『あなた』がスタレキャラと仲良く(意味深)なっちゃった! 作:ザワザワする人
ただの純愛じゃねぇぞ…。
何度でも愛の強さで立ち上がり、前に進む。
ド級の純愛……ド純愛だ!!!
「人間は、くだらないものを大切にしすぎるのよ」
ヘルタは端末から目を上げることなく言った。
彼女の机には宇宙各地から集められた希少な品々が無造作に置かれている。いずれも一般人が一生働いても手にできないほどの価値があるはずだが、ヘルタにとっては片づけるほどでもない物らしい。
そのひとつを落とさないよう慎重に移しながら、あなたは、それなら彼女にとって最も大切なものは何かと尋ねた。
「決まってるでしょう。私の頭脳よ」
迷いはなかった。
それどころか、なぜ分かりきったことを尋ねるのかとでも言いたげに、ヘルタがこちらを見る。
「知識も発明も名誉も、全部これがあれば作り直せるもの。この宇宙ステーションだって例外じゃないわ」
彼女の指先が、自らのこめかみへ軽く触れた。
「逆に言えば、これを失ったら何も残らないわね」
あなたは手元の品を棚へ収めた。
まさしくそのとおりだと思う。
今のヘルタが持つ地位も名誉も財産も、誰かに与えられたものではない。その圧倒的な才能によって勝ち取り、興味と探究心だけで築き上げたものだ。
仮にすべてを失ったとしても、彼女なら同じ場所まで容易に登り直せるだろう。
あなたには到底できないことだった。
一度失敗すれば立ち直るまでに時間がかかり、失ったものを取り戻せる保証もない。努力を重ねたところで、ヘルタと同じ景色を見ることなど一生できない。
けれど、それを不公平だとは思わなかった。
ヘルタは天才で、自分は凡人だ。
初めから比べるようなものではない。
「何?」
見つめていたことに気づいたらしく、ヘルタが眉を上げた。
やはりすごいと思っただけだと伝える。
大した意味のない感想だった。
しかし、ヘルタはすぐに端末へ視線を戻さなかった。
「あなた、そればかりね」
以前にも同じことを言った覚えがある。
自分には何をしているかすら分からなくても、彼女が途方もないことを成し遂げているのは分かる。だから、ほかに適切な言葉が見つからないのだと説明した。
「語彙が少ないだけじゃない?」
否定はできなかった。
あなたが素直に認めると、ヘルタは小さく笑った。
「まあ、いいわ。分かったふりをして的外れな感想を聞かせる人間よりはましね」
彼女が再び端末へ視線を落とす。
それで会話は終わったはずだった。
あなたも残りの品を棚へ収めようとしたが、最後のひとつに手を伸ばしたところで、ヘルタが何でもないことのように付け加えた。
「それに、私はあなたがそう言うの、嫌いじゃないわよ」
振り返る。
ヘルタはもうこちらを見ていなかった。
聞き返したところで、同じ言葉をもう一度口にしてはくれないだろう。あなたは少しだけ迷い、結局、何も言わずに作業へ戻った。
部下から尊敬されることを、彼女も悪くは思っていないらしい。
その程度に受け取っていた。
□
異変が起きたのは、その三日後だった。
ヘルタが調整していた装置は、宇宙空間に残された記憶の残滓を観測するためのものだった。
既に消滅した天体。
滅びた文明。
名も残らなかった人々。
物質が失われたあとにも残る情報を捉え、過去に起きた事象を復元する。成功すれば歴史という概念そのものを、観測可能対象へ変えられるかもしれない。
あなたには、説明を聞いても半分ほどしか理解できなかった。
それでも、途方もなくすごいことだけは分かる。
ヘルタが長い時間を費やしている研究だった。
彼女がひとつの対象へこれほど長く興味を持ち続けることは珍しい。普段は自由に出入りしている彼女のオフィスも、その日の朝から厳重な立ち入り制限がかけられていた。
あなたが呼ばれたのは、実験のためではない。
ヘルタが食事も休息も無視しているので様子を見てほしいと、研究員から頼まれただけだった。
入室を許されている者が限られているため、最近まで頻繁にオフィスへ呼ばれていたあなたに役目が回ってきたらしい。
認証を受けて中へ入る。
普段のオフィスとは様子が違っていた。
室内の中央には巨大な球体が浮かび、その周囲を幾重もの環状機構が取り囲んでいる。機構のあいだには青白い光が走り、絶え間なく数値が変動していた。
ヘルタは制御盤の前に立っている。
声をかけると、こちらへ顔を向けるより早く、不満そうな返事が飛んできた。
「遅い」
呼ばれたわけではないと説明しても、彼女は気にしない。
「あなたが来るなら、もっと早く来ればいいでしょう?」
無茶な理屈だった。
あなたは持ってきた食事を机へ置き、少しは休んだほうがよいと伝えた。
「今は無理。この数値を見れば分かるでしょう」
見ても何も分からない。
正直に答えると、ヘルタは呆れたように振り返った。
「本当に何も分からない顔ね」
だから食事を持ってくるくらいしかできないのだと伝え、机を指す。
ヘルタは数秒だけ食事へ目を向けた。しかし、すぐに興味を失い、制御盤へ戻ってしまう。
「あとで食べるわ」
同じことを前にも言われ、そのまま忘れていたはずだ。
今回は食べ終わるまで待つと伝える。
「好きにすれば?」
作業の邪魔にならないよう、あなたは壁際へ移動した。
そこにはいつもの椅子が置いてあった。
以前は資料が積まれていた椅子だが、あなたがオフィスへ呼ばれるようになってからは、不自然なほど常に空いている。
ヘルタが片づけたのか。
最初から誰かが整理しているのか。
尋ねたことはなかった。
腰を下ろし、実験が一段落するのを待つ。
ヘルタの指が制御盤を滑るたび、球体を取り囲む環が別々の方向へ回転した。内部の光が収束し、空中に不鮮明な映像が現れる。
かつて存在したのであろう街。
行き交う人々。
一瞬だけ映った空は紫色で、雲らしきものが上下逆さまに浮かんでいた。
そのどれもが輪郭を結ぶ前に消えていく。
過去の再現という説明は、正しかったらしい。
思わず見入っていると、ヘルタがこちらを向いた。
「どう?」
感想を求められていると気づくまで、少し時間がかかった。
とてもすごいと思う。
いつもと同じ感想をそのまま伝える。
「もう少し何かあるでしょう?」
残念ながら、ほかには何も浮かばなかった。
少なくとも、自分が生まれるより遥か昔に滅びた場所を見られるのは面白い。それだけ付け加えると、ヘルタは少し考え込むように球体を見上げた。
「面白い、ね」
彼女の指が再び動く。
環状機構の速度が上がった。
「なら、もう少し鮮明にしてあげる」
自分のために無理をする必要はないと慌てて伝える。
「勘違いしないで。私がそうしたいだけよ」
光が強くなる。
先ほどの街が、今度は鮮明な輪郭を持って現れた。
建物の表面へ刻まれた模様も、道を行く人々の服装も見える。音声は復元されていないが、彼らが互いに言葉を交わし、何かを笑っていることまで分かった。
滅びる前の光景だった。
あなたは椅子から立ち上がり、映像へ近づく。
「そこまでよ」
ヘルタに止められ、足を止めた。
環状機構から一定以上の距離を保つよう、床へ境界線が引かれている。
あなたは線の手前に立ち、過去の街を眺めた。
次の瞬間。
映像の中にいた一人が、こちらを見た。
偶然ではない。
紫色の空の下で、その人物だけが足を止めている。
顔は影になって見えない。
それでも、明らかにあなたを見ていた。
「離れて!」
ヘルタの声が飛んだ。
反応するより早く、映像が歪んだ。
街が崩れる。
人々が消える。
紫色の空が裂け、その奥から黒い何かが伸びてきた。
手のように見えた。
あなたの胸へ触れた瞬間、冷たさだけが身体を突き抜ける。
痛みはなかった。
けれど、自分の中から何かが抜け落ちていく感覚がした。
誰かに腕を引かれた。
床へ倒れ込む寸前、紫色の瞳が見える。
「私を見なさい」
ヘルタの両手が、あなたの頬を挟んでいた。
「目を閉じあなた、自分の名前は言える?」
答えようとした。
けれど、口が動かない。
自分の名前が、思い出せなかった。
「ふざけないで」
ヘルタの声が震えた。
初めて聞く声だった。
彼女の指が端末を操作する。
非常装置が起動し、オフィスからすべての光が消える。環状機構の回転が止まり、復元された過去の街が途切れた。
それでも、身体から何かが失われていく感覚は消えなかった。
ヘルタが何かを言っている。
聞き取れない。
頬へ触れていた温度も、遠ざかっていく。
最後に見えたのは、いつもなら何が起きても退屈そうにしている彼女が、ひどく険しい顔でこちらを見下ろしている姿だった。
その顔だけは、忘れたくないと思った。
□
目を覚ますと、ヘルタがいた。
白い天井。
見覚えのない寝台。
医療区画ではなく、彼女のオフィスに隣接した部屋らしい。
傍らには複数の装置が並び、身体へ繋がれた管の先では、絶えず数値が変動している。
ヘルタは椅子に座っていた。
あなたが意識を取り戻したことには、とうに気づいているはずだった。
それでも顔を上げない。
空中に広げた膨大な演算画面を睨み、いくつもの計算を同時に進めている。
呼びかけようとしても、声が出なかった。
代わりに指先を動かす。
寝台と布地が擦れる微かな音に、ヘルタが反応した。
「動かないで」
画面を閉じることもなく、彼女は立ち上がった。
あなたの瞳孔を確認し、脈へ触れる。続いて端末へ何かを記録してから、ようやく視線が重なった。
「気分は?」
身体の感覚が薄いこと。
さまざまなことが思い出せないこと。
それでも彼女のことは分かること。
時間をかけて伝えると、ヘルタは黙って聞いていた。
「当然よ」
最後の言葉にだけ反応する。
「私のことを忘れるなんて許さないから」
尊大な言葉だった。
いつものヘルタと変わらない。
そのことに安堵しながら、何が起きたのか尋ねる。
「あの装置が観測したのは、滅びた文明の記録だけじゃなかった。文明そのものを消滅させた現象まで、情報として再現してしまったのよ」
ヘルタは簡潔に説明した。
あなたへ触れたものは、肉体を傷つける存在ではない。
生命を奪うのでもない。
対象がこの宇宙に存在したという情報を、過去から未来まで遡って消滅させる。
「現象の固定は阻止したわ。だから、今すぐあなたが消えることはない。でも、完全には切り離せなかった」
ヘルタが画面のひとつを開く。
人の形を模した光の各所が、少しずつ黒く染まっていた。
「あなたの存在情報は現在も欠落し続けてる。まず身体の感覚が消え、次に記憶、周囲との繋がり。最後には、あなたが存在していた痕跡そのものがなくなる」
あなたが消えれば、彼女も自分を忘れるのか。
そう尋ねると、ヘルタの目が鋭くなった。
「そんなことを気にしてる場合?」
それでも聞きたかった。
あなたはもう一度、同じ質問をする。
「ええ。恐らくね」
短い返答だった。
「宇宙からあなたに関する情報が消えれば、私の記憶も例外じゃない。あなたが使っていた部屋も、書類も、会話の記録も、最初から存在しなかったことになるでしょう」
それなら、怖くはないと思った。
ヘルタが覚えていないのなら、悲しませることもない。
両親はもう他界し、兄弟もいない。
自分のような人間が一人いなくなったところで、宇宙は変わず続いていく。ステーションにも代わりはいくらでもいる。
その考えを伝えた瞬間、ヘルタの手が伸びた。
頬を掴まれ、無理やり顔を向けさせられる。
「二度と口にしないで」
冷たい声だった。
「あなたの代わりがいるかどうかを決めるのは、あなたじゃないわ」
彼女の指先に力が入る。
痛むほどではない。
けれど、逃がすつもりがないことだけは分かった。
「それに、私から奪っておいて、私が忘れるなら問題ないですって?」
ヘルタが顔を近づける。
「ずいぶん都合がいいのね。私はまだ、あなたを失ってもいいなんて一度も言ってないけど」
謝ろうとすると、指先で唇を塞がれた。
「謝罪もいらない。あなたは黙って治されなさい」
治す方法があるのかと尋ねる。
ヘルタは一拍も置かなかった。
「あるわ」
迷いのない答えだった。
「私が見つける」
それが、この宇宙に既に存在する方法なのか。
それとも、今から彼女が作る方法なのか。
違いは分からない。
それでも彼女が言うのなら大丈夫だと思った。
ヘルタは天才だ。
これまで、誰にも解けない問題を幾度も解決してきた。
今回もきっと、同じように答えを見つける。
安心したことを伝えると、ヘルタは目を細めた。
「ええ。信じてなさい」
頬から手が離れる。
彼女は再び椅子へ座り、演算画面を開いた。
「その代わり、私が終わるまで眠っていなさい。起きていられると気が散るわ」
眠くはない。
もう少し話していたいと伝えてみたが、ヘルタは聞き入れなかった。
「駄目。次に目を覚ますときには、全部終わってるから」
端末が操作され、管を通じて薬剤が注入される。
意識がゆっくりと沈んでいく。
ヘルタは画面を見ていた。
こちらへ背を向けたまま、振り返ろうともしない。
それでも眠る直前、彼女の声が聞こえた。
「だから、次もちゃんと私を覚えてなさい」
□
成功率、零。
ヘルタは表示された数値を消去した。
次の演算結果を開く。
成功率、零。
それも消す。
一億七千六百四十二万回目の演算だった。
肉体の再構成。
失われた情報の複製。
時間の逆行。
異なる世界線からの同一存在の抽出。
記憶を保存し、別の器へ移す方法。
どれも意味がなかった。
現象が侵食しているのは肉体でも魂でもない。
宇宙そのものに記録された、あなたがあなたであるための因果だ。新しい身体を用意しても、記憶を複製しても、その時点で因果に捕捉される。
過去へ戻しても同じだった。
発生前のあなたへ接触した瞬間、現象が時間を遡って侵食を再開する。
仮に記憶だけを残し、そっくりの人格を作れたとしても、それはあなたではない。
ヘルタにとって、その方法だけは最初から候補にすら入らなかった。
似ているものなどいらない。
同じ記憶を持つ肉体でも、同じ声で話す模造品でもない。
彼女が必要としているのは、今、隣室で眠っているあなた一人だけだった。
「随分と悪趣味な問題ね」
誰に言うでもなく呟く。
演算画面をすべて閉じ、別の接続先を開く。
既に、この宇宙で用いられる大半の知識は検証し終えていた。
博識学会。
天才クラブ。
忘却の庭に残された記憶。
模擬宇宙で再現可能な星神の権能。
今のヘルタが接触できる、あらゆる情報を利用した。
それでも答えは変わらない。
残り時間は短い。
あなたの指先は、もう温度を感じなくなっていた。記憶の欠落も進んでいる。目を覚ますたび、自分がどこにいるのかを思い出すまでの時間が長くなっていた。
ただし、ヘルタの名前だけは忘れていない。
彼女が毎回、最初に名乗らせているからだ。
マダム・ヘルタ。
あなたはまだ、そう呼ぶ。
そのたびに胸の奥へ溜まっていた焦燥が、ほんの少しだけ薄れる。
けれど、次も呼ばれる保証はない。
次に目を覚ましたとき、薄紫色の髪を見ても、誰なのか分からないかもしれない。
「そんなこと、許すわけないでしょう」
ヘルタは次の演算を始めた。
□
最初に異なる結果が表示されたのは、残り時間が一時間を切ったときだった。
成功率、百。
計算結果を見た瞬間、ヘルタは画面を閉じた。
見間違いではない。
だから閉じた。
同じ方法を除外した上で演算を再開する。
成功率、零。
条件を変える。
成功率、零。
参照する法則を変える。
成功率、零。
最初の方法へ戻す。
成功率、百。
「……気に入らないわね」
ヘルタは呟いた。
現象の根本は等価交換だった。
ひとつの存在を完全に消す代わりに、そこから生まれるはずだった未来の可能性を取り込んでいる。
あなたを解放するためには、奪われるはずだった可能性を別の誰かが補わなければならない。
ただ生きている人間を差し出すだけでは足りない。
あなた一人の生涯。
これから出会う人々。
交わす言葉。
小さな選択の積み重ね。
それによって生まれる天文学的数の分岐。
それらすべてと同等以上の可能性を持つ人物が、自らその未来を放棄する必要がある。
該当者は一人だけだった。
ヘルタ自身。
天才クラブ#83としての地位。
知恵の運命から得た力。
ヌースに認識されたという事実。
これまでの知識と研究成果。
宇宙ステーションの所有権。
銀河中に広まった名声。
彼女の頭脳が今後生み出す、数えきれないほどの発見。
そのすべてを差し出せば、現象はあなたから離れる。
ただ、ヘルタの命が失われるわけではない。
知識も才能も持たない一人の人間として、残りの生涯を送ることになる。
「ずいぶん私を安く見積もったものね」
画面へ向かって言う。
天才クラブの一員を、一人の凡人と交換する。
客観的に見れば、不釣り合いな取引だった。
銀河中の人間が反対するだろう。
ヘルタの知識と発明によって、今後救われる命もある。彼女一人の頭脳は、文明そのものを発展させる可能性を持っている。
対して、あなたは何者でもない。
ありふれた職員。
特別な才能もなく、後世へ名を残すほどの成果もない。
この宇宙へ与える影響だけを比べれば、答えは明白だった。
それでも、ヘルタは取引を拒むつもりはなかった。
もう一度だけ計算結果を確認する。
間違いはない。
その方法だけが、あなたを完全に救う。
ならば、ほかに考えることはなかった。
「本当に腹が立つわ」
椅子から立ち上がる。
隣室へ入ると、あなたはまだ眠っていた。
ヘルタは寝台の脇へ座り、顔を覗き込む。薬剤の影響で呼吸は安定していたが、身体を覆う光の半分以上が既に黒く染まっている。
頬へ触れる。
反応はない。
「ねえ」
眠っていると分かっていながら、声をかけた。
「私が何をしても、怒らないわよね?」
あなたなら、きっと怒るだろう。ヘルタは確信していた。
ヘルタにはもっと価値があると、聞きたくもないことを並べるだろう。
だから、知らせないことにした。
「あなたが悪いのよ」
彼女の指が、あなたの髪を梳く。
「私を信じるなんて言うから」
研究の内容など何ひとつ理解していないくせに、それでも大丈夫だと信じていた。
ヘルタなら治せる。
ヘルタはすごい。
目を覚ませばまた、それ以外の答えを知らないように何度も同じことを言うのだろう。
「仕方ないから、その期待には応えてあげる」
軽く、彼の唇に自分の唇を合わせた。
「………寝坊助ね」
あなたの胸に手を当てる。
こちらの拍動とは間反対に、とくん、とくん、と子守歌のようなリズムだった。
「…愛してる」
端末を開く。
宇宙ステーションの全権限を移譲する。
非公開の研究成果を整理し、危険性のあるものへ封印を施す。人形たちの遠隔操作を停止し、自分以外にも管理できるよう設定を書き換える。
銀河中の研究機関へ送るべき情報もまとめておいた。
すべての処理を終えたあと、ヘルタは自分の名前が表示された画面を眺めた。
保有権限は、0。
宇宙ステーションの主として築いたものは、そこには何も残っていなかった。
天才クラブへ退会の意思を示す必要はない。
取引が成立した瞬間、彼女が天才クラブ#83であった事実そのものが失われる。恐らく、ほかの会員たちも彼女を思い出せなくなるだろう。
ヌースの一瞥も同じだった。
二度と彼女へ向けられることはない。
「せっかく宇宙で一番優れた頭脳を持っているのに」
ヘルタは自分のこめかみへ触れた。
三日前、あなたと交わした会話を思い出す。
これさえあれば、すべてを作り直せる。
これを失えば、何も残らない。
間違ったことを言ったつもりはなかった。
今も、その考えが誤りだとは思わない。
自分の頭脳には、それだけの価値がある。
地位も名誉も研究成果も、すべてと引き換えにしてなお釣り合わないほどの価値が。
だからこそ、それを代償に選ぶ。
安いものを差し出してあなたを救ったところで、意味がない。
自分にとって最も価値のあるものを失って初めて、あなたを選んだことになる。
「覚えておきなさい」
眠るあなたの手を取る。
既に感覚のない指を、自分の指へ絡めた。
「私はあなたのために犠牲になるんじゃないわ」
寝台の傍に、取引を実行するための画面が現れる。
「私のものを失わないために、必要のないものを処分するだけ」
実行の項目へ指を置く。
最後に、確認が表示された。
一度成立すれば、取引を覆すことはできない。
失われた才能は戻らない。
同じ知識を学び直しても、かつての領域へ到達することはない。
これまでなら一目で理解できた数式さえ、ただの記号に見えるようになる。
永遠に。
ヘルタは、あなたの眠る顔を見た。
何も知らない顔だった。
全部終われば、また彼女を見て、すごい人だと言うのだろうか。
そのとき自分はもう、すごい人などではない。
あなたと変わらない。
どこにでもいる一人の凡人だ。
「まあ、いいわ」
ヘルタは笑った。
「あなたが私を何だと思っていようと、私があなたを選んだことには変わりないもの」
実行する。
光が室内を満たした。
これまで積み重ねてきた膨大な知識が、ひとつずつ剥がれ落ちていく。
自分の一部が失われるたび、ヘルタはあなたの手を強く握った。
痛くはない。
悲しくもない。
ただ、ひどく不愉快だった。
こんな回りくどい方法でなければ、あなたを救えない宇宙が。
最後まで別解を見つけられなかった自分が。
けれど、後悔はなかった。
最後の数式が思考から消えた瞬間、あなたを覆っていた黒い光が砕け散った。
身体へ血色が戻る。
呼吸は安定している。
失われた記憶も、存在の痕跡も、すべて修復されていく。
ヘルタはそれを確認しようとした。
しかし、寝台の脇にある装置の数値が読めない。
表示されている意味が分からなかった。
「……何よ、これ」
端末を手に取る。
操作方法を知っているはずだった。
以前なら考える必要もなく扱えた。
それなのに、どこを押せば現在の状態を確認できるのか分からない。
何度か触れ、見覚えのない画面を開く。
戻し方も分からない。
「使いにくいわね」
端末を寝台の脇へ放る。
それから、あなたの頬へ触れた。
温かい。
機械の数値など読めなくても、それだけは分かった。
「ほら」
僅かに震える息を吐く。
「治したでしょう?」
返事はない。
それでも構わなかった。
ヘルタはあなたの手を握ったまま、寝台の縁へ腰を下ろす。
自分が何者だったのかは覚えている。
何を成し遂げたのかも、天才と呼ばれていたことも。
ただ、その知識はもう彼女の中にはない。
研究の内容も再現できない。
宇宙ステーションへ命令する権限もない。
地位も名誉も、何ひとつ残っていない。
それでも、あなたのことだけは忘れなかった。
名前も。
声も。
彼女を見つめていた顔も。
何度も聞かされた、すごいという単純な感想も。
全部、残っている。
「十分ね」
ヘルタは呟いた。
「これだけあれば」
再び、彼女はあなたに唇を落とした。
□
次にあなたが目を覚ましたとき、ヘルタは床へ落ちた端末と格闘していた。
慣れない手つきで画面に触れ、何かを開いては消している。
その姿が珍しく、あなたはしばらく黙って見ていた。
「起きたなら、そう言いなさい」
視線へ気づいたヘルタが、不機嫌そうに端末を置く。
身体の感覚は戻っていた。
指先を動かす。
温度も分かる。
記憶にも欠落はない。
自分の名前を思い出せる。
目の前にいる彼女が、誰なのかも。
安堵しながらヘルタの名を呼ぶ。
「マダムはいらないわ」
なぜか、彼女はそう言った。
意味が分からず、あなたは顔を見つめる。
「私はもう、マダム・ヘルタじゃないもの」
ヘルタは淡々と説明した。
治療には代償が必要だったこと。
自分の地位も、研究成果も、才能も、すべて支払ったこと。
もう天才クラブの一員ではないこと。
宇宙ステーションの所有者でもなければ、これまでの発明を扱う知識もないこと。
あまりにも簡単に話すので、最初は冗談だと思った。
けれど、床に落ちた端末を見て理解する。
彼女は端末を拾うことさえしなかったのではない。
拾ったあと、元の画面へ戻せなくなったのだ。
あなたは寝台から起き上がろうとした。
身体は治っているはずなのに、うまく力が入らない。
ヘルタが肩へ手を置き、寝かせ直す。
「動かないで。治ったばかりなんだから」
なぜそこまでしたのか。
元に戻す方法はないのか。
自分などのために、彼女が失ってよいものではなかった。
次々と伝えるあなたを、ヘルタは黙って見下ろしていた。
やがて、不愉快そうに眉を寄せる。
「あなた、自分の価値を誰が決めると思ってるの?」
自分は何者でもない。
ヘルタとは違う。
自分一人へ彼女のすべてを費やすなど、釣り合っていない。
そう伝えると、肩へ置かれていた手に力が入った。
「だから、どうしてあなたが決めるのよ」
ヘルタが顔を近づける。
「私は宇宙で最も優れた頭脳を持っていた。その私が、私のすべてとあなたを比較したの」
紫色の瞳が、まっすぐにこちらを見る。
「あなたのほうが価値がある。計算結果に文句をつけないで」
もう、その計算を再現することはできない。
けれど、ヘルタは一切疑っていなかった。
自分が天才だったときに出した答えを。
何億もの可能性を検証した末、最後に選んだものを。
あなたは何も返せなかった。
ヘルタを尊敬していた。
誰よりも優れた頭脳を持ち、理解できないほど高度な研究を進める姿を見て、いつもすごいと思っていた。
その彼女から、すべてが失われてしまった。
しかも原因は、自分だった。
表情を見たヘルタが、小さく息を吐く。
「勘違いしないで」
彼女の手が頬へ触れた。
「私は天才じゃなくなったくらいで、私よりあなたを理解できる人間が現れるとでも思ってるの?」
口調は以前と変わらない。
尊大で、自信に満ちている。
ただし、その自信を裏づけていた才能だけが、もうどこにもない。
「私は自分で選んだの。あなたに頼まれたわけでも、誰かに強制されたわけでもない」
ヘルタの親指が、頬をゆっくり撫でる。
「だから、あなたが謝るのは筋違いよ」
それでも、彼女にとって最も大切だったものを失わせてしまった。
以前、ヘルタ自身が言っていた。
頭脳さえあれば、すべてを作り直せる。
それを失えば、何も残らない。
あなたがその言葉を伝えると、ヘルタは少し黙った。
忘れてはいないらしい。
やがて彼女は身体を起こし、寝台の脇へ腰を下ろした。
「訂正するわ」
床へ落ちた端末が、暗い画面へ二人の姿を映している。
もうヘルタには扱えない装置。
かつての彼女が作り、今の彼女には理解できないものだった。
ヘルタはそれを見ようとしなかった。
代わりに、あなたの手を取る。
指先が重なり、そのまま逃がさないよう絡められた。
「一番大切なものは、最後まで残るんじゃない」
握る力が、少しだけ強くなる。
「最後に残したものが、一番大切なのよ」
何も残らなかったわけではない。
ヘルタという名前。
尊大な性格。
自分に対する絶対的な自信。
そして、あなたに関する記憶。
彼女はそれらを残した。
自分で選び、自分の意思で守った。
あなたは握られた手を見つめた。
もう一度、謝ろうとする。
「聞いてなかったの?」
遮るように、ヘルタが顔を覗き込む。
「謝罪はいらないって言ったでしょ」
では、自分に何を求めるのか。
そう尋ねると、彼女は当然のように答えた。
「責任を取りなさい」
何の責任か分からなかった。
「私にはもう、あなたしか残ってない」
ヘルタは平然と言った。
悲壮感などない。
むしろ、逃げ道を見つけたあなたへ、先回りして塞ぐような声だった。
「私を一人にしない。勝手にいなくならない。私が呼んだら傍へ来る。それから、私に分からないことがあれば、あなたが説明しなさい」
自分に説明できることなど多くない。
そう伝えると、ヘルタが鼻を鳴らす。
「なら、一緒に調べればいいでしょう?」
簡単な話だった。
「以前の私なら、一人で何でもできた。でも、今は違う」
彼女は絡めた指を解かない。
「だから、あなたが必要よ」
失ったことを嘆くのではなく、足りないならあなたが補えばいいと言う。
そこには一片の遠慮もなかった。
「安心しなさい。あなたに全部任せるつもりはないわ。私もできることはする」
何ができるのか、今から考えるらしい。
それでもヘルタの顔には、不安も怯えもなかった。
新しい研究対象を見つけたときのように、ほんの少し楽しそうにさえ見える。
「それに、勘違いしないでね」
ヘルタが身を近づける。
額が触れそうな距離まで近づいた。
「私はあなたを自由にするために、全部捨てたわけじゃない」
紫色の瞳が細められる。
拒絶される可能性など、最初から考えていない目だった。
「あなたを残すために、私の全部を使ったの」
どこかへ行くのならついていく。
何かを始めるのなら隣にいる。
眠るのなら、目を覚ますまで傍で待つ。
もう宇宙ステーションの権限も、あなたを閉じ込めるための装置もない。
それでもヘルタは、以前よりも確信を持ってあなたの手を握っていた。
「最後まで責任を取りなさい」
あなたは返事をした。
直接口にした言葉は、ひどく平凡なものだった。
ヘルタの犠牲に釣り合う約束でもなければ、銀河中へ響くような誓いでもない。ただ、これからも彼女のそばにいると、それだけを伝えた。
「そう」
ヘルタは満足そうに頷いた。
絡めた指が、ようやく少しだけ緩む。
「最初からそう言えばいいのよ」
しかし、手そのものは離れなかった。
この先、彼女は何度も失敗するだろう。
端末の使い方を間違える。
誰でも解ける計算に時間がかかる。
公共の設備に腹を立て、料理を焦がし……(これは元々かもしれないが)、かつて自分で書いた論文さえ理解できずに閉じる。
そのたびにあなたは、彼女が失ったものを思い出す。
申し訳なくなる。
元へ戻す方法を探そうとする。
そしてヘルタは、そのたびに同じように否定するのだろう。
自分が捨てたものを、いつまで惜しんでいるのかと。
あれはもう、自分には必要ないのだと。
「ねえ」
ヘルタが呼ぶ。
あなたが彼女を見ると、紫色の瞳がすぐ近くにあった。
「今の私も、すごいと思う?」
少しだけ、答えに迷った。
以前と同じ意味では、もう言えない。
それでも、彼女がしたことを知った今、ほかの言葉は浮かばなかった。
あなたは素直に答えた。
ヘルタはしばらく黙っている。
やがて、ほんの僅かに口元を緩めた。
「そうでしょう?」
当然のような返事だった。
何も持たなくなったというのに、その顔だけは宇宙で一番自信に満ちていた。
「なら、これからもちゃんと見てなさい」
握られた手が引かれる。
「私があなたを選んだこと、一生かけて正解にしてあげるから」
まぁ多分姫子は書くと思います。
ただストーリーやってないのでちょっと待っててね。
やる気が出たら多分すぐなので。