『あなた』がスタレキャラと仲良く(意味深)なっちゃった! 作:ザワザワする人
ちっさ………。
サンポ・コースキがその依頼を引き受けた理由は、単純だった。
報酬があまりにも高かったのだ。
銀色の鞄を、街の反対側にある倉庫まで運ぶ。それだけで、しばらく働かずに暮らせるほどの信用ポイントが手に入る。
依頼書に記された条件も、ごく簡単なものだった。
一つ。鞄を開けないこと。
二つ。途中で誰かに呼び止められても、決して立ち止まらないこと。
三つ。鞄が喋り始めても、相手にしないこと。
「……三つ目だけ、少々引っかかりますねぇ」
街角に立ったサンポは、手にした銀色の鞄を見下ろした。
見たところ、何の変哲もない。丈夫そうな留め具がついているだけで、口らしきものも見当たらなかった。
持ち上げても反応はない。
耳を近づけても、物音ひとつしない。
「まあ、いいでしょう。正体不明の商品に深入りしないのも、優秀な商人の心得というもの。このサンポ・コースキ。誠心誠意、運ばせていただきますとも!」
サンポは上機嫌で歩き始めた。
数歩進んだところで、鞄から声がした。
『この男は、盗人です』
サンポの足が止まる。
周囲を歩いていた人々も、一斉に振り返った。
サンポは何も聞こえなかったふりをして、再び歩き始める。
『繰り返します。この鞄を持っている男は、極めて悪質な盗人です』
「いやあ、最近の鞄はよく喋りますねぇ!」
サンポは額に汗を浮かべながら、周囲へ愛想よく笑いかけた。
「もちろん、鞄の言うことなど真に受けてはいけませんよ?品物というものは、持ち主に似ると言いますから。つまり、この鞄の本来の持ち主は、きっとひどい嘘つきなのでしょう!」
『この男の名前は、サンポ・コースキ』
「個人情報まで!」
『懸賞金は、信用ポイント五十万』
周囲がざわめいた。
道行く人々の目つきが変わる。
しばらく働かずに暮らせるほどの報酬を運んでいたはずが、いつの間にか自分自身へ、それを上回る値段がつけられていた。
サンポは左右を見回した。
露店の店主が棍棒を握る。
買い物途中の婦人が、勢いよく袖をまくる。
昼寝していた男まで飛び起き、サンポの進路へ立ちはだかった。
「皆さん、落ち着いてください!これは何かの間違いで――」
『生死は問いません』
サンポが走り出した。
□
「いたぞ、サンポ・コースキだ!」
「五十万を逃がすな!」
「待ってください!どうして皆さん、鞄の言葉をそこまで素直に信じられるんです!?」
サンポは銀色の鞄を抱え、街の中央通りを駆け抜けていた。
その後ろを、武器を手にした大勢の市民が追いかけている。
どうにか路地へ逃げ込んだところで、頭上から色とりどりの紙吹雪が舞い落ちてきた。
「サンポちゃん!こっちこっち!」
建物の屋根から、花火が身を乗り出していた。
その隣には、あなたがいる。
二人とも、揃って楽しそうな笑みを浮かべていた。
その顔を見た瞬間、サンポはすべてを察した。
「やはり、お二人の仕業ですか!」
「違うよ」
あなたは即座に否定した。
「鞄がサンポを嫌ってるだけ」
「先ほど初めて会った鞄から、どうしてそこまで嫌われるんです!?」
「第一印象じゃない?」
花火が屋根の上で足を揺らす。
「サンポちゃんって、見るからに懸賞金がかかってそうだもん」
「どういう外見ですか、それは!」
背後から追っ手たちの足音が迫ってくる。
サンポは二人に構っていられないと判断し、路地の奥へ駆け込んだ。
ところが、そこは行き止まりだった。
高い壁に突き当たり、サンポは立ち止まる。
「花火さん!袋小路ではありませんか!」
「だって、行き止まりのほうが面白そうだったから」
「面白さではなく、私の安全を優先していただけませんか!?」
「無理だよね?」
花火が隣を見る。
「無理だね~」
あなたも頷いた。
追っ手たちが路地へ雪崩れ込んでくる。
サンポが銀色の鞄を盾のように構えた、そのときだった。
鞄が大きく震える。
留め具が外れ、中から風船がひとつ飛び出した。
真っ赤な風船には、サンポの顔が描かれている。
『本物はこちらです』
風船が高らかに宣言した。
今までサンポを追いかけていた人々は、迷うことなく風船へ飛びついた。
「待ちなさい!どう見ても風船でしょう!?」
誰も聞いていない。
人々は我先にと風船を追い、来た道を引き返していく。赤い風船はサンポの声真似で助けを求めながら、楽しそうに街の中心へ飛んでいった。
あっという間に路地が静かになる。
サンポは深く息を吐いた。
「いやあ、危ういところでした。ですが、結果的には助けられたと言えなくも」
『懸賞金を百五十万へ増額します』
鞄が告げた。
「どうしてです!?」
今度は屋根の向こうから、警笛が鳴り響いた。
「賞金目当ての一般市民だけじゃ飽きたから~」
いつの間にか路地へ下りてきた花火が、悪びれもせず答える。
「次はちゃんとした警備隊にしてみたよ♪」
「何をしてるんですか!」
あなたはサンポから銀色の鞄を奪い、その留め具へ指をかけた。
「中を見れば、サンポの無実を証明できるかもしれないね」
「ですが、依頼書には開けるなと――」
「依頼書を書いたの、俺だよ」
サンポが黙った。
花火が「あはっ」と声を上げる。
「君、今までで一番悪い顔してる」
「花火に褒められた」
「褒めてないよ~。大絶賛してるの!」
「どちらでも構いませんから、早く開けてください!」
あなたが留め具を外す。
三人で鞄を覗き込む。
中に入っていたのは、一本のラッパだった。
嫌な沈黙が流れた。
ラッパが勝手に浮かび上がる。
そしてサンポの真正面で、大きく息を吸い込むように膨らんだ。
「お待ちをぉぉぉぉぉ!!!!」
ラッパが鳴った。
盛大な音と共に、鞄から無数の紙吹雪が噴き出す。
路地の壁が左右に倒れ、その向こうから仮面を被った楽団が現れた。太鼓、笛、弦楽器。楽団は陽気な曲を奏でながら、呆然とするサンポを取り囲む。
続いて、車輪のついた巨大な台座が走ってきた。
台座の上には、金色の玉座が置かれている。
花火とあなたは左右からサンポの腕を掴み、彼を玉座へ座らせた。
「本日の主役、サンポ・コースキ!」
「盛大な拍手を~!」
「待ってください、お二人とも。これは何の」
玉座が走り出した。
サンポを乗せた台座は、楽団を引き連れ、街の中央通りへ飛び出していく。
花火とあなたも台座へ飛び乗った。
警備隊がこちらに気づく。
賞金目当てで集まった市民たちも、サンポを指差した。
街中の視線が、派手な玉座に座る男へ集中する。
その頭上へ、大きな垂れ幕が広げられた。
【百五十万の男、サンポ・コースキ凱旋記念パレード】
「凱旋してませんよ!それに、その百五十万は根も葉もない懸賞金でしょう!」
サンポの抗議は、太鼓とラッパの音にかき消された。
街の両側には人だかりができている。
鞄の言葉を信じ、サンポを捕らえようと集まった者たちだ。派手な玉座の上へ本人が堂々と現れたのだから、騒ぎはさらに大きくなった。
「いたぞ、サンポ・コースキだ!」
「百五十万を逃がすな!」
「なぜ誰一人として疑わないんです!喋る鞄より私のほうが信用できるでしょう!」
「それはどうかなあ」
花火が玉座の背もたれへ頬杖をつく。
あなたも少し考えてから首を振った。
「俺も鞄を信じるかも」
「先ほどまで持ち主だった方が言わないでください!」
前方で警笛が鳴った。
武装した警備隊が、通りを塞ぐように横一列へ並ぶ。
けれど、彼らが掲げていた手配書に描かれているのは、サンポの顔ではなかった。
黒く塗り潰された顔。
その下には、あなたの特徴が簡潔に記されている。
仮面の愚者。
性別、年齢、出身、すべて不明。
捕縛の成否は問わない。
賞金額――五百万信用ポイント。
「……おや?」
サンポが手配書とあなたを見比べた。
「どうやら、私を捕まえに来たわけではないみたいです」
警備隊だけではない。
道端に集まった賞金稼ぎたちも、いつの間にかサンポからあなたへ目を向けていた。
屋根の上にも人影がある。
窓の奥では、銃口があなたの動きに合わせてゆっくりと向きを変えていた。
さっきまでは祭り騒ぎだった通りに、剥き出しの敵意が満ちていく。
花火はそれを眺め、楽しそうに目を細めた。
「五百万だって。君、大人気だね」
「サンポの三人分以上か~」
「そこで私を基準にしないでいただけます?」
「悔しい?」
花火が横から顔を覗き込んでくる。
「ちょっと。賞金に見合うことをした覚えがないから」
「そこなんだ」
花火は声を弾ませた。
自分たちがばら撒いた根拠のない懸賞金とは違う。あなたを狙う手配書は、騒ぎに乗じて何者かが紛れ込ませたものだった。
誰が、何のために。
それを考えるだけで、花火は抑えきれないように笑った。
「いいね。私たちの舞台に、勝手に上がってきた子がいるんだ」
「花火さん、楽しんでいる場合ではありませんよ」
サンポはすでに玉座から腰を浮かせていた。
逃げる準備だけは早い。
「向こうの狙いがあなたなら、ここは三人別々に逃げるのが賢明かと。花火さんと私は右へ。そちらは左へ。追っ手は五百万のほうへ向かう。いやあ、実に合理的です!!」
「サンポちゃん?」
花火がにこやかに呼びかけた。
「はい?」
「君はいくらだっけ?」
「百五十万ですが」
「じゃあ、足してあげる」
花火が指を鳴らした。
サンポの頭上に、新しい垂れ幕が広がった。
【あなたを捕まえた者には五百万】
その下から、もう一枚。
【サンポ・コースキを捕まえた者には、一千万】
通りが静まり返った。
警備隊も賞金稼ぎも屋根の上の狙撃手も、一斉にサンポを見る。
「……はい?」
「よかったね、サンポ」
あなたは彼の肩へ手を置いた。
「俺より人気になったよ」
「待ってください!その一千万は、いったいどこから出るんです!?」
「サンポが払うんじゃない?」
「私を捕まえた者へ私が一千万払うんですか!?」
「自分への投資だね」
「破産ですよ!」
サンポが叫んだ直後、最初の賞金稼ぎが飛び出した。
それを合図に、通りの両側から人々が押し寄せる。
狙いの多くはサンポへ移った。だが、何人かは騒ぎに流されず、まっすぐあなたを見ている。
一本の矢が放たれる。
花火はあなたの襟元を引き寄せた。
耳元を掠めた矢が、背後の玉座へ突き刺さる。
「危なかったね~」
「助けてくれた?」
「まさか。私に当たりそうだったから避けただけ」
そう言いながらも、花火はあなたから手を離さなかった。
襟を掴んだまま自分のそばへ寄せ、追っ手たちを見渡す。
「ねえ、君。心当たりは?」
「多すぎて分からない」
「花火も一緒に謝ってあげようか?」
「花火が謝ったら、余計に怒らせそうだね」
「じゃあ、笑ってあげる」
花火の目が愉しげに輝く。
「君を狙ったことを、死ぬほど後悔するくらいに」
その声だけが、妙に甘かった。
あなたは花火の腰へ腕を回し、崩れかけた台車の上で身体を支えた。
「頼もしいなあ」
「勘違いしないでよ。君を捕まえるなら、絶対花火が先だから」
「捕まえたあとは?」
「まだ考えてない」
「なら、捕まってからのお楽しみだね」
花火が一瞬だけあなたを見る。
すぐに楽しそうな笑顔へ戻ったが、襟元を掴む指には少しだけ力がこもった。
「お二人とも!」
玉座の上から、サンポの悲鳴が飛んでくる。
「良い雰囲気を出している場合ではありませんよ!私には一千万信用ポイント分の人間が押し寄せているんです!」
追っ手の大半が、玉座へ手を伸ばしていた。
サンポは足元へしがみつく者を振り払い、飛んできた縄を避け、何本もの捕獲網を短剣で切り裂いている。
「君は、どうする?」
花火が尋ねる。
あなたは台車の連結部分へ目を落とした。
金色の玉座だけを切り離せそうな留め具が、すぐ足元にある。
「サンポには悪いけど、囮になってもらおう」
「悪いと思ってない顔だね」
「花火も嬉しそうだよ」
「君が狙われてるんだもん。これくらいはしてもらわないと」
「理屈が分かりませんけど!?」
サンポが反論するより早く、二人は同時に留め具を蹴った。
金具が外れる。
台車の前半分だけが右の通りへ曲がり、花火とあなたを運んでいく。
切り離された玉座は、サンポを乗せたまま坂道へ突入した。
「えっ」
玉座が加速する。
その後ろを、一千万信用ポイントに目を眩ませた群衆が追いかけていく。
「お二人とも!せめて私にも逃走経路を教えてくださぁぁぁぁい!」
サンポの声が遠ざかる。
やがて坂の向こうから、盛大な衝突音が聞こえた。
続いてラッパの音。
馬のいななき。
何かが爆発する音。
最後に、なぜか観客たちの大きな拍手が響いた。
花火は腹を抱えて笑っていた。
「ねえ、君!聞いた?サンポちゃん、また最後に拍手を取ったよ!」
「すごいね。あれだけ滅茶苦茶にしても、ちゃんと演目にしてくれる」
「次も呼ぼうね」
「来てくれるかな」
「来るよ~。報酬を多めに書いておけば」
前方からも追っ手が現れた。
こちらに来たのは、たった三人。
誰もサンポのほうを見ていない。手配書を確認することもなく、真っすぐあなたへ武器を向けている。
花火の笑いが、わずかに静まった。
「やっぱり、この子たちは君が目当てみたい」
「みたいだね」
「どうする?」
「酒場に行きたいな」
「今から?」
「喉が渇いちゃった」
あなたが答えると、花火は呆れたように笑った。
「君って、本当に変」
「付き合ってくれる?」
花火はあなたの腕へ自分の腕を絡める。
すぐそこまで追っ手が迫っているというのに、散歩へ出かけるような気軽さだった。
「仕方ないなあ。君一人だと、酒場に着く前に誰かに捕まっちゃいそうだし」
「心配してる?」
「五百万を他の誰かに取られるのが嫌なだけ」
「じゃあ、花火が捕まえてよ」
「もう捕まえてるよ」
花火が絡めた腕を引く。
二人の身体がぶつかり、肩がぴたりと重なった。
花火はすぐ近くからあなたを見上げ、悪戯っぽく笑う。
「だから君は、私から離れちゃ駄目」
背後で追っ手が武器を構えた。
その瞬間、花火とあなたは同時に笑った。
街中の灯りが消える。
次に明かりが戻ったとき、通りに二人の姿はなかった。
残されていたのは、一枚の紙だけ。
【五百万の獲物は、花火ちゃんが予約しました~♪】
その下には、あなたの筆跡で一言だけ書き足されていた。
【本人も了承済み】
夜の通りに、花火の笑い声が響く。
それを追いかけるように、あなたの笑い声も遠ざかっていった。
□
深夜の酒場は、騒がしい一日の終わりとは思えないほど静かだった。
客はほとんど残っていない。
古い蓄音機から流れる穏やかな曲と、店主がグラスを磨く音だけが、薄暗い店内に響いている。
花火とあなたは、窓際の小さな席へ並んで座っていた。
向かい合わせではない。
一つの長椅子に、肩を触れ合わせて座っている。
窓の外では、ときおり警備隊が走り抜けていく。二人の手配書を持っている者もいたが、誰一人として酒場の中を覗こうとはしなかった。
「ちょっと、こっちに寄って」
花火が小声で言った。
「もう充分近くない?」
「君の充分と、花火の充分は違うの。ほら、早く」
言われるままに身体を寄せる。
肩だけでなく、腕までぴったりと重なった。
花火は窓の外へ一度だけ目を向け、それでも足りないと判断したらしい。あなたの頬を片手で掴み、そのまま自分のほうへ向けた。
「外を見ないの。顔を覚えられたらどうするの?」
「花火の顔を見てろってこと?」
「それなら警備隊にも見つからないでしょ」
「ずっと?」
「警備隊がいなくなるまで」
花火は平然と答えた。
二人の顔は、ごく近い位置にある。
吐息が触れるほどではない。それでも、互いの目に映る自分の姿まで確かめられそうな距離だった。
「じゃあ、しばらく見てるよ」
「そんなに素直に従われると、それはそれで面白くないなあ」
「目を逸らしたほうがいい?」
「駄目」
答えは思いのほか早かった。
花火自身も気づいたらしく、わずかに目を見開く。
けれどすぐに笑みを浮かべると、あなたの頬を指先で軽く押した。
「君って油断すると、すぐ余計なことするから。花火が見張っててあげる」
「そっか。じゃあ、俺も花火を見張るよ」
「花火は何もしないよ?」
「それは信用できないな」
「ひどい。こんなに親切に匿ってあげてるのに」
「一緒に追われてるだけでしょ」
「細かいことを気にする男の子は嫌われるよ?」
「花火に?」
「どうだろうね」
花火は答えを曖昧にしながら、頬に添えていた指をゆっくりと動かした。
輪郭をなぞり、耳のすぐ下で止まる。
触れ方はくすぐったいほど軽い。
けれど手を離すつもりはないらしい。
「今日一日で、一番いい眺め」
あなたが言うと、花火の指が止まった。
普段なら、すぐに何かを返してくる。
大げさに呆れてみせるか、もっと甘い言葉を要求してあなたを困らせるか。そのどちらかだと思っていた。
けれど花火は何も言わなかった。
赤い瞳があなたの顔を見つめたまま、ほんのわずかに揺れる。
「花火?」
「……安い口説き文句だなあって思ってたの」
「考えるの、ずいぶん長かったね」
「君の採点に時間がかかったの」
「何点?」
「教えてあげない」
花火はようやく頬から手を離した。
その代わりに、先ほどより深く長椅子へ腰掛け、肩へ身体の重さを預けてくる。
採点結果は聞けなかった。
ただ、離れるほど低くはなかったらしい。
テーブルの上には、二つのグラスが並んでいた。
花火のものは甘い果実酒。
あなたのものは、花火が色だけを見て適当に選んだ酒だ。
あなたが自分のグラスを取ろうとすると、花火が先にそれを奪った。
「これ、どんな味?」
「花火が選んだんでしょ」
「見た目で選んだから、味は知らないよ」
「飲んでみれば?」
花火はグラスをあなたへ差し出した。
「君が飲ませて」
「自分で持ってるのに?」
「花火は今、君の肩から動きたくないの」
あまりにも自然に言われ、あなたは思わず花火を見る。
花火も一拍遅れて、今の発言を振り返ったらしい。
けれど取り消す代わりに、グラスを持つ手を小さく揺らした。
「早く~。腕が疲れちゃう」
「はいはい」
あなたは花火の手からグラスを受け取った。
縁を口元へ運び、こぼさないようゆっくりと傾ける。
花火はあなたから目を離さないまま、一口だけ飲んだ。
唇がグラスから離れる。
「苦い」
「花火が選んだんだよ」
「君に似合うと思ったの」
「苦い人間だと思われてたんだ」
「違うよ。見た目は綺麗なのに、飲んでみるまで味が分からないところ」
「それ、褒めてる?」
「花火が興味を持ったんだから、褒め言葉に決まってるでしょ?」
今度は花火が自分のグラスを持ち上げる。
甘い果実酒をあなたの口元へ差し出し、そのまま飲むように促した。
言われるままに一口含む。
熟した果実の甘さが、舌の上へゆっくりと広がった。
「甘いね」
「嫌い?」
「好きかも」
「お酒の話?」
花火が楽しげに目を細めた。
先ほどまでとは違い、今度はどんな答えが返ってくるのか待ち構えている。
あなたは少しだけ考えるふりをしてから、花火の目を見た。
「花火の話」
花火の笑みが止まった。
グラスを持ったまま、何も言わない。
視線があなたの目から口元へ落ち、また戻ってくる。
やがて花火はグラスをテーブルへ置くと、顔を隠すようにあなたの肩へ額を押しつけた。
「むぅ~……」
「聞いたのは花火だよ」
「普通はもう少し迷うでしょ。お酒かもしれないし、花火かもしれない。どっちかなって、花火を楽しませるところじゃない?」
「迷わなかったから」
「面白くないなあ」
「怒った?」
「今、君の顔を見たら負ける気がするから見ないだけ」
「何に負けるの?」
「君には教えない」
花火の声は普段と変わらない。
けれど額を押しつけてくる力は、少しだけ強くなっていた。
扉の向こうで、複数の足音が止まった。
店主がグラスを磨く手を止める。
先ほどまで肩へ甘えるように寄りかかっていた花火が顔を上げ、一瞬で窓の外へ目を走らせた。
酒場の前には、警備隊の制服が三人分。
そのうち一人が手にしている紙には、見覚えのある二つの顔が並んでいた。
「まずいね」
花火の声から、酔いを装っていた柔らかさが消える。
「裏口は?」
「今から動いたら見つかるよ。窓も見張られてる」
「じゃあ、どうする?」
「花火に任せて」
花火はそう言うと、自分のグラスを持ち上げた。
残っていた果実酒を一息で飲み干し、空になったグラスをテーブルの端へ置く。
直後、酒場の扉が開いた。
冷たい夜気とともに、三人の警備隊員が店内へ踏み込んでくる。
「夜分に失礼する。男女二人組の不審者を捜している」
店主は磨いていたグラスを棚へ戻した。
「うちには、そんな客はいませんよ」
「確認させてもらう」
警備隊員たちの視線が、薄暗い店内をゆっくりと巡る。
眠り込んでいる客。
空になったテーブル。
そして、窓際の長椅子へ並んでいる二人。
手配書を持った隊員が、こちらへ一歩近づいた。
花火の身体が動く。
逃げようとしたのではない。
彼女は長椅子の上で向きを変えると、あなたの胸元へ身体ごと飛び込んできた。
肩へ腕が回る。
花火の髪が頬を掠め、甘い香りが一気に近づいた。
反射的に背中へ手を回すと、耳元で小さな声が聞こえる。
「恋人のふり。君、そういうの得意そうでしょ?」
「やったことないよ」
「なら、花火が教えてあげる」
花火はあなたの肩へ頬を寄せた。
窓の外から見えないようにするだけなら、そこまで近づく必要はない。
けれど彼女は、身体の間へ隙間を残さなかった。
あなたの胸元を掴んでいた指が服の生地を引き寄せる。
「そこの二人」
警備隊員の声が飛んだ。
あなたが振り向こうとすると、花火の腕が首元へ回された。
「見ちゃ駄目」
耳元で囁かれる。
「顔を見られるよ」
「それなら、どうする?」
「今から考えるの」
花火はそう答えながら、あなたの胸元へ顔を隠した。
しかし、警備隊員の足音は止まらない。
長椅子のそばまで近づいてくる。
「顔を見せてもらおう」
花火の肩が、僅かに揺れた。
怯えたわけではない。
何かを思いついたときに見せる、小さな笑いだった。
「ねえ、君」
「なに?」
「花火のこと、好き?」
突然の問いに、あなたは花火を見下ろした。
彼女は胸元へ顔を伏せたまま、警備隊員からは見えない位置で楽しそうに目を細めている。
「どうして今聞くの?」
「必要だから」
「何に?」
「演技に決まってるでしょ」
「だったら、好きなふりをすればいい?」
花火はすぐには答えなかった。
あなたの服を掴んでいた指が、ゆっくりと胸元を滑る。
やがて鎖骨のあたりで止まり、そのまま花火は顔を上げた。
「君が決めて」
赤い瞳が、間近からあなたを見つめていた。
警備隊員はすでにすぐそばまで来ている。
少しでも花火が振り向けば、手配書と顔を見比べられてしまう距離だった。
あなたは花火の腰へ腕を回し、その身体を抱き寄せた。
「これでいい?」
「まだ顔が見えるかも」
「じゃあ、もっと近く?」
「そうだね」
花火の返事は、妙に落ち着いていた。
けれど腰へ触れた手を止めることも、離そうとすることもない。
むしろ自分から膝を寄せ、あなたの身体へ深く向き直る。
長椅子が小さく軋んだ。
「おい、聞こえているのか」
警備隊員が苛立った声を上げる。
花火は肩越しにそちらを見ようともせず、あなたの頬へ片手を添えた。
「今、いいところなんだけど」
「捜査中だ。協力しろ」
「恋人と過ごしてるところを邪魔するのが、警備隊のお仕事なの?」
「顔を確認するだけだ」
「やだよ」
花火の指が、あなたの頬をするりと撫でる。
仕草だけを見れば、警備隊員を追い払うための演技だった。
けれど彼女の視線は、隊員ではなくあなたにだけ向けられている。
「ねえ。もっと恋人らしくしてみせてよ」
花火が囁く。
「俺に任せるんじゃなかったの?」
「君があんまりにも頼りないから、花火が手伝ってあげるの」
「具体的には?」
「そうだなあ」
花火の視線が、あなたの目からゆっくりと下りる。
鼻先を通り、口元へ。
そこで一度止まった。
普段なら、あなたが動揺した瞬間に笑うはずだった。
誤解したのかとからかい、すべて芝居だったと明かし、慌てる顔を楽しむ。
今の花火は笑わなかった。
頬へ添えられた指先が、輪郭を確かめるように動く。
「花火?」
名前を呼ぶと、花火の目があなたの目へ戻った。
「なに?」
「近くない?」
「近くしろって言ったのは君でしょ?」
「言ってないよ」
「花火には、そう聞こえたけど」
「都合のいい耳だね」
「君の声を聞くための耳だからね」
いつもの花火なら、その言葉も軽い調子で放っただろう。
けれど今の声は小さく、すぐそばにいるあなたにしか届かない。
警備隊員が呆れたように息を吐いた。
「もういい。次を調べるぞ」
足音が遠ざかっていく。
あなたは警備隊員の様子を確かめようとしたが、花火の手が頬を押さえたまま動かない。
「まだ見ちゃ駄目」
「でも、向こうへ行ったよ」
「振り返って確認されるかもしれないでしょ」
「花火なら音で分かるんじゃない?」
「今は君の声しか聞こえないから、分からないなあ」
花火が僅かに首を傾ける。
それに合わせて、二人の鼻先が触れそうなほど近づいた。
あなたは息を止めた。
花火にも、それが伝わったらしい。
赤い瞳に、ようやく悪戯っぽい色が戻る。
「緊張してる?」
「花火はしてないの?」
「どう見える?」
「余裕そう」
「なら、きっとそうなんじゃない?」
「手、震えてるけど」
花火の頬へ添えられた手を、自分の手で包む。
ほんの僅かだったが、その指先は確かに震えていた。
花火の目が丸くなる。
今度こそ何か言い返すと思った。
しかし彼女は手を引かなかった。
包まれた指を一度だけ動かし、自分からあなたの指へ絡める。
「これは演技」
花火が言った。
「警備隊はもう向こうへ行ったよ」
「まだ店の中にはいるでしょ」
「こっちは見てない」
「見てないように見せてるだけかも」
「じゃあ、いつまで続ける?」
「花火がもういいって言うまで」
警備隊員たちが店主と言葉を交わしている。
もう誰もこちらを見ていなかった。
それでも花火は離れない。
片手を恋人のような繋ぎ方をしながら、あなたの胸元へもう一方の手を置いている。
「君は?」
「なに?」
「君は、いつまで続けたい?」
「花火が離れるまで」
その答えを聞いて、花火の目元が僅かに緩んだ。
「それじゃ、朝になっちゃうかもよ」
「構わないよ」
「警備隊がいなくなっても?」
「花火が離れないなら」
花火は黙り込んだ。
警備隊へ向けていた意識さえ、どこかへ消えてしまったようだった。
赤い瞳に映っているのは、もうあなただけだった。
やがて、酒場の扉が開く。
「ここにはいない。行くぞ」
警備隊員たちが外へ出ていく。
足音は次第に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
店主が再びグラスを磨き始める。
蓄音機から流れる静かな曲だけが、二人の間を満たした。
「行ったよ」
あなたが囁く。
「うん」
花火は認めた。
それでも頬へ添えた手を下ろさず、身体を離そうともしない。
「演技は終わり?」
「そうだね」
「じゃあ、離れる?」
花火はあなたを見つめたまま、少しだけ考えた。
それから、絡めていた指をほどく。
離れてしまうのかと思った瞬間、その手はあなたの反対側の頬へ添えられた。
両手で顔を包み込まれる。
逃げ道を塞ぐような格好なのに、触れ方はどこまでも優しかった。
「花火?」
「君が悪いんだよ」
「何が?」
「花火が離れるまで続けるなんて言うから」
「嫌だった?」
「逆」
短い答えだった。
花火は今度こそ視線を逸らさない。
「花火が離れなかったら、君もずっとここにいるんでしょ?」
「いるよ」
「明日になっても?」
「うん」
「この街を出ても?」
「花火が隣にいてくれるなら」
「そっか」
花火は微笑んだ。
いつものように誰かを惑わせるためでも、あなたの反応を楽しむためでもない。
ただ嬉しさを隠しきれなかったような、柔らかな笑みだった。
「じゃあ、もう少しだけ捕まってて」
花火の両手に引かれ、互いの額が触れ合う。
鼻先が微かに重なる。
吐息が唇を掠めるたび、どちらの呼吸か分からなくなった。
「これも演技?」
問いかけると、花火は目を伏せた。
長い睫毛が微かに震える。
「もう警備隊はいないよ」
「うん」
「誰も見てない」
「知ってる」
「じゃあ、どうして?」
花火は答えなかった。
代わりに両手へ僅かに力を込め、あなたの顔をさらに近くへ引き寄せる。
あとほんの少し動けば、触れてしまう距離。
花火はそこで止まり、再びあなたを見つめた。
からかうような笑みはない。
逃げ道を用意する言葉もない。
ただ赤い瞳の奥に、期待するような光だけが揺れていた。
唇が触れそうな距離で、花火が囁いた。
「いただきま~す♡」
□
どれほど時間が経ったのか。
酒場の扉が、勢いよく開いた。
「お二人とも、ようやく見つけましたよ!」
全身をぼろぼろにしたサンポが立っていた。
服には紙吹雪がこびりつき、背中には玉座の背もたれが括りつけられている。なぜか両手には大量の花束を抱え、頭には冠まで載せていた。
どうやら最後に聞こえた拍手は、彼が本当にパレードの主役として迎え入れられた音だったらしい。
「いやあ、ひどい目に遭いました。とはいえ、結果的に戴冠式まで開かれましてね。転んでもただでは起きない。それがこのサンポ・コースキという――」
得意げに話していたサンポが、途中で口を閉じた。
肩を寄せ合って座る二人。
固く繋がれた手。
花火はあなたの肩から頭を上げようともしない。
サンポは目を瞬かせたあと、気まずそうに視線を逸らした。
「……おや。これはもしかして、私、とんでもなく間の悪いところへ?」
花火が片手を伸ばす。
テーブルの端に置かれていた赤いボタンを押した。
サンポの足元が開く。
「まったく、再会したばかりだというのに!」
床下へ落ちながら、サンポは慌てて花束を放り投げた。
色とりどりの花が宙を舞う。
そのうちの一輪を、あなたが空中で受け止める。
穴が閉じる。
直後、遠くからサンポの悲鳴と盛大な爆発音が聞こえた。窓の外を、玉座に乗ったサンポが流れ星のように飛んでいく。
あなたはサンポが投げた花を、花火の髪へ挿した。
花火は逃げなかった。
窓の外では、サンポがもう一度打ち上げられた。
七色の光が夜空へ広がる。
その明かりに照らされながら、花火は髪に挿された一輪へ触れた。
花火は微笑む。
嘘を吐くときの顔だった。
けれど、繋いだ手の温もりだけは消えなかった。
「君のこと、好きだよ」
「うん。俺も花火が好き」
今度はどちらも、嘘かどうかを尋ねなかった。
信じてしまえば負けなのか。
疑ってしまえば負けなのか。
そもそもこれは勝負なのか。
二人は笑う。
それ自体が、まるで答えと言うように。
難産も難産でした。花火むずすぎ。