたは呪うことになる。
□
白珠は、本当に格好よく飛んだ。
倏忽の乱の日。
羅浮の空は暗く、洞天は砕け、雲騎軍は倒れ続けた。将軍・騰驍の名さえ戦場に沈み、鏡流と飲月でさえ豊穣の使令には届かなかった。
支離が閃く。
擊雲が唸る。
応星の鍛えた武器が火花を散らす。
景元は血濡れた指でなお指揮を繋ぐ。
あなたは後方で負傷者を運んでいた。血を止め、名前を呼び、冷たくなった手を離して、まだ息のある誰かへ走った。
その時、空に白珠がいた。
星槎の上で、彼女はあなたを見た。
腕には、絶対的に暗い太陽のようなものを抱えている。
あなたは理解した。
白珠は帰ってこない。
叫んだ。
喉が裂けるほど叫んだ。
白珠の唇が動く。
――覚えてて。
星槎が倏忽の結界を突き破った。
光も音も裏返り、白珠と倏忽と、周囲のすべてが粉になった。
仙舟は救われた。
白珠は帰ってこなかった。
□
白珠が死んでから、五人はそれぞれ別の壊れ方をした。
丹楓は、沈黙の底が抜けた。
彼は龍尊だった。持明族の長であり、龍師たちとの権力争いの中でも己の道を進もうとしていた人だった。けれど白珠の死の前では、ただ友を失った男だった。
応星は、炉の前に長く立つようになった。
何かを鍛えているわけではない。ただ火を見ていた。白珠のために作った曲弓だけが残り、白珠はいない。短命種である自分が、せめて何かを残そうとした手は、何も掴めずに震えていた。
景元は、笑うようになった。
前から笑う人だった。だが今の笑みは、誰かが崩れる前に自分が場を支えるための笑みだった。彼は若かった。幼くはなかった。だからこそ理解できてしまう。自分が崩れれば、誰が残ったものを拾うのかを。
鏡流は、白珠の名を言わなくなった。
泣かない。怒らない。悼まない。ただ剣を振る。支離が空を裂く音だけが、彼女の悲鳴だった。
あなたは五人全員を失いたくなかった。
白珠が戻れば。
そう思ってしまった。
白珠が戻れば、丹楓は息ができる。
応星は自分の短い生を呪わずに済む。
景元は無理に笑わなくて済む。
鏡流はようやく白珠の名を呼べる。
あなたは、白珠との約束を守れる。
そんなことはありえないと分かっていた。
それでも。
丹楓と応星が何をしようとしているのか気づいた時、あなたはすぐには止められなかった。
「白珠を戻せるかもしれない」
丹楓はそう言った。
応星は目を逸らしたままだった。
「確証はない。だが、何もしなければ何も戻らない」
あなたは問い返した。
「それは、白珠が望むことか」
二人とも答えなかった。
答えないのに、止まらなかった。
あなたも、止めなかった。
その沈黙が罪だった。
□
龍の咆哮が羅浮に響いた。
怒りではなかった。
痛みだった。
生まれてしまったものの悲鳴だった。
半龍の厄獣は暴れ、持明族も雲騎軍も倒れた。丹楓はその前に立ち尽くしていた。応星は武器を握っていたが、その手は震えていた。
景元が駆けつけた。
彼は一目で理解した。
何が起きたのか。誰が関わったのか。誰がこれを終わらせるしかないのか。
鏡流も来た。
倏忽との戦いの傷は癒えていない。歩くだけで身体の奥が裂けるはずだった。それでも支離を携え、厄龍へ向かう。
あなたは、その前に立った。
「行くな」
鏡流は足を止めた。
「どけ」
「あれは」
白珠じゃない。
そう言うべきだった。
けれど言えなかった。
鏡流はあなたの顔を見た。
それだけで悟った。
「知っていたのか」
あなたは答えられない。
「
答えられない。
「白珠を戻そうとしていたことを」
沈黙が答えだった。
鏡流の目から、最後に残っていた温度が消えた。
「なぜ、我に言わなかった」
あなたは震える声で言った。
「皆に、帰ってきてほしかった」
鏡流は怒鳴らなかった。
ただ、心底痛そうに言った。
「戻る場所など、もうない」
□
厄龍が迫った。
巨体が地を砕き、熱い息が頬を焼く。
丹楓が叫んだ。
「退け!」
応星が怒鳴る。
「近づくな、死ぬぞ!」
景元の声が飛ぶ。
「やめろ!」
鏡流が、あなたの名を呼んだ。
その全部を聞きながら、あなたは走った。
白珠は言っていた。
あなたの手は、いつも誰かを止める手だと。
ならば、今止めなければならない。
丹楓の罪を。
応星の絶望を。
景元が背負う未来を。
鏡流の一刀を。
白珠が二度目に死ぬ瞬間を。
どれか、一つでも。
あなたは厄龍の額に触れた。
硬い鱗。
血の熱。
怯えたような震え。
あなたは優しく撫でた。
「白珠」
厄龍が止まった。
世界が、沈黙した。
龍の瞳に、一瞬だけ光が宿った。
それは白珠だった。
白珠を願って生まれてしまった、白珠ではないもの。
白珠の痛みだけを持ってしまったもの。
あなたは撫で続けた。
「怖かったよな」
厄龍の爪が地面に沈む。
「痛かったよな」
尾の動きが止まる。
「もう、飛ばなくていい」
その瞬間、丹楓が膝をついた。
応星は、自分の手を見つめた。
景元は、動けなかった。
鏡流は、支離を握ったまま立ち尽くした。
誰もが、ほんの一瞬だけ思ってしまった。
止まった、と。
終わるのではないか、と。
だが次の瞬間、厄龍の身体が脈打った。
鱗の隙間から、赤黒い枝のようなものが伸びる。
建木の力か。倏忽の血肉か。龍化妙法のなれの果てか。
それは肉とも根ともつかない形で、あなたの腕に絡みついた。
「っ……!」
あなたの身体が引き寄せられる。
厄龍は止まったのではなかった。
縋っていた。
白珠の名を呼ぶあなたに。
白珠を覚えているあなたに。
自分を白珠として撫でたあなたに。
その手を離すまいとしていた。
応星が叫んだ。
「離れろ!」
あなたは腕を引こうとした。
だが、絡みついた肉の根は深く食い込んでいた。骨の内側まで冷たい熱が走る。
丹楓の顔から血の気が引いた。
「まずい……」
厄龍はあなたを取り込もうとしている。
厄龍の喉が鳴った。
咆哮ではない。
泣き声に似ていた。
あなたは、厄龍の額に残った手を離さなかった。
「……離れたら、また暴れる」
景元が声を荒げる。
「今はそんなことを言っている場合じゃない!」
あなたは笑おうとした。
「分かってる」
腕に食い込んだ根がさらに伸びる。
肩へ、胸へ、あなたの身体を縫い止めるように絡んでいく。
応星が駆け寄ろうとした。
だが丹楓が制した。
「触れるな!」
応星が丹楓を睨む。
「黙れ!お前が――」
「触れれば、巻き込まれる!」
その声は、龍尊のものではなかった。
取り返しのつかないものを悟った男の声だった。
鏡流は動かなかった。
動けなかった。
お前がいると、我は剣でいられぬ。
かつて自分が口にした言葉が、今ここで最悪の形になっていた。
あなたが厄龍を撫でているせいで、鏡流は剣でいられない。
白珠ではないと断じられない。
怪物を討つだけだと思えない。
だが、斬らなければならなかった。
あなたごと。
そうしなければ、厄龍はあなたを取り込み、白珠の痛みとあなたの願いを核にして、さらに大きな災厄になる。
あなたは振り返った。
「鏡流」
やめてくれ、とは言わなかった。
助けてくれ、とも言わなかった。
ただ、いつものように彼女の名を呼んだ。
鏡流の顔が歪んだ。
「我に、斬れと言うのか」
あなたは泣きながら首を横に振った。
「言いたくない」
「ならば離れろ」
「離れられないよ」
「ならば、腕を落とす」
「もう遅い」
あなたは自分の胸元を見た。
赤黒い根は、すでにあなたの身体へ食い込んでいた。
引き剥がせば、それだけで命が裂ける。
それでも、完全に取り込まれるよりはいい。
分かっている。
分かっていて、あなたは鏡流を見た。
目が合う。
鏡流の息が止まった。
景元が叫んだ。
「駄目だ!」
応星も叫んだ。
「ふざけるな! まだ……まだ何かあるはずだ!」
丹楓は何も言えなかった。
何かあるはずだ。
その言葉を、彼自身が誰よりも信じたかった。
だが、何かあるはずだと思った果てが、これだった。
あなたは、厄龍の額を撫でた。
「白珠」
厄龍の瞳が揺れる。
「もういいよ」
それが白珠に向けた言葉なのか。
厄龍に向けた言葉なのか。
自分自身に向けた言葉なのか。
誰にも分からなかった。
あなたは最後に、もう一度鏡流を見た。
「鏡流」
彼女は支離を握りしめた。
「俺は、皆に帰ってきてほしかっただけなんだ」
鏡流の手が震える。
「黙れ」
「丹楓にも、応星にも、景元にも」
「黙れ」
「白珠にも」
「黙れ」
「鏡流にも」
鏡流の瞳が見開かれた。
あなたは血に濡れながら、少しだけ笑った。
「おかえりって、言いたかった」
鏡流は、もう何も言えなかった。
支離が白く走った。
それは迷いのない一太刀だった。
迷いがなかったからこそ、残酷だった。
厄龍の首が落ちる。
同時に、あなたの身体を貫いていた赤黒い根ごと、肩から胸へ白い線が走った。
音は遅れて来た。
巨体が崩れる。
血が舞う。
あなたの身体が傾く。
鏡流が、あなたを抱き止めた。
斬った本人が。
落とさないように。
壊れ物を扱うように。
あなたは血の中で笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「……ちゃんと、止まったな」
鏡流の顔が、初めて崩れた。
「黙れ」
「白珠も、もう……苦しくないかな」
「黙れ」
「なら、よかった」
「黙れ!」
鏡流の声が裂けた。
あなたは震える手を上げようとした。
けれど、もう動かなかった。
白珠が好きだと言った手。
皆を止めたかった手。
最後に厄龍を撫でた手。
その手は、血の中で力を失っていた。
「ごめん」
誰に向けた言葉だったのか。
白珠に。
丹楓に。
応星に。
景元に。
鏡流に。
それとも、誰も救えなかった自分に。
あなた自身にも分からなかった。
最後に、あなたはいつものように言った。
「皆、帰ってきてくれ」
その言葉を置いて、あなたは息をしなくなった。
□
誰も動かなかった。
丹楓は膝をついたままだった。
彼は龍尊だった。
だがその時、龍尊ではなかった。
白珠を取り戻そうとして、白珠の痛みを怪物に変えた。
そして、五人を繋ぎ止めていた男を死なせた。
応星は、壊れたように笑った。
「俺は」
彼は自分の手を見た。
「何を作った」
支離を作った。
擊雲を作った。
石火夢身を作った。
曲弓を作った。
友のために作った。
その果てに、鏡流があなたを斬るための刃まで、自分が作っていた。
景元は拳を握った。
泣かなかった。
泣くには、理解しすぎていた。
この後何が起きるのか。
丹楓が裁かれること。
応星が壊れること。
鏡流がもう戻れないこと。
そして自分が、この惨劇の後始末を背負うこと。
公式の記録には、あなたの名は残らないだろう。
残せない。
飲月の乱は罪人たちの乱として処理される。
白珠は英雄として語られる。
厄龍は災厄として記される。
だが、あなたが厄龍を止めたこと。
鏡流があなたごと斬ったこと。
その最後に「皆、帰ってきてくれ」と言ったこと。
それは残せない。
景元はその瞬間、自分の未来を呪った。
守るために、消す側になる未来を。
鏡流は、あなたを抱いたまま動かなかった。
血が彼女の衣を濡らしていく。
支離は地に落ちていた。
応星が作った剣。
鏡流が振るった剣。
厄龍を斬り、あなたを斬った剣。
鏡流は、あなたの名を呼んだ。
返事はない。
もう二度とない。
白珠は帰ってこなかった。
あなたも帰ってこなかった。
そしてその日を境に、雲上の五騎士は本当に終わった。
□
後に、丹楓は裁かれた。
だが彼にとって本当の罰は、刑ではなかった。
彼は何度も夢を見る。
あなたが厄龍の額を撫でている。
白珠の痛みを止めようとしている。
そして鏡流の刃が走る。
目覚めるたび、彼は思う。
自分は白珠を取り戻そうとしたのではない。
白珠の死を受け入れられなかっただけだ。
その弱さが、あなたを殺した。
応星は死ねぬ身となった。
鏡流に千回以上殺される中で、彼は何度もあの日を見た。
支離。
自分が作った剣。
鏡流のために作った。
友のために作った。
その剣が、あなたの肩から胸を裂いた。
だから応星は、応星という名を捨てた。
友のために何かを作った男は、もういない。
残ったのは、作ったものすべてに呪われた刃だった。
景元は将軍になった。
彼は笑った。
穏やかに、柔らかく、何も背負っていないように。
そして記録から、あなたを消した。
消したくなかった。
けれど残せば、白珠の死も、飲月の罪も、鏡流の一刀も、すべてが違う意味を持ってしまう。
それに、あなたはただの治療兵なのだから。
だから景元は、あなたを歴史の外へ置いた。
杯を六つ並べる夜があった。
白珠。
丹楓。
応星。
鏡流。
自分。
そして、名を記せない一つ。
景元はその杯にだけ、最後まで酒を注げなかった。
注げば、帰ってこないことを認める気がした。
鏡流は魔陰に堕ちた。
応星を殺すたび、彼女は問うた。
「なぜ飲月と、あのような悪行を?」
けれど本当に問うていたのは、それだけではなかった。
なぜ、あの男を巻き込んだ。
なぜ、我に斬らせた。
なぜ、最後まで我らの帰りを願わせた。
鏡流はあなたを憎めなかった。
あなたは愚かだった。
甘かった。
止めるべきものを止められず、止めてはいけないものに手を伸ばした。
けれど、その愚かさは五人を愛したがゆえだった。
だからこそ、赦せなかった。
あなたが五人を愛した結果、五人全員があなたを殺した。
丹楓の願いが。
応星の技が。
景元の沈黙が。
白珠の死が。
鏡流の剣が。
あなたを殺した。
□
七百年後、鏡流は羅浮へ戻った。
最後の罰を受ける前に、会うべき者たちがいた。
丹恒。刃。景元。
そして、もう一人。
あなたの墓はなかった。
名を刻めないからだ。
ただ、景元だけが知っている場所があった。
羅浮の灯りが遠く見える、静かな場所。昔、白珠が星槎の話をした場所。あなたが五人に「帰ってきてくれ」と言った夜に似た風が吹く場所。
そこに、何も書かれていない石がある。
鏡流はその前に立った。
景元は少し離れていた。
七百年を経ても、彼は覚えていた。
鏡流があなたを抱いていた姿を。
あなたが最後に言った言葉を。
自分がその名を記録から消した日のことを。
「師匠」
景元は静かに言った。
「ここに来ると思っていました」
鏡流は石を見たまま言う。
「名がないな」
「残せませんでした」
「分かっている」
責める声ではなかった。
だから景元は、余計に苦しかった。
鏡流は低く言った。
「あの男は、最後に何と言った」
景元はすぐには答えなかった。
二人とも、当然覚えている。
忘れたことなどない。
けれど口にすれば、七百年閉じ込めてきたものが崩れる気がした。
やがて、景元は答えた。
「皆、帰ってきてくれ、と」
鏡流は目を閉じた。
風が吹く。
白珠はいない。
丹楓はいない。
応星はいない。
あなたはいない。
景元だけが残り、鏡流だけが戻った。
帰ってきたと言える者など、誰もいなかった。
「我は」
鏡流は呟いた。
「帰ってきたのか」
景元は答えられなかった。
鏡流も、答えを求めてはいなかった。
ただ、名のない石の前で立ち尽くす。
七百年前、あなたは言った。
皆、帰ってきてくれ。
けれど誰一人、あの頃の姿では帰ってこなかった。
白珠は粉になった。
丹楓は丹恒となった。
応星は刃となった。
景元は将軍となり、あなたを消した。
鏡流は罪人となった。
帰ってきた者などいない。
いるのは、帰れなかった者たちの残骸だけだった。
鏡流は、初めて石に触れた。
冷たかった。
あなたの手は、いつも温かかった。
血を止める手。
痛みを止める手。
誰かを帰らせようとする手。
その手を、鏡流は斬った。
「……おかえりなさい」
景元が、かすれた声で言った。
鏡流は振り返らない。
景元は続けた。
「彼なら、そう言ったと思います」
鏡流の肩が、わずかに震えた。
七百年ぶりに、その言葉が彼女へ届いた。
おかえり。
誰も言ってくれなかった言葉。
あなたが言うはずだった言葉。
鏡流は笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、名のない石の前で、剣を持たない手を強く握った。
そして低く言った。
「遅すぎる」
景元は目を伏せた。
「はい」
「何もかも、遅すぎた」
「……はい」
遠くで星槎の音がした。
白珠が飛んでいるような音だった。
けれど誰も空を見なかった。
見上げれば、あの日を思い出すから。
あなたが白珠を呼んだことを。
厄龍が止まったことを。
鏡流が支離を振ったことを。
そして、五人全員があなたを帰らせられなかったことを。
雲上の五騎士の物語は、伝説として語られる。
けれどその伝説の真ん中には、名のない傷がある。
誰にも記録されなかった男。
誰よりも五人の帰りを願った男。
そして五人全員の罪によって、帰れなくなった男。
鏡流は石から手を離した。
「行く」
景元は頷いた。
止めなかった。
今さら止める資格など、自分にはないと思った。
鏡流は歩き出す。
背中は昔と同じように白く、遠い。
けれど景元には分かっていた。
師は、もう二度と帰ってこない。
たとえ羅浮に足を踏み入れても。
たとえ自首し、罰を受けても。
たとえ全てを清算しようとしても。
あの日、あなたの言葉に応えられる日は、もう来ない。
景元は名のない石の前に立った。
そして、誰にも聞こえない声で言った。
「ただいま」
返事はなかった。
当然だった。
あなたはもう、誰にも「おかえり」を言えない。
それが、雲上の五騎士が最後まで支払いきれなかった代価だった。
スタレの本家曇らせの方々。
まとめサイトみたいなので出来事について調べてたんでどっかに矛盾あるかもっす。