『あなた』がスタレキャラと仲良く(意味深)なっちゃった!   作:ザワザワする人

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二相楽園の話が色々終わった後みたいなところのお話にしました。
ウロボロスがいてイチャイチャできっかよぉ!!!



姫子

 

星穹列車へ戻ってから、姫子は一度も立ち止まらなかった。

 

損傷箇所を確認し、今後の航路についてヴェルトと短く話し、開拓者たちには先に休むよう勧めた。パムから報告書を受け取ったときも、いつもと同じように穏やかに頷いている。

 

何も変わっていないように見えた。

 

ただ、彼女の右手だけが、ときおり左腕へ触れていた。

 

痛みに耐えるときの癖だった。

 

今の姫子の身体に、かつての風化の呪いは残っていない。それでも息が詰まり、自分の中へ引きこもりたくなると、彼女は無意識に左腕を抱く。

 

その癖を知っている者は、列車の中に一人しかいなかった。

 

彼は少し離れた場所から姫子を見ていた。

 

過去が暴かれた直後にも、彼女は同じ仕草をしていた。

 

母の遺したアトリエ。

 

座礁した星穹列車。

 

止まりかけていた少女の時間と、そこから描き出された、健康で大人びた理想の姿。

 

素子。

 

二人だけで守ってきた名前が、いまは皆の知るものとなった。

 

「姫子」

 

彼が呼ぶと、姫子は振り返った。

 

「どうしたの?」

 

声音まで、いつもと変わらない。

 

彼は姫子の腕を見た。

 

姫子もそれに気づき、左腕へ触れていた手を静かに下ろした。

 

「帰ろう。列車が待ってる」

 

「もう帰っているでしょう?」

 

「分かってるよ」

 

姫子は僅かに目を細めた。

 

その奥にあった張り詰めたものが、ほんの少しだけ緩む。

 

彼は手を差し出さなかった。

 

姫子も何も言わず、彼の隣を通り過ぎた。

 

赤い髪が肩を掠める。

 

そのまま姫子は一人で歩き出したが、数歩先で足を止めた。振り返らず、彼が追いつくのを待っている。

 

彼も急がなかった。

 

昔から、姫子は自分から待っているとは言わない。

 

ただ少しだけゆっくり歩き、隣へ並べる場所を残す。

 

彼はその空いた場所へ入った。

 

二人の肩は触れなかった。

 

それでも、姫子はもう左腕を抱かなかった。

 

 

夜間用の照明へ切り替わった展望車には、姫子が残したコーヒーだけがあった。

 

カップの縁には僅かに口をつけた跡がある。

 

だが、中身はほとんど減っていない。

 

彼は冷えたカップを持ち上げ、しばらく黒い水面を見つめた。飲もうとは思わない。淹れたばかりの姫子のコーヒーでさえ覚悟がいるのに、冷えたものへ挑む勇気はなかった。

 

そのまま片づけ、展望車の奥へ向かう。

 

姫子の自室を確認する必要はなかった。

 

星穹列車の中で、彼女が本当に一人になりたいときに行く場所は決まっている。

 

機関室へ続く扉を開けると、低い駆動音が服の内側まで響いた。

 

壁際には無数の計器が並び、淡い光を床へ落としている。

 

姫子は大きな観測窓の前にいた。

 

窓の向こうでは、星々が長い線となって流れている。姫子はその光を眺めながら、片手を硝子へ添えていた。

 

幼い頃から変わらない仕草だった。

 

答えの出ないことを考えると、姫子は空を眺めて窓に触れる。

 

病室でも、母のアトリエでもそうしていた。

 

窓の向こうに、自分の知らない答えがあるような顔をして。

 

「入ってきてもいいとは言っていないわ」

 

「鍵がかかってなかった」

 

「あなたなら、鍵をかけても入るでしょう?」

 

「壊さない。外すだけだ」

 

姫子の肩が微かに揺れた。

 

笑ったのかもしれない。

 

彼は隣まで行かず、少し離れた制御卓へ寄りかかった。

 

姫子との間には三歩ほどの距離が残る。

 

昔なら、姫子が不満そうに彼を見た。

 

素子なら、大袈裟にため息をついて自分から距離を詰めただろう。

 

今の姫子はどちらもしなかった。

 

ただ窓に触れたまま、流れていく光を見送っている。

 

「皆は?」

 

「休んでもらった。なのかは残ろうとしてたけど、丹恒が連れていったよ」

 

「そう」

 

「パムには、機関室で何か壊したら次の停車駅で降ろすと言われた」

 

「以前、冷却管を三本も破裂させたものね」

 

「あれは姫子の計算が間違ってたんだ」

 

「私の計算に合わせて調整するのが、あなたの仕事だったはずよ」

 

「十五年も前のことをよく覚えてるな」

 

口にしたあと、彼は視線を落とした。

 

姫子も黙る。

 

二人の間を流れていた懐かしさが、わずかに形を変えた。

 

十五年前。

 

姫子と素子と彼の三人で直していた星穹列車は、今も彼らを乗せて走っている。

 

肝心のエンジンが点火せず、何度も諦めかけた。

 

それでも姫子は設計図を引き続けた。

 

身体を満足に動かせない彼女に代わり、素子が工具を握った。彼もその隣で手を動かし、三人で夜遅くまで部品と格闘した。

 

素子の願いによって列車へ火が灯ったとき、そこに素子自身はいなかった。

 

彼女は姫子との運命を交換し、姫子を未来へ残した。

 

彼と姫子は、二人で発車レバーを倒した。

 

けれど、あの旅立ちが二人だけのものだったと思ったことは一度もない。

 

「今日、久しぶりに思い出したわ」

 

姫子が呟いた。

 

「何を?」

 

「最初に冷却管が破裂したとき、素子があなたを追いかけ回したこと」

 

「工具を投げながらな」

 

「あなたが逃げるからでしょう?」

 

「投げてくる奴から逃げるのは普通だ」

 

「先に謝ればよかったのよ」

 

「あれは俺だけのせいじゃない」

 

「まだ言うの?」

 

姫子がようやく振り返った。

 

声は呆れていたが、唇には小さな笑みが浮かんでいる。

 

彼も笑った。

 

その笑みは長く続かなかった。

 

姫子の視線が彼を通り越し、遠い記憶へ向かう。

 

「素子は、怒ると分かりやすかったわね」

 

「ああ」

 

「嬉しいときも、悲しいときも」

 

「あいつは隠すのが下手だったからな」

 

「私とは違って?」

 

姫子が尋ねても、彼は答えなかった。

 

姫子は彼の沈黙から答えを読み取ったらしく、窓へ視線を戻した。

 

「あなたは昔から、こういうときだけ黙るのね」

 

「正直に言ったら怒るだろ」

 

「黙っていても怒るわ」

 

「どうすればいいんだよ」

 

「自分で考えて」

 

それこそ昔から変わらない言葉だった。

 

彼は制御卓から身体を起こし、姫子へ歩み寄った。

 

三歩あった距離が、一歩まで縮まる。

 

「今日のこと、嫌だったか?」

 

姫子は窓の外を向いたままだった。

 

「何が?」

 

「皆に知られたこと」

 

「いつかは話すべきだったと思ってたわ」

 

「聞きたいのは、そういう話じゃない」

 

姫子の指先が窓を滑った。

 

星明かりを受けた爪が、細く光る。

 

「不思議ね」

 

彼女は静かに言った。

 

「あなたに知られることは、少しも怖くなかったのに」

 

彼は何も言わない。

 

「素子を描いた夜、最初に見せたのはあなたよ。あの子が初めて目を開けたときも、あなたは私の隣にいた」

 

「ああ」

 

「最後にあの子が何を選んだのか。目を覚ましたあと、私が最初に話したのもあなた」

 

「ああ」

 

「だからかしら。素子のことは、ずっと私たちだけのものだと思っていたの」

 

姫子は少しだけ俯いた。

 

長い赤髪が頬へ流れ、表情の半分を隠す。

 

「私の過去を知られることが怖かったわけじゃないわ。ただ、誰かの言葉で整理されていくのを聞いていると、あの子との時間が、別のものへ変わってしまうような気がした」

 

「変わらないだろ」

 

「分かっているわ」

 

「なら」

 

「分かっていても、そう感じてしまったの」

 

少し強い声だった。

 

姫子自身も驚いたらしく、言葉を止める。

 

彼は姫子を見た。

 

彼女は謝らなかった。

 

代わりに窓へ触れていた手を下ろし、右手で左腕を抱いた。

 

彼はその手首を掴んだ。

 

「痛くないわ」

 

「知ってる」

 

「もう、あの頃とは違うのよ」

 

「それも知ってる」

 

腕を抱いていた指を、一本ずつ解いていく。

 

姫子は抵抗しなかった。

 

最後の指が離れると、彼はその手を自分の掌へ収めた。

 

姫子の指は少し冷えていた。

 

「じゃあ、なぜ?」

 

「こうして欲しい顔をしてたから」

 

姫子は彼を見た。

 

驚いたように瞳を瞬かせ、それから少し困った顔で目を伏せる。

 

「昔から、あなたは時々ずるいわね」

 

「姫子にだけは言われたくない」

 

「私は何もしていないでしょう?」

 

「来てほしいのに呼ばない。隣にいてほしいのに、入ってきてもいいとは言ってないとか言う」

 

「あなたは来たでしょう?」

 

「来たけど」

 

「なら、何も問題はないわ」

 

姫子らしい答えだった。

 

彼は握った手を離さない。

 

姫子も振りほどこうとはしなかった。

 

「素子は、お前より分かりやすかった」

 

「そうね」

 

「でも、あいつも肝心なことは隠した」

 

姫子の瞳が揺れた。

 

「あなたにも?」

 

「ああ」

 

「例えば?」

 

少しだけ早い問いだった。

 

彼は答える前に姫子の横顔を見た。

 

「自分が怖いってこと」

 

姫子は黙った。

 

「お前を背負って列車まで歩く途中、何度も立ち止まった。お前がどんどん軽くなるのが怖いって、泣いてたよ」

 

「……私には、一度も」

 

「言えないだろ。お前が聞いたら、列車へ行くのをやめるから」

 

姫子の指が彼の手を握る。

 

「私はそこまで聞き分けのいい子ではなかったわ」

 

「知ってる。だから素子も、泣いたあとで何でもない顔をして歩いてた」

 

機械の低い音が、二人の間へ沈んでいく。

 

「あの日、お前は途中で眠ってた」

 

彼は続けた。

 

「素子は何度もお前を背負い直した。俺が代わると言っても、断った」

 

「どうして?」

 

「自分の役目だからって」

 

姫子は目を閉じた。

 

それは彼女の知らない、素子だけの時間だった。

 

けれど、彼が初めて話したわけではない。

 

姫子が目を覚ましたあと、彼は素子から聞いたことをすべて伝えた。二人の間に隠し事を残さないためではない。素子が生きていたことを、少しでも多く姫子へ残したかったからだ。

 

それでも、記憶は同じ形では蘇らない。

 

時間が経つたび、別の痛み方をする。

 

「素子は、お前の理想通りには生きてなかったよ」

 

「ええ」

 

「お前の代わりでもなかった」

 

「ええ」

 

姫子は目を開く。

 

「分かっているわ。あの子は、素子だった」

 

その名前を口にした声は、思っていたより静かだった。

 

彼は握っている手へ視線を落とした。

 

「俺は素子を覚えてる」

 

姫子が彼を見る。

 

「お前が描いた自画像だからじゃない。あいつが何を好んで、何を怖がって、どんな顔で笑ったのかを覚えてる。工具をなくすたびに俺のせいにしたことも、甘いものばかり食べてお前に注意されてたことも」

 

「あなたも一緒に食べていたでしょう?」

 

「それも覚えてる」

 

姫子の口元が緩む。

 

「でも、いま隣にいるのはお前だ」

 

笑みが止まった。

 

「素子を覚えていたら、お前のことを忘れるわけじゃない。お前が生きたら、素子が消えるわけでもない」

 

彼は一度言葉を切った。

 

「三人分の十五年を、そんなに狭い場所に押し込めなくていいだろ」

 

姫子は答えなかった。

 

星々の光が、彼女の瞳を横切っていく。

 

やがて、姫子が一歩近づいた。

 

繋いだ手が二人の間で下がる。

 

触れそうだった肩が、今度は僅かに重なった。

 

「少しだけ」

 

姫子が呟く。

 

「ん?」

 

「少しだけ、このままでいて」

 

「ああ」

 

彼はそれ以上近づかなかった。

 

姫子の方から額を肩へ預ける。

 

赤い髪が胸元へ流れた。冷えていた髪が服へ触れ、すぐに体温を持つ。

 

彼は空いている手を持ち上げた。

 

姫子の背へ触れる直前で止まる。

 

その気配を感じたのか、姫子が顔を上げずに呟いた。

 

「こういうときだけ、遠慮するのね」

 

「離れたいのか分からなかった」

 

「離れたい人間は、こんなことをしないでしょう?」

 

姫子は彼の腕を取り、自分の腰へ回した。

 

誘われるまま、彼は細い身体を抱き寄せる。

 

姫子が息を吐いた。

 

張りつめていたものが、その吐息と一緒に少しずつ解けていく。

 

「あなたには、全部知られているのね」

 

「嫌か?」

 

「いいえ」

 

姫子の指が彼の服を掴んだ。

 

「少しだけ悔しいわ」

 

「何で」

 

「私の知らない素子を、あなたが知っているから」

 

「素子の知らないお前も、俺は知ってるよ」

 

「例えば?」

 

「コーヒーが昔より不味くなった」

 

背中へ軽い衝撃が来た。

 

姫子が彼の背を叩いたらしい。

 

「痛い」

 

「嘘ね」

 

「素子はもっと手加減してくれた」

 

姫子の手が止まる。

 

彼はまずいことを言ったと思った。

 

けれど、姫子は彼の胸へ額をつけたまま、静かに尋ねた。

 

「素子とは、随分仲がよかったものね」

 

「急にどうした」

 

「何でもないわ」

 

「怒ってる?」

 

「怒っていない」

 

「じゃあ、離してくれないか。服を掴む力が強くなってる」

 

姫子は手を緩めなかった。

 

むしろ指先を服へ深く引っかける。

 

「素子は、あなたに何か言っていた?」

 

「色々」

 

「私の知らないことも?」

 

「あったかもしれない」

 

姫子が顔を上げた。

 

穏やかに笑っていた。

 

ただし、目は少しも笑っていない。

 

「いま話しておいた方がいいと思うわ」

 

「何で尋問みたいになってるんだよ」

 

「素子のことを覚えている者同士、記憶を共有しているだけよ」

 

「顔が怖い」

 

「そんなことはないでしょう?」

 

姫子の口調は柔らかい。

 

それが余計に怖かった。

 

彼はしばらく迷い、観念する。

 

「お前を頼むって言われた」

 

姫子の表情から、少しだけ力が抜けた。

 

「それは、知っているわ」

 

「それから、列車を二人で発車させてほしいって」

 

「ええ」

 

「あとは……」

 

「まだあるの?」

 

彼は口を閉じた。

 

姫子は待っている。

 

昔からそうだった。

 

答えを急かさず、逃げられないくらい真っ直ぐに見る。

 

「俺と旅をしたかったって」

 

姫子の指が動いた。

 

彼の服を掴んでいた手がゆっくり離れ、今度は胸元へ平らに置かれる。

 

「そう」

 

一言だけだった。

 

姫子は目を伏せている。

 

「気になるか?」

 

「何が?」

 

「素子が俺と旅をしたかったこと」

 

「私と一緒に、でしょう?」

 

「まあ」

 

「なら、何もおかしくないわ」

 

平静な声だった。

 

けれど姫子は彼の胸から離れず、視線も上げない。

 

彼は少しだけ笑った。

 

「嫉妬してる?」

 

「していないわ」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

「じゃあ、よかった」

 

「……何が?」

 

姫子が顔を上げた。

 

彼は笑いを堪えながら、彼女の髪を指先で整える。

 

頬へかかっていた一房を耳の後ろへ流すと、姫子の瞳が僅かに細くなった。

 

「お前、昔から嘘が下手だな」

 

「誰と比べているの?」

 

「誰とも」

 

「本当に?」

 

「本当だよ」

 

しばらく見つめ合う。

 

やがて姫子の方から目を逸らした。

 

腰へ回された彼の腕を外そうとはしない。

 

「素子のことを嫌っているわけではないの」

 

「分かってる」

 

「あの子があなたを大切に思っていたことも、嬉しいわ」

 

「ああ」

 

「それでも、少しだけ複雑なの」

 

「どうして?」

 

「自分で考えて」

 

姫子はそれ以上説明しなかった。

 

彼も聞かなかった。

 

ただ、腕の中にいる彼女を少しだけ強く抱く。

 

姫子は一瞬身体を固くしたあと、自分から距離を詰めた。

 

「ねえ」

 

「ん?」

 

「最初に列車を発車させた日、怖くなかった?」

 

「怖かったよ」

 

「あなたでも?」

 

「お前が航路計算を間違えて、恒星に突っ込むかと思ってた」

 

「真面目に答えて」

 

「真面目だ」

 

姫子は彼の胸を叩こうとする。

 

その腕を、今度は先に掴んだ。

 

細い手首を包むと、姫子の動きが止まる。

 

「怖かった」

 

彼は改めて答えた。

 

「あの列車を動かしたら、本当に素子のいない時間が始まる気がした」

 

姫子は静かに彼を見つめる。

 

「あの日の俺には、それを止める方法がなかった。列車を動かさずにずっと残ることも、お前を一人で行かせることもできなかった」

 

「それで、隣にいたの?」

 

「ああ」

 

「今も?」

 

彼は姫子の手首から力を抜き、そのまま掌へ指を滑らせた。

 

指先が触れる。

 

姫子は逃げなかった。

 

「今も」

 

指を絡めるほど強くはない。

 

ただ、二人の手が離れないよう、ゆっくりと握る。

 

「お前が誰なのか、全部分かったつもりはない。素子から何を受け取って、何を自分で選んだのかも、俺が決めることじゃない」

 

姫子の瞳に、星の光が映る。

 

「だから、この先も隣で見てる。それじゃ足りないか?」

 

姫子は答えなかった。

 

代わりに彼の肩へ額を戻す。

 

触れた頬が、先ほどより少し温かい。

 

「いいえ」

 

小さな声が胸元へ届く。

 

「十分よ」

 

 

星穹列車を発車させる時刻が来た。

 

運転席には、姫子と彼の二人だけが残った。

 

すべての計器は正常に作動している。

 

エンジンの出力も安定していた。十五年前のように、発車前から冷却管の心配をする必要はない。

 

姫子は発車レバーの前へ立つ。

 

彼もその隣に並んだ。

 

「最初のときと同じね」

 

「十五年も経ってる」

 

「ここだけを見れば、同じでしょう?」

 

姫子の手がレバーへ触れる。

 

彼もその隣へ手を置いた。

 

手の甲が僅かに重なる。

 

ほんの少し動かせば離れる距離だったが、どちらも避けなかった。

 

「ねえ」

 

姫子は正面を向いたまま呼んだ。

 

「何だ?」

 

「素子があなたと旅をしたかったのなら、その願いは叶ったと思う?」

 

彼はすぐには答えなかった。

 

遠くで、動力炉の出力が上がっていく。

 

列車全体へ振動が広がり、長く眠っていた心臓が目を覚ますような音が響いた。

 

「本人に聞いてくれ」

 

「意地悪ね」

 

「ずっと隣にいるだろ」

 

姫子が横を向いた。

 

彼は前を見たままだった。

 

発車レバーの上で、重なった手だけが離れない。

 

しばらくして、姫子の指が僅かに動いた。

 

彼の小指へ触れ、そこへそっと絡む。

 

「ええ」

 

姫子は微笑んだ。

 

「そうだったわね」

 

二人でレバーを倒す。

 

遠くで汽笛が鳴った。

 

窓の外の光が伸びる。

 

星穹列車はゆっくりと速度を上げ、二相楽園を離れていく。

 

過去を置き去りにするためではない。

 

三人で直した列車に、これからも三人分の記憶を乗せていくために。

 

姫子は前を向いていた。

 

彼も同じ景色を見る。

 

発車操作を終えたあとも、小指だけは絡んだままだった。

 

 

それからいくつもの星を越えた。

 

姫子と彼の関係へ、はっきりした名前がついたのは、ある小さな星で一夜を明かした頃だった。

 

告白らしい言葉はなかった。

 

宿泊施設の受付で、姫子が二人分の鍵ではなく、一つだけ鍵を受け取った。

 

彼が理由を尋ねると、姫子は当然のように答えた。

 

「部屋が一つしか空いていないそうよ」

 

あとから確認すれば、空室はいくつもあった。

 

けれど彼は何も言わなかった。

 

宿へ向かう途中、姫子が腕を絡める。

 

肩へ頬が触れそうなほど近づいても、彼女は前を向いたままだった。

 

「いまさら、嫌だとは言わないでしょう?」

 

「何の話だ?」

 

「なら、言葉にした方がいいかしら」

 

「いや。分かってる」

 

「本当に?」

 

「さすがにな」

 

「十五年もかかったのに?」

 

彼が答えるより先に、姫子は足を止めた。

 

人気のない細い路地だった。

 

夕暮れの光が屋根の隙間から差し込み、赤い髪の輪郭を照らしている。

 

姫子は彼の腕を引く。

 

振り返った瞬間、柔らかなものが頬へ触れた。

 

すぐに離れていく。

 

何が起きたのか理解するまで、わずかに時間がかかった。

 

姫子はすぐ近くにいた。

 

からかうような笑顔ではない。

 

少しだけ緊張し、それを悟られないよう澄ました顔をしている。

 

「これなら分かった?」

 

「ああ」

 

「遅いわね」

 

「心の準備が」

 

「十五年あったでしょう?」

 

「こうなるとは思わなかった」

 

「私は何度も伝えていたわ」

 

「いつ?」

 

「最初に列車を発車させた日も、あなたの手を握ったでしょう?」

 

「あれは怖かったからだと思ってた」

 

「二相楽園から帰った夜も、あなたの胸へ寄りかかったわ」

 

「疲れてたからだと」

 

姫子は呆れたように彼を見つめた。

 

「あなた一人に任せるのが不安だったという、素子の判断は正しかったようね」

 

「素子が何を言ってたって?」

 

「秘密よ」

 

姫子は再び歩き出した。

 

今度は腕だけではなく、彼の指へ自分の指を絡める。

 

捕まえるような強さだった。

 

彼も握り返した。

 

それから二人は恋人と呼ばれる関係になった。

 

列車の中で何かが大きく変わったわけではない。

 

姫子は変わらずナビゲーターを務め、彼は機関部の維持と調整を担当する。

 

人前では、以前と同じように見えた。

 

ただ、展望車のソファへ並んで座るとき、二人の間にはもう隙間がなかった。

 

姫子が眠れば彼の肩へ寄りかかり、彼が資料を読んでいれば、いつの間にか片腕へ自分の腕を絡めている。

 

三月なのかは気づいた日に大騒ぎした。

 

ヴェルトは驚かなかった。

 

穹は「開拓者はクールに去るぜ…」と言いながら自分の部屋に戻っていった。

 

丹恒は本から顔も上げず、ようやくか、と呟いただけだった。

 

パムは公共の場所でべたべたするなと注意した。

 

姫子はそのたびに微笑み、いったんは彼の腕を離す。

 

そしてパムがいなくなると、何事もなかったように指を絡め直した。

 

 

今夜の展望車両にも、二人しかいなかった。

 

窓の外には次の目的地となる星が見えている。

 

薄い青色の星を、淡く輝く環が取り巻いていた。

 

姫子は彼の隣へ座り、肩へ頭を預けている。

 

テーブルには二つのカップが置かれていた。

 

一つは空になっている。

 

彼の前にある方は、ほとんど減っていなかった。

 

「飲まないの?」

 

「冷めるのを待ってる」

 

「先ほどから同じことを言っているわ」

 

「熱いのが苦手なんだ」

 

「あなた、昔は熱いまま飲んでいたでしょう?」

 

「味を感じない方がいいときもある」

 

姫子は顔を上げた。

 

「何か不満が?」

 

「何も」

 

「なら、飲めるわね」

 

カップを持たされる。

 

逃げ道はなかった。

 

彼は覚悟を決め、一口飲んだ。

 

苦味のあとから、説明しがたい酸味が追いかけてくる。

 

姫子は期待するように彼を見ていた。

 

「どう?」

 

「新しい味だな」

 

「気に入った?」

 

「開拓には犠牲がつきものだと思った」

 

彼の手の甲を、姫子がつねった。

 

「痛い」

 

「嘘ね」

 

「昔より力が強くなってる」

 

「誰と比べているのかしら」

 

「誰とも比べてない」

 

姫子はまだ手を離さない。

 

指先で彼の手の甲を摘んだまま、何気ない声音で尋ねる。

 

「素子は、もっと手加減してくれた?」

 

「前にもその話しただろ」

 

「答えは聞いていないわ」

 

彼はカップをテーブルへ戻した。

 

姫子はいまだに素子の名前を口にするとき、ほんの少しだけ彼の顔を見る。

 

悲しみからではない。

 

彼がどんな表情をするのか、確かめようとしている。

 

「素子は手加減しなかったよ」

 

「そうだったかしら」

 

「工具を投げられて、頭にたんこぶができた」

 

「あなたが悪いことをしたのでしょう?」

 

「あいつが工具をなくしたから、また俺のせいにするのかって言っただけだ」

 

「なくしたのはあなたではないの?」

 

「違う。あの日は素子が持ってた」

 

「随分よく覚えているのね」

 

穏やかな声だった。

 

その裏にあるものを隠せていない。

 

彼は姫子の肩を抱き、自分の方へ引き寄せた。

 

姫子は素直に寄りかかる。

 

けれど、頬が少しだけ不満そうに膨らんでいた。

 

「まだ嫉妬してる?」

 

「していないわ」

 

「素子に?」

 

「していない」

 

「じゃあ、こっちを見てくれ」

 

「星を見ているの」

 

「ずっと見てるだろ」

 

姫子は窓へ顔を向けたまま、彼の胸元へ手を置いた。

 

「素子は、あなたのことが好きだったのかしら」

 

問いは静かだった。

 

彼はすぐには答えなかった。

 

姫子は待っている。

 

少しだけ不満そうに、それでも彼から離れず、服の上を指先でなぞっていた。

 

「聞いたことはある」

 

姫子の指が止まる。

 

「本人に?」

 

「ああ」

 

「何と答えたの?」

 

「秘密にしてくれって」

 

「私にも?」

 

「特に姫子には言うなって」

 

「……そう」

 

姫子は短く答えた。

 

伏せられた睫毛の奥に、いくつもの感情が揺れている。

 

素子への懐かしさ。

知らなかったことへの寂しさ。

そして、大切な人との間に自分の知らない時間があることへの、小さな嫉妬。

 

「気になる?」

 

「ならないと言ったら、嘘になるわね」

 

「正直だな」

 

「恋人に隠し事をされるのは、あまり好きではないもの」

 

「素子との約束だったから」

 

「分かっているわ」

 

姫子の声は責めていなかった。

 

ただ、彼の胸元へ置かれた指が、服を少しだけ摘んでいる。

 

「それで?」

 

「何が?」

 

「あなたは、何と答えたの?」

 

彼は姫子を見た。

 

すぐ近くにある横顔は、平静を装っている。

 

けれど彼が答えるまで離れるつもりはないらしい。

 

「断ったよ」

 

姫子がゆっくり振り向く。

 

「どうして?」

 

「俺が好きだったのは、姫子だったから」

 

長い沈黙が落ちた。

 

窓の外では、星々の光が緩やかに流れている。

 

姫子は彼を見たまま、何度か瞬いた。

 

「その話も、初めて聞いたわ」

 

「聞かれなかったからな」

 

「言ってくれてもよかったでしょう?」

 

「言ったら困ったんじゃないか」

 

「そうね。昔の私は、困ったと思うわ」

 

「ほら」

 

「でも、今の私は違うでしょう?」

 

姫子の指が胸元から肩へ移る。

 

ゆっくりと距離が縮まる。

 

赤い髪が彼の腕に流れ、淡い香りが触れた。

 

「今は?」

 

吐息が触れそうな距離で、姫子が尋ねる。

 

彼は答えず、姫子の頬へ手を添えた。

 

掌へ伝わる温度。

 

姫子はその手に自分の手を重ねる。

 

視線を外さないまま、僅かに首を傾けた。

 

唇が触れた。

 

長くはない。

 

それでも、離れたあとも姫子は目を閉じたままだった。

 

頬へ添えられた手を逃がさないよう、指を重ねている。

 

やがて瞼を上げ、すぐ近くから彼を見つめた。

 

「今は、言ってくれて嬉しいわ」

 

「遅すぎたけどな」

 

「本当よ。十五年も黙っているなんて」

 

「お前も何も言わなかっただろ」

 

「私は態度で示していたわ」

 

「分かりにくかった」

 

「あなたが鈍いだけでしょう?」

 

姫子は少しだけ身体を離した。

 

けれど、頬へ添えられた彼の手はそのままだった。

 

名残惜しそうに、その掌へ触れている。

 

「でも、素子を断ったのね」

 

「そこに戻るのか?」

 

「大切なことよ」

 

「嬉しそうだな」

 

「そんなことはないわ」

 

否定しながら、姫子の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。

 

彼は親指で姫子の頬をなぞる。

 

「素子は次の日、何もなかった顔で姫子のところへ戻った」

 

「そうでしょうね。あの子は、肝心なことだけ隠すのが上手だったから」

 

「お前もな」

 

「私は隠していないわ」

 

「じゃあ、今何を考えてる?」

 

姫子は彼の胸へ頬を寄せた。

 

逃げるような仕草だった。

 

「素子に勝った、とは思っていないわ」

 

「聞いてないけど」

 

「少しも」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

「じゃあ、素子の話をもう少し」

 

「今夜はもういいわ」

 

姫子の腕が彼の腰へ回る。

 

これ以上、素子との思い出を語らせたくないらしい。ただし言葉で止めるのは大人げないと思っているのか、抱きつくことで口を封じようとしている。

 

彼は笑いを漏らした。

 

「何がおかしいの?」

 

「別に」

 

「笑っていたでしょう?」

 

「恋人がかわいいと思っただけだよ」

 

姫子の身体が僅かに固まる。

 

こういう言葉には、今でも慣れていない。

 

平静を装い、何でもないように受け流そうとする。

 

けれど、彼の胸へ触れている耳が少し赤くなっていた。

 

「急に、どうしたの?」

 

「思ったから言った」

 

「そういう言葉は、もう少し時と場所を選ぶべきではないかしら」

 

「二人しかいないけど」

 

「そういう問題じゃ……」

 

「嫌だった?」

 

姫子は答えなかった。

 

彼の腰へ回した腕へ力を入れる。

 

それが答えだった。

 

彼も姫子の背へ腕を回した。

 

長い髪を避けるように、肩甲骨の辺りへ掌を置く。

 

姫子はしばらく彼の鼓動を聞いていた。

 

「素子も、あなたのこういうところが好きだったのかしら」

 

「またその話?」

 

「最後に一つだけ」

 

「何だ?」

 

「素子に告白されたとき、少しも迷わなかった?」

 

彼はすぐには答えなかった。

 

姫子の腕へ、再び僅かな力が入る。

 

「迷ったよ」

 

姫子が顔を上げた。

 

瞳の奥に、小さな不安がよぎる。

 

「素子を傷つけると思ったから」

 

彼は続けた。

 

「でも、答えは変わらなかった」

 

「私が好きだったから?」

 

「ああ」

 

姫子は彼を見つめていた。

 

それから、今度は自分から彼の頬へ手を添える。

 

指先が耳の前をなぞり、髪に触れる。

 

「なら、許してあげる」

 

「何を?」

 

「秘密にしていたこと」

 

「ずっと怒ってたのか?」

 

「怒っていないわ」

 

「はいはい」

 

「本当よ」

 

姫子は不満そうに眉を寄せた。

 

その表情があまりに昔と同じで、彼はまた笑ってしまう。

 

今度は逃がさないように、姫子が両手で彼の頬を挟んだ。

 

「笑わないで」

 

「だって、お前」

 

「まだ言うの?」

 

「言わない」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

姫子は疑うように彼を見つめた。

 

やがて納得したのか、頬を挟んでいた手を少し緩める。

 

その隙に、彼は姫子の手首を取り、掌へ口づけた。

 

姫子が言葉を失う。

 

驚いた瞳が、間近で揺れた。

 

「姫子も、そういう顔するんだな」

 

「あなたが急に……」

 

「時と場所を選んだ」

 

「選べていないわ」

 

姫子は手を引こうとした。

 

彼は強く掴まず、離れていく指先へ自分の指を絡めた。

 

それだけで姫子の動きが止まる。

 

「離さないの?」

 

「離してほしい?」

 

姫子は答えない。

 

窓の外へ視線を向けたまま、絡めた指を握り返した。

 

もう一方の手で彼の腕を抱き、自分から肩へ寄りかかる。

 

「……このままでいいわ」

 

恋人になっても、姫子は素直ではない。

 

彼もそれを直してほしいとは思わなかった。

 

言葉の代わりに触れる指。

 

呼ばないまま待っている背中。

 

離れてほしくないときだけ、少し強くなる腕。

 

彼には、それで十分伝わっている。

 

しばらく二人で、窓の外を見ていた。

 

次の星が少しずつ大きくなる。

 

「明日には着くわ」

 

姫子が言った。

 

「らしいな」

 

「何が待っていると思う?」

 

「行ってみれば分かる」

 

「何の準備もせずに?」

 

「先に走り出して、それから探してもいいんだろ」

 

遠い昔、母のアトリエで姫子が言った言葉だった。

 

姫子は顔を上げた。

 

「覚えていたのね」

 

「ああ」

 

「私の言ったことを?」

 

「忘れないよ」

 

「素子のことも?」

 

「ああ」

 

姫子は少しだけ目を伏せる。

 

絡んでいる指を見る。

 

「私のことも?」

 

彼は握っている手へ力を込めた。

 

「お前のことは、これからも隣で覚えていく」

 

姫子は何も言わなかった。

 

けれど、頬に浮かんだ笑みは隠さなかった。

 

肩へ戻ってきた温度が、先ほどより近い。

 

窓の外には、まだ長い夜が広がっている。

 

その向こうで、新しい恒星の光が淡く滲んでいた。

 

二人の間には、もう一人分の記憶がある。

 

失った少女の席を埋めるのではなく、空けたまま一緒に進んでいく。

 

過去を置き去りにせず、未来へ縛りつけられもせず。

 

星穹列車は夜を越えていく。

 

姫子が目を閉じた。

 

眠ったわけではない。

 

彼の肩へ頬を預け、指を絡めたまま、遠く響く列車の音を聞いている。

 

「行こう、姫子」

 

彼が呼ぶ。

 

姫子は目を開けた。

 

すぐには顔を上げず、絡めた指へゆっくりと力を込める。

 

「ええ」

 

少し遅れて、彼の方を見る。

 

星の光が金色の瞳へ微かに揺れていた。

 

「これからも、一緒に行きましょう」

 

遠くで汽笛が響く。

 

その音を追いかけるように、二人を乗せた列車は、まだ名前のない夜明けへ進んでいった。

 




次回!!完全に誰を書くか決まってない!!
夏祭りに行く浴衣高校生緋英!!
彼氏君に可愛く思って欲しくて髪型を変えるヒアンシー!!
オリ主の芸術に分からされるパール!!
ぜってぇ見てくれよな!!
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