『あなた』がスタレキャラと仲良く(意味深)なっちゃった! 作:ザワザワする人
ウロボロスがいてイチャイチャできっかよぉ!!!
星穹列車へ戻ってから、姫子は一度も立ち止まらなかった。
損傷箇所を確認し、今後の航路についてヴェルトと短く話し、開拓者たちには先に休むよう勧めた。パムから報告書を受け取ったときも、いつもと同じように穏やかに頷いている。
何も変わっていないように見えた。
ただ、彼女の右手だけが、ときおり左腕へ触れていた。
痛みに耐えるときの癖だった。
今の姫子の身体に、かつての風化の呪いは残っていない。それでも息が詰まり、自分の中へ引きこもりたくなると、彼女は無意識に左腕を抱く。
その癖を知っている者は、列車の中に一人しかいなかった。
彼は少し離れた場所から姫子を見ていた。
過去が暴かれた直後にも、彼女は同じ仕草をしていた。
母の遺したアトリエ。
座礁した星穹列車。
止まりかけていた少女の時間と、そこから描き出された、健康で大人びた理想の姿。
素子。
二人だけで守ってきた名前が、いまは皆の知るものとなった。
「姫子」
彼が呼ぶと、姫子は振り返った。
「どうしたの?」
声音まで、いつもと変わらない。
彼は姫子の腕を見た。
姫子もそれに気づき、左腕へ触れていた手を静かに下ろした。
「帰ろう。列車が待ってる」
「もう帰っているでしょう?」
「分かってるよ」
姫子は僅かに目を細めた。
その奥にあった張り詰めたものが、ほんの少しだけ緩む。
彼は手を差し出さなかった。
姫子も何も言わず、彼の隣を通り過ぎた。
赤い髪が肩を掠める。
そのまま姫子は一人で歩き出したが、数歩先で足を止めた。振り返らず、彼が追いつくのを待っている。
彼も急がなかった。
昔から、姫子は自分から待っているとは言わない。
ただ少しだけゆっくり歩き、隣へ並べる場所を残す。
彼はその空いた場所へ入った。
二人の肩は触れなかった。
それでも、姫子はもう左腕を抱かなかった。
□
夜間用の照明へ切り替わった展望車には、姫子が残したコーヒーだけがあった。
カップの縁には僅かに口をつけた跡がある。
だが、中身はほとんど減っていない。
彼は冷えたカップを持ち上げ、しばらく黒い水面を見つめた。飲もうとは思わない。淹れたばかりの姫子のコーヒーでさえ覚悟がいるのに、冷えたものへ挑む勇気はなかった。
そのまま片づけ、展望車の奥へ向かう。
姫子の自室を確認する必要はなかった。
星穹列車の中で、彼女が本当に一人になりたいときに行く場所は決まっている。
機関室へ続く扉を開けると、低い駆動音が服の内側まで響いた。
壁際には無数の計器が並び、淡い光を床へ落としている。
姫子は大きな観測窓の前にいた。
窓の向こうでは、星々が長い線となって流れている。姫子はその光を眺めながら、片手を硝子へ添えていた。
幼い頃から変わらない仕草だった。
答えの出ないことを考えると、姫子は空を眺めて窓に触れる。
病室でも、母のアトリエでもそうしていた。
窓の向こうに、自分の知らない答えがあるような顔をして。
「入ってきてもいいとは言っていないわ」
「鍵がかかってなかった」
「あなたなら、鍵をかけても入るでしょう?」
「壊さない。外すだけだ」
姫子の肩が微かに揺れた。
笑ったのかもしれない。
彼は隣まで行かず、少し離れた制御卓へ寄りかかった。
姫子との間には三歩ほどの距離が残る。
昔なら、姫子が不満そうに彼を見た。
素子なら、大袈裟にため息をついて自分から距離を詰めただろう。
今の姫子はどちらもしなかった。
ただ窓に触れたまま、流れていく光を見送っている。
「皆は?」
「休んでもらった。なのかは残ろうとしてたけど、丹恒が連れていったよ」
「そう」
「パムには、機関室で何か壊したら次の停車駅で降ろすと言われた」
「以前、冷却管を三本も破裂させたものね」
「あれは姫子の計算が間違ってたんだ」
「私の計算に合わせて調整するのが、あなたの仕事だったはずよ」
「十五年も前のことをよく覚えてるな」
口にしたあと、彼は視線を落とした。
姫子も黙る。
二人の間を流れていた懐かしさが、わずかに形を変えた。
十五年前。
姫子と素子と彼の三人で直していた星穹列車は、今も彼らを乗せて走っている。
肝心のエンジンが点火せず、何度も諦めかけた。
それでも姫子は設計図を引き続けた。
身体を満足に動かせない彼女に代わり、素子が工具を握った。彼もその隣で手を動かし、三人で夜遅くまで部品と格闘した。
素子の願いによって列車へ火が灯ったとき、そこに素子自身はいなかった。
彼女は姫子との運命を交換し、姫子を未来へ残した。
彼と姫子は、二人で発車レバーを倒した。
けれど、あの旅立ちが二人だけのものだったと思ったことは一度もない。
「今日、久しぶりに思い出したわ」
姫子が呟いた。
「何を?」
「最初に冷却管が破裂したとき、素子があなたを追いかけ回したこと」
「工具を投げながらな」
「あなたが逃げるからでしょう?」
「投げてくる奴から逃げるのは普通だ」
「先に謝ればよかったのよ」
「あれは俺だけのせいじゃない」
「まだ言うの?」
姫子がようやく振り返った。
声は呆れていたが、唇には小さな笑みが浮かんでいる。
彼も笑った。
その笑みは長く続かなかった。
姫子の視線が彼を通り越し、遠い記憶へ向かう。
「素子は、怒ると分かりやすかったわね」
「ああ」
「嬉しいときも、悲しいときも」
「あいつは隠すのが下手だったからな」
「私とは違って?」
姫子が尋ねても、彼は答えなかった。
姫子は彼の沈黙から答えを読み取ったらしく、窓へ視線を戻した。
「あなたは昔から、こういうときだけ黙るのね」
「正直に言ったら怒るだろ」
「黙っていても怒るわ」
「どうすればいいんだよ」
「自分で考えて」
それこそ昔から変わらない言葉だった。
彼は制御卓から身体を起こし、姫子へ歩み寄った。
三歩あった距離が、一歩まで縮まる。
「今日のこと、嫌だったか?」
姫子は窓の外を向いたままだった。
「何が?」
「皆に知られたこと」
「いつかは話すべきだったと思ってたわ」
「聞きたいのは、そういう話じゃない」
姫子の指先が窓を滑った。
星明かりを受けた爪が、細く光る。
「不思議ね」
彼女は静かに言った。
「あなたに知られることは、少しも怖くなかったのに」
彼は何も言わない。
「素子を描いた夜、最初に見せたのはあなたよ。あの子が初めて目を開けたときも、あなたは私の隣にいた」
「ああ」
「最後にあの子が何を選んだのか。目を覚ましたあと、私が最初に話したのもあなた」
「ああ」
「だからかしら。素子のことは、ずっと私たちだけのものだと思っていたの」
姫子は少しだけ俯いた。
長い赤髪が頬へ流れ、表情の半分を隠す。
「私の過去を知られることが怖かったわけじゃないわ。ただ、誰かの言葉で整理されていくのを聞いていると、あの子との時間が、別のものへ変わってしまうような気がした」
「変わらないだろ」
「分かっているわ」
「なら」
「分かっていても、そう感じてしまったの」
少し強い声だった。
姫子自身も驚いたらしく、言葉を止める。
彼は姫子を見た。
彼女は謝らなかった。
代わりに窓へ触れていた手を下ろし、右手で左腕を抱いた。
彼はその手首を掴んだ。
「痛くないわ」
「知ってる」
「もう、あの頃とは違うのよ」
「それも知ってる」
腕を抱いていた指を、一本ずつ解いていく。
姫子は抵抗しなかった。
最後の指が離れると、彼はその手を自分の掌へ収めた。
姫子の指は少し冷えていた。
「じゃあ、なぜ?」
「こうして欲しい顔をしてたから」
姫子は彼を見た。
驚いたように瞳を瞬かせ、それから少し困った顔で目を伏せる。
「昔から、あなたは時々ずるいわね」
「姫子にだけは言われたくない」
「私は何もしていないでしょう?」
「来てほしいのに呼ばない。隣にいてほしいのに、入ってきてもいいとは言ってないとか言う」
「あなたは来たでしょう?」
「来たけど」
「なら、何も問題はないわ」
姫子らしい答えだった。
彼は握った手を離さない。
姫子も振りほどこうとはしなかった。
「素子は、お前より分かりやすかった」
「そうね」
「でも、あいつも肝心なことは隠した」
姫子の瞳が揺れた。
「あなたにも?」
「ああ」
「例えば?」
少しだけ早い問いだった。
彼は答える前に姫子の横顔を見た。
「自分が怖いってこと」
姫子は黙った。
「お前を背負って列車まで歩く途中、何度も立ち止まった。お前がどんどん軽くなるのが怖いって、泣いてたよ」
「……私には、一度も」
「言えないだろ。お前が聞いたら、列車へ行くのをやめるから」
姫子の指が彼の手を握る。
「私はそこまで聞き分けのいい子ではなかったわ」
「知ってる。だから素子も、泣いたあとで何でもない顔をして歩いてた」
機械の低い音が、二人の間へ沈んでいく。
「あの日、お前は途中で眠ってた」
彼は続けた。
「素子は何度もお前を背負い直した。俺が代わると言っても、断った」
「どうして?」
「自分の役目だからって」
姫子は目を閉じた。
それは彼女の知らない、素子だけの時間だった。
けれど、彼が初めて話したわけではない。
姫子が目を覚ましたあと、彼は素子から聞いたことをすべて伝えた。二人の間に隠し事を残さないためではない。素子が生きていたことを、少しでも多く姫子へ残したかったからだ。
それでも、記憶は同じ形では蘇らない。
時間が経つたび、別の痛み方をする。
「素子は、お前の理想通りには生きてなかったよ」
「ええ」
「お前の代わりでもなかった」
「ええ」
姫子は目を開く。
「分かっているわ。あの子は、素子だった」
その名前を口にした声は、思っていたより静かだった。
彼は握っている手へ視線を落とした。
「俺は素子を覚えてる」
姫子が彼を見る。
「お前が描いた自画像だからじゃない。あいつが何を好んで、何を怖がって、どんな顔で笑ったのかを覚えてる。工具をなくすたびに俺のせいにしたことも、甘いものばかり食べてお前に注意されてたことも」
「あなたも一緒に食べていたでしょう?」
「それも覚えてる」
姫子の口元が緩む。
「でも、いま隣にいるのはお前だ」
笑みが止まった。
「素子を覚えていたら、お前のことを忘れるわけじゃない。お前が生きたら、素子が消えるわけでもない」
彼は一度言葉を切った。
「三人分の十五年を、そんなに狭い場所に押し込めなくていいだろ」
姫子は答えなかった。
星々の光が、彼女の瞳を横切っていく。
やがて、姫子が一歩近づいた。
繋いだ手が二人の間で下がる。
触れそうだった肩が、今度は僅かに重なった。
「少しだけ」
姫子が呟く。
「ん?」
「少しだけ、このままでいて」
「ああ」
彼はそれ以上近づかなかった。
姫子の方から額を肩へ預ける。
赤い髪が胸元へ流れた。冷えていた髪が服へ触れ、すぐに体温を持つ。
彼は空いている手を持ち上げた。
姫子の背へ触れる直前で止まる。
その気配を感じたのか、姫子が顔を上げずに呟いた。
「こういうときだけ、遠慮するのね」
「離れたいのか分からなかった」
「離れたい人間は、こんなことをしないでしょう?」
姫子は彼の腕を取り、自分の腰へ回した。
誘われるまま、彼は細い身体を抱き寄せる。
姫子が息を吐いた。
張りつめていたものが、その吐息と一緒に少しずつ解けていく。
「あなたには、全部知られているのね」
「嫌か?」
「いいえ」
姫子の指が彼の服を掴んだ。
「少しだけ悔しいわ」
「何で」
「私の知らない素子を、あなたが知っているから」
「素子の知らないお前も、俺は知ってるよ」
「例えば?」
「コーヒーが昔より不味くなった」
背中へ軽い衝撃が来た。
姫子が彼の背を叩いたらしい。
「痛い」
「嘘ね」
「素子はもっと手加減してくれた」
姫子の手が止まる。
彼はまずいことを言ったと思った。
けれど、姫子は彼の胸へ額をつけたまま、静かに尋ねた。
「素子とは、随分仲がよかったものね」
「急にどうした」
「何でもないわ」
「怒ってる?」
「怒っていない」
「じゃあ、離してくれないか。服を掴む力が強くなってる」
姫子は手を緩めなかった。
むしろ指先を服へ深く引っかける。
「素子は、あなたに何か言っていた?」
「色々」
「私の知らないことも?」
「あったかもしれない」
姫子が顔を上げた。
穏やかに笑っていた。
ただし、目は少しも笑っていない。
「いま話しておいた方がいいと思うわ」
「何で尋問みたいになってるんだよ」
「素子のことを覚えている者同士、記憶を共有しているだけよ」
「顔が怖い」
「そんなことはないでしょう?」
姫子の口調は柔らかい。
それが余計に怖かった。
彼はしばらく迷い、観念する。
「お前を頼むって言われた」
姫子の表情から、少しだけ力が抜けた。
「それは、知っているわ」
「それから、列車を二人で発車させてほしいって」
「ええ」
「あとは……」
「まだあるの?」
彼は口を閉じた。
姫子は待っている。
昔からそうだった。
答えを急かさず、逃げられないくらい真っ直ぐに見る。
「俺と旅をしたかったって」
姫子の指が動いた。
彼の服を掴んでいた手がゆっくり離れ、今度は胸元へ平らに置かれる。
「そう」
一言だけだった。
姫子は目を伏せている。
「気になるか?」
「何が?」
「素子が俺と旅をしたかったこと」
「私と一緒に、でしょう?」
「まあ」
「なら、何もおかしくないわ」
平静な声だった。
けれど姫子は彼の胸から離れず、視線も上げない。
彼は少しだけ笑った。
「嫉妬してる?」
「していないわ」
「そうか」
「ええ」
「じゃあ、よかった」
「……何が?」
姫子が顔を上げた。
彼は笑いを堪えながら、彼女の髪を指先で整える。
頬へかかっていた一房を耳の後ろへ流すと、姫子の瞳が僅かに細くなった。
「お前、昔から嘘が下手だな」
「誰と比べているの?」
「誰とも」
「本当に?」
「本当だよ」
しばらく見つめ合う。
やがて姫子の方から目を逸らした。
腰へ回された彼の腕を外そうとはしない。
「素子のことを嫌っているわけではないの」
「分かってる」
「あの子があなたを大切に思っていたことも、嬉しいわ」
「ああ」
「それでも、少しだけ複雑なの」
「どうして?」
「自分で考えて」
姫子はそれ以上説明しなかった。
彼も聞かなかった。
ただ、腕の中にいる彼女を少しだけ強く抱く。
姫子は一瞬身体を固くしたあと、自分から距離を詰めた。
「ねえ」
「ん?」
「最初に列車を発車させた日、怖くなかった?」
「怖かったよ」
「あなたでも?」
「お前が航路計算を間違えて、恒星に突っ込むかと思ってた」
「真面目に答えて」
「真面目だ」
姫子は彼の胸を叩こうとする。
その腕を、今度は先に掴んだ。
細い手首を包むと、姫子の動きが止まる。
「怖かった」
彼は改めて答えた。
「あの列車を動かしたら、本当に素子のいない時間が始まる気がした」
姫子は静かに彼を見つめる。
「あの日の俺には、それを止める方法がなかった。列車を動かさずにずっと残ることも、お前を一人で行かせることもできなかった」
「それで、隣にいたの?」
「ああ」
「今も?」
彼は姫子の手首から力を抜き、そのまま掌へ指を滑らせた。
指先が触れる。
姫子は逃げなかった。
「今も」
指を絡めるほど強くはない。
ただ、二人の手が離れないよう、ゆっくりと握る。
「お前が誰なのか、全部分かったつもりはない。素子から何を受け取って、何を自分で選んだのかも、俺が決めることじゃない」
姫子の瞳に、星の光が映る。
「だから、この先も隣で見てる。それじゃ足りないか?」
姫子は答えなかった。
代わりに彼の肩へ額を戻す。
触れた頬が、先ほどより少し温かい。
「いいえ」
小さな声が胸元へ届く。
「十分よ」
□
星穹列車を発車させる時刻が来た。
運転席には、姫子と彼の二人だけが残った。
すべての計器は正常に作動している。
エンジンの出力も安定していた。十五年前のように、発車前から冷却管の心配をする必要はない。
姫子は発車レバーの前へ立つ。
彼もその隣に並んだ。
「最初のときと同じね」
「十五年も経ってる」
「ここだけを見れば、同じでしょう?」
姫子の手がレバーへ触れる。
彼もその隣へ手を置いた。
手の甲が僅かに重なる。
ほんの少し動かせば離れる距離だったが、どちらも避けなかった。
「ねえ」
姫子は正面を向いたまま呼んだ。
「何だ?」
「素子があなたと旅をしたかったのなら、その願いは叶ったと思う?」
彼はすぐには答えなかった。
遠くで、動力炉の出力が上がっていく。
列車全体へ振動が広がり、長く眠っていた心臓が目を覚ますような音が響いた。
「本人に聞いてくれ」
「意地悪ね」
「ずっと隣にいるだろ」
姫子が横を向いた。
彼は前を見たままだった。
発車レバーの上で、重なった手だけが離れない。
しばらくして、姫子の指が僅かに動いた。
彼の小指へ触れ、そこへそっと絡む。
「ええ」
姫子は微笑んだ。
「そうだったわね」
二人でレバーを倒す。
遠くで汽笛が鳴った。
窓の外の光が伸びる。
星穹列車はゆっくりと速度を上げ、二相楽園を離れていく。
過去を置き去りにするためではない。
三人で直した列車に、これからも三人分の記憶を乗せていくために。
姫子は前を向いていた。
彼も同じ景色を見る。
発車操作を終えたあとも、小指だけは絡んだままだった。
□
それからいくつもの星を越えた。
姫子と彼の関係へ、はっきりした名前がついたのは、ある小さな星で一夜を明かした頃だった。
告白らしい言葉はなかった。
宿泊施設の受付で、姫子が二人分の鍵ではなく、一つだけ鍵を受け取った。
彼が理由を尋ねると、姫子は当然のように答えた。
「部屋が一つしか空いていないそうよ」
あとから確認すれば、空室はいくつもあった。
けれど彼は何も言わなかった。
宿へ向かう途中、姫子が腕を絡める。
肩へ頬が触れそうなほど近づいても、彼女は前を向いたままだった。
「いまさら、嫌だとは言わないでしょう?」
「何の話だ?」
「なら、言葉にした方がいいかしら」
「いや。分かってる」
「本当に?」
「さすがにな」
「十五年もかかったのに?」
彼が答えるより先に、姫子は足を止めた。
人気のない細い路地だった。
夕暮れの光が屋根の隙間から差し込み、赤い髪の輪郭を照らしている。
姫子は彼の腕を引く。
振り返った瞬間、柔らかなものが頬へ触れた。
すぐに離れていく。
何が起きたのか理解するまで、わずかに時間がかかった。
姫子はすぐ近くにいた。
からかうような笑顔ではない。
少しだけ緊張し、それを悟られないよう澄ました顔をしている。
「これなら分かった?」
「ああ」
「遅いわね」
「心の準備が」
「十五年あったでしょう?」
「こうなるとは思わなかった」
「私は何度も伝えていたわ」
「いつ?」
「最初に列車を発車させた日も、あなたの手を握ったでしょう?」
「あれは怖かったからだと思ってた」
「二相楽園から帰った夜も、あなたの胸へ寄りかかったわ」
「疲れてたからだと」
姫子は呆れたように彼を見つめた。
「あなた一人に任せるのが不安だったという、素子の判断は正しかったようね」
「素子が何を言ってたって?」
「秘密よ」
姫子は再び歩き出した。
今度は腕だけではなく、彼の指へ自分の指を絡める。
捕まえるような強さだった。
彼も握り返した。
それから二人は恋人と呼ばれる関係になった。
列車の中で何かが大きく変わったわけではない。
姫子は変わらずナビゲーターを務め、彼は機関部の維持と調整を担当する。
人前では、以前と同じように見えた。
ただ、展望車のソファへ並んで座るとき、二人の間にはもう隙間がなかった。
姫子が眠れば彼の肩へ寄りかかり、彼が資料を読んでいれば、いつの間にか片腕へ自分の腕を絡めている。
三月なのかは気づいた日に大騒ぎした。
ヴェルトは驚かなかった。
穹は「開拓者はクールに去るぜ…」と言いながら自分の部屋に戻っていった。
丹恒は本から顔も上げず、ようやくか、と呟いただけだった。
パムは公共の場所でべたべたするなと注意した。
姫子はそのたびに微笑み、いったんは彼の腕を離す。
そしてパムがいなくなると、何事もなかったように指を絡め直した。
□
今夜の展望車両にも、二人しかいなかった。
窓の外には次の目的地となる星が見えている。
薄い青色の星を、淡く輝く環が取り巻いていた。
姫子は彼の隣へ座り、肩へ頭を預けている。
テーブルには二つのカップが置かれていた。
一つは空になっている。
彼の前にある方は、ほとんど減っていなかった。
「飲まないの?」
「冷めるのを待ってる」
「先ほどから同じことを言っているわ」
「熱いのが苦手なんだ」
「あなた、昔は熱いまま飲んでいたでしょう?」
「味を感じない方がいいときもある」
姫子は顔を上げた。
「何か不満が?」
「何も」
「なら、飲めるわね」
カップを持たされる。
逃げ道はなかった。
彼は覚悟を決め、一口飲んだ。
苦味のあとから、説明しがたい酸味が追いかけてくる。
姫子は期待するように彼を見ていた。
「どう?」
「新しい味だな」
「気に入った?」
「開拓には犠牲がつきものだと思った」
彼の手の甲を、姫子がつねった。
「痛い」
「嘘ね」
「昔より力が強くなってる」
「誰と比べているのかしら」
「誰とも比べてない」
姫子はまだ手を離さない。
指先で彼の手の甲を摘んだまま、何気ない声音で尋ねる。
「素子は、もっと手加減してくれた?」
「前にもその話しただろ」
「答えは聞いていないわ」
彼はカップをテーブルへ戻した。
姫子はいまだに素子の名前を口にするとき、ほんの少しだけ彼の顔を見る。
悲しみからではない。
彼がどんな表情をするのか、確かめようとしている。
「素子は手加減しなかったよ」
「そうだったかしら」
「工具を投げられて、頭にたんこぶができた」
「あなたが悪いことをしたのでしょう?」
「あいつが工具をなくしたから、また俺のせいにするのかって言っただけだ」
「なくしたのはあなたではないの?」
「違う。あの日は素子が持ってた」
「随分よく覚えているのね」
穏やかな声だった。
その裏にあるものを隠せていない。
彼は姫子の肩を抱き、自分の方へ引き寄せた。
姫子は素直に寄りかかる。
けれど、頬が少しだけ不満そうに膨らんでいた。
「まだ嫉妬してる?」
「していないわ」
「素子に?」
「していない」
「じゃあ、こっちを見てくれ」
「星を見ているの」
「ずっと見てるだろ」
姫子は窓へ顔を向けたまま、彼の胸元へ手を置いた。
「素子は、あなたのことが好きだったのかしら」
問いは静かだった。
彼はすぐには答えなかった。
姫子は待っている。
少しだけ不満そうに、それでも彼から離れず、服の上を指先でなぞっていた。
「聞いたことはある」
姫子の指が止まる。
「本人に?」
「ああ」
「何と答えたの?」
「秘密にしてくれって」
「私にも?」
「特に姫子には言うなって」
「……そう」
姫子は短く答えた。
伏せられた睫毛の奥に、いくつもの感情が揺れている。
素子への懐かしさ。
知らなかったことへの寂しさ。
そして、大切な人との間に自分の知らない時間があることへの、小さな嫉妬。
「気になる?」
「ならないと言ったら、嘘になるわね」
「正直だな」
「恋人に隠し事をされるのは、あまり好きではないもの」
「素子との約束だったから」
「分かっているわ」
姫子の声は責めていなかった。
ただ、彼の胸元へ置かれた指が、服を少しだけ摘んでいる。
「それで?」
「何が?」
「あなたは、何と答えたの?」
彼は姫子を見た。
すぐ近くにある横顔は、平静を装っている。
けれど彼が答えるまで離れるつもりはないらしい。
「断ったよ」
姫子がゆっくり振り向く。
「どうして?」
「俺が好きだったのは、姫子だったから」
長い沈黙が落ちた。
窓の外では、星々の光が緩やかに流れている。
姫子は彼を見たまま、何度か瞬いた。
「その話も、初めて聞いたわ」
「聞かれなかったからな」
「言ってくれてもよかったでしょう?」
「言ったら困ったんじゃないか」
「そうね。昔の私は、困ったと思うわ」
「ほら」
「でも、今の私は違うでしょう?」
姫子の指が胸元から肩へ移る。
ゆっくりと距離が縮まる。
赤い髪が彼の腕に流れ、淡い香りが触れた。
「今は?」
吐息が触れそうな距離で、姫子が尋ねる。
彼は答えず、姫子の頬へ手を添えた。
掌へ伝わる温度。
姫子はその手に自分の手を重ねる。
視線を外さないまま、僅かに首を傾けた。
唇が触れた。
長くはない。
それでも、離れたあとも姫子は目を閉じたままだった。
頬へ添えられた手を逃がさないよう、指を重ねている。
やがて瞼を上げ、すぐ近くから彼を見つめた。
「今は、言ってくれて嬉しいわ」
「遅すぎたけどな」
「本当よ。十五年も黙っているなんて」
「お前も何も言わなかっただろ」
「私は態度で示していたわ」
「分かりにくかった」
「あなたが鈍いだけでしょう?」
姫子は少しだけ身体を離した。
けれど、頬へ添えられた彼の手はそのままだった。
名残惜しそうに、その掌へ触れている。
「でも、素子を断ったのね」
「そこに戻るのか?」
「大切なことよ」
「嬉しそうだな」
「そんなことはないわ」
否定しながら、姫子の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
彼は親指で姫子の頬をなぞる。
「素子は次の日、何もなかった顔で姫子のところへ戻った」
「そうでしょうね。あの子は、肝心なことだけ隠すのが上手だったから」
「お前もな」
「私は隠していないわ」
「じゃあ、今何を考えてる?」
姫子は彼の胸へ頬を寄せた。
逃げるような仕草だった。
「素子に勝った、とは思っていないわ」
「聞いてないけど」
「少しも」
「そうか」
「ええ」
「じゃあ、素子の話をもう少し」
「今夜はもういいわ」
姫子の腕が彼の腰へ回る。
これ以上、素子との思い出を語らせたくないらしい。ただし言葉で止めるのは大人げないと思っているのか、抱きつくことで口を封じようとしている。
彼は笑いを漏らした。
「何がおかしいの?」
「別に」
「笑っていたでしょう?」
「恋人がかわいいと思っただけだよ」
姫子の身体が僅かに固まる。
こういう言葉には、今でも慣れていない。
平静を装い、何でもないように受け流そうとする。
けれど、彼の胸へ触れている耳が少し赤くなっていた。
「急に、どうしたの?」
「思ったから言った」
「そういう言葉は、もう少し時と場所を選ぶべきではないかしら」
「二人しかいないけど」
「そういう問題じゃ……」
「嫌だった?」
姫子は答えなかった。
彼の腰へ回した腕へ力を入れる。
それが答えだった。
彼も姫子の背へ腕を回した。
長い髪を避けるように、肩甲骨の辺りへ掌を置く。
姫子はしばらく彼の鼓動を聞いていた。
「素子も、あなたのこういうところが好きだったのかしら」
「またその話?」
「最後に一つだけ」
「何だ?」
「素子に告白されたとき、少しも迷わなかった?」
彼はすぐには答えなかった。
姫子の腕へ、再び僅かな力が入る。
「迷ったよ」
姫子が顔を上げた。
瞳の奥に、小さな不安がよぎる。
「素子を傷つけると思ったから」
彼は続けた。
「でも、答えは変わらなかった」
「私が好きだったから?」
「ああ」
姫子は彼を見つめていた。
それから、今度は自分から彼の頬へ手を添える。
指先が耳の前をなぞり、髪に触れる。
「なら、許してあげる」
「何を?」
「秘密にしていたこと」
「ずっと怒ってたのか?」
「怒っていないわ」
「はいはい」
「本当よ」
姫子は不満そうに眉を寄せた。
その表情があまりに昔と同じで、彼はまた笑ってしまう。
今度は逃がさないように、姫子が両手で彼の頬を挟んだ。
「笑わないで」
「だって、お前」
「まだ言うの?」
「言わない」
「本当に?」
「ああ」
姫子は疑うように彼を見つめた。
やがて納得したのか、頬を挟んでいた手を少し緩める。
その隙に、彼は姫子の手首を取り、掌へ口づけた。
姫子が言葉を失う。
驚いた瞳が、間近で揺れた。
「姫子も、そういう顔するんだな」
「あなたが急に……」
「時と場所を選んだ」
「選べていないわ」
姫子は手を引こうとした。
彼は強く掴まず、離れていく指先へ自分の指を絡めた。
それだけで姫子の動きが止まる。
「離さないの?」
「離してほしい?」
姫子は答えない。
窓の外へ視線を向けたまま、絡めた指を握り返した。
もう一方の手で彼の腕を抱き、自分から肩へ寄りかかる。
「……このままでいいわ」
恋人になっても、姫子は素直ではない。
彼もそれを直してほしいとは思わなかった。
言葉の代わりに触れる指。
呼ばないまま待っている背中。
離れてほしくないときだけ、少し強くなる腕。
彼には、それで十分伝わっている。
しばらく二人で、窓の外を見ていた。
次の星が少しずつ大きくなる。
「明日には着くわ」
姫子が言った。
「らしいな」
「何が待っていると思う?」
「行ってみれば分かる」
「何の準備もせずに?」
「先に走り出して、それから探してもいいんだろ」
遠い昔、母のアトリエで姫子が言った言葉だった。
姫子は顔を上げた。
「覚えていたのね」
「ああ」
「私の言ったことを?」
「忘れないよ」
「素子のことも?」
「ああ」
姫子は少しだけ目を伏せる。
絡んでいる指を見る。
「私のことも?」
彼は握っている手へ力を込めた。
「お前のことは、これからも隣で覚えていく」
姫子は何も言わなかった。
けれど、頬に浮かんだ笑みは隠さなかった。
肩へ戻ってきた温度が、先ほどより近い。
窓の外には、まだ長い夜が広がっている。
その向こうで、新しい恒星の光が淡く滲んでいた。
二人の間には、もう一人分の記憶がある。
失った少女の席を埋めるのではなく、空けたまま一緒に進んでいく。
過去を置き去りにせず、未来へ縛りつけられもせず。
星穹列車は夜を越えていく。
姫子が目を閉じた。
眠ったわけではない。
彼の肩へ頬を預け、指を絡めたまま、遠く響く列車の音を聞いている。
「行こう、姫子」
彼が呼ぶ。
姫子は目を開けた。
すぐには顔を上げず、絡めた指へゆっくりと力を込める。
「ええ」
少し遅れて、彼の方を見る。
星の光が金色の瞳へ微かに揺れていた。
「これからも、一緒に行きましょう」
遠くで汽笛が響く。
その音を追いかけるように、二人を乗せた列車は、まだ名前のない夜明けへ進んでいった。
次回!!完全に誰を書くか決まってない!!
夏祭りに行く浴衣高校生緋英!!
彼氏君に可愛く思って欲しくて髪型を変えるヒアンシー!!
オリ主の芸術に分からされるパール!!
ぜってぇ見てくれよな!!