私は質問を挟みながら、先生の話を真面目に聞いていた。
先生が言うには、幻想郷として明確に外の世界と区別されるようになったのは明治初期。その頃から科学の波に押されて妖怪が衰退し始めた為、博麗大結界というものが張られたそうだ。その結界には幻想だと判断されたものや忘れ去られたものを通し、それ以外は拒む性質があるらしい。
おそらく、昔の幻想郷は私の故郷と同じような場所だったのだろう。博麗大結界なるものが故郷にあれば、あの地にもまだ、妖怪や神が残っていたのだろうか。
それはさておき、歴史の話では必ず出てくる筈の統治者の名前が一度も出てこなかったので、私は先生に訊ねてみた。どうやら小規模な自治体のリーダーが存在するだけで、幻想郷全体の統治者は存在しないらしい。
「敢えて挙げるなら、妖怪の賢者である八雲紫と博麗の巫女である博麗霊夢か。彼女達は結界を司る要職に就いているからな。下手に脅かせば幻想郷が崩壊しかねない」
「要職なら替えが用意されてそうなものですが」
「八雲紫のほうは知らないが、巫女は人間だからな。いつ死んでもおかしくないから用意されているとは思うが……、あまりそういう事は口にしないほうが良いぞ」
「気をつけます」
やや強い口調で咎められ、私は頭を下げた。
しかし、そうなると、私は幻想郷最有力者の二人を味方に出来なかったという事になる。出だしとしてはあまり宜しくない。
そうして今後の身の振り方を考えていると、突然、室内を照らしていた蝋燭の炎が消えた。
「燃え尽きたか」
「そのようですね」
私は目が暗闇に慣れるのを待ったが、間もなく先生の手元から淡い光が発せられ、室内を照らし始めた。霊力の光、らしい。読み書きには暗すぎるが、何処に何があるかは問題なく分かる明るさだった。
「……便利ですね」
「慣れたら誰でも出来るさ、幻想郷ではな。ずっと続けるのは疲れるが」
先生はそう言って、消えた蝋燭の元に寄る。そして、怪訝な声を上げた。
「まだ大分残ってるじゃないか」
近くに行って私も確認しようと思ったが、長時間座っていて脚が痺れていた為、その場から声を掛けた。
「不良品だったのでは?」
「そうかもしれないが、不思議な事もあるものだ。今まで不良品を掴まされる事は無かったのだがな。まあ、ちょうど良い。そろそろ話も終わりにしよう」
先生は蝋燭に火を付け直し、思い出したように言った。
「ところで、食事は済ませているのか?」
「はい」
私はごく自然に嘘を吐いた。私にとって食事とは煩わしいものという印象が強い。不必要なら省きたい程だ。
「風呂は入りたいか?」
「迷惑になるでしょう、それは」
「何がだ?」
「井戸から水を汲み、湯船に張って、薪で焚く。時間が掛かるじゃありませんか。暗くなってからする事ではありませんよ」
「外の世界に比べたら遅れてるかもしれないが、蛇口を捻れば水が出るようにはなっているぞ。薪も釜の近くに置いている。後は燃やすだけだ」
「だとしても……」
「入って垢を落としなさい。遠慮するな」
随分と強引である。仕方ないと思い直し、脚の痛みを堪えながら立ち上がる。
「それなら入らせて頂きます。しかし、先生に散々時間を取らせてしまった手前ですので、自分で用意します。案内を頼めますか」
「出来るのか?」
「毎晩のように火を扱っていました。余程設備が違わなければ出来ます」
「だったら大丈夫かもな。付いてきなさい」
「分かりました」
脚の痺れが急速に萎むのを感じながら、私は先生に付いて回る。自覚していなかったが、私の体は以前より回復が早くなったのかもしれない。
しかしながら、霊夢に札を当てられた時もそうだったが、どうも幻想郷へ踏み入ってからというもの、体の勝手が今までと違うように感じる。
天啓としか言いようのない直感。不自然なまでに早い回復。元々常人離れした体質ではあったものの、こういった能力は持ち合わせていなかった筈なのだが。
そんな事を考えていると、浴室に到着した。雑念を振り払うように桶へ水を張り、釜へ火を入れる。経験で組み上げた薪は順調に燃えていった。
「中々上手いな」
背後で先生が感心して息を漏らした。誉められるような事でもないのだが、何だか照れ臭く、私の返事は普段以上にぶっきらぼうなものになってしまった。
「そうですか。……あの、もうしばらくすれば風呂も沸くと思います。僕が火の管理をしますので、先にどうぞ」
「いいのか?」
「何も問題ありません。風呂掃除も自分でやりたいので、後のほうが好都合です」
「そうか。それなら任せる。何かあったら知らせてくれ」
「はい」
先生が室内に戻ろうとして、ぴたりと止まる。
「言い忘れていたが……、覗くなよ?」
「……考えておきます」
「おい」
驚いた先生を尻目に笑いを一つ。
「冗談ですよ。先生は美人ですが、僕も節度は弁えています。安心して入ってきてください」
「まったく……」
再び歩き出す先生。今度は立ち止まらず、まるで家の中へ逃げ込むようにしながら、ぽつりと呟いた。
「まあ、なんだ。世辞でも嬉しいぞ」
「…………」
聞こえているが、聞こえてない振りをする。先生が家の中に入った事を確認して、私も、ぽつり。
「美人だとは本心で思ってるんだけどな……」
儘ならないものだと首を傾げつつ、私は新たに薪を焼べた。
◇
睡眠中に見る夢とは記憶の整理であるらしい。
入浴後、布団の中で眠っていると、私は故郷の夢を見た。
その夢の中で、私は実家の縁側に腰掛け、何をするのでも無く、景色をぼんやりと眺めていた。
ふと、違和感が背後に生じた。
首を曲げ、後ろを振り向く。
「やあ、紫さん」
違和感の正体が訝しげな視線を返す。
どうやら、夢の世界の住人ではないらしい。
「……ご機嫌が宜しいようで何よりですわ」
「さて、それはどうだか知りませんが、一体何の用事です?」
「その前に、隣。失礼しますわね」
紫さんが私の隣に来て、同じように座った。隣と言っても、一人分の間隔は開けてある。
彼女は暫く景色を眺め、唐突に言った。
「鮮明な夢ですわ。貴方が故郷を深く慕っている事がよく分かります」
「僕の事を調べましたか」
「いいえ。そう、これが貴方の故郷なの。自然豊かで良い場所ですわね」
どうやら鎌に掛けられたようだ。あっさりと引っ掛かった事を誤魔化すように、私は素早く言葉を返した。
「どんなに言い繕ったところで辺鄙な事には変わりません。それに、今はもう無い」
「何故?」
「土地は人間を育み、人間は土地を守る。その当たり前の風習が破られてしまった。そんなところでしょうかね。故郷が駄目になってしまったのは」
「そうですか……」
神妙に呟いた紫さんは視線を山へ移した。
思い当たる節でもあるのか、じっと観察する。
「まるで――」
彼女は何かを言い掛けたが、口を噤む。先程の意趣返しの思いも込め、私がその先を続けた。
「幻想郷みたい、ですか。確かに雰囲気は似てますね。実際、魑魅魍魎の類いも居た訳ですから」
「……やはり、そうですか」
紫さんがまじまじと私の顔を見る。
驚くのでもなく、疑うのでもなく、ただ確かめるように。
それから、彼女は一際真面目な態度で、体ごと私へ向き直った。
「川上龍泉。貴方も、その一つだったのでは?」
「さて、どうでしょうか」
素っ気ない返事と、それに反して緩む私の顔。
願っても無い答え合わせに、私の好奇心は大きく膨らんだ。
紫さんは言った。
「先程、貴方を調べたかという質問に私は調べていないと答えましたが、あれは半分嘘です。貴方が幻想郷へ来るまでの足取りを遡ろうとしました。
しかし、結界の外縁部に足取りはありませんでした。ですので、貴方は物理的に結界を越えた訳ではありません」
「いまいち、全貌が掴めないのですが」
「上白沢女史から聞かれた結界の仕組み。もうお忘れですか?
距離を越え、時には時間をも越えて、忘れ去られたものや幻想とされたものを引き寄せる。貴方は外の世界から、……いいえ、貴方の故郷から、幻想だとされたのです。存在する筈の無い、空想の産物だとして」
驚いた事に、私は紫さんの言葉を聞いても大して何も思わなかった。長年、人間達から非現実的な存在と扱われていたのだ。存在そのものまで否定されたところで、そう不思議ではない。
しかし、目を向けた先の山の景色と、撫でるように吹き抜けた穏やかな風が、私に悲しみを与えようとする。
「……そう、か。故郷は私を捨てましたか。お互い様ですね」
背を倒し、仰向けになる。見慣れた天井が落ちてきそうに見え、私は目蓋の上に腕を横たわした。
「私?」
唐突な一人称の変化が気になったのだろう。紫さんがそう言ったので、私はそのままの姿勢で答えた。
「私はもともと私です。僕は昔使っていた呼び方ですよ。受けが良いですから、今でもよく使ってますが……」
言葉を区切り、一度考える。
故郷に捨てられた、その記念だ。
この呼び方も捨てる事にしよう。
「しかし、私が空想の産物だとして、それがどうして人間でない事に繋がるんです?」
「――まだ、白を切るつもり?」
ひゅん、と風の音が聞こえた。
視界を塞いでいた腕を退けると、紫さんが私へ覆い被さるように迫っていた。私の顔の横には美しい金髪が垂れ下がり、首筋には開いた扇子が添えられている。扇子は紙で出来ているが、何らかの術が施され、私の喉笛を切り裂くには充分な切れ味が付与されているらしかった。
暫くの沈黙があった。その間、私は紫さんの射貫くような視線を両目でしっかりと受け止め続けた。
やがて、紫さんは口を開いた。
「昼の続きよ。貴方は一体何者なの? 何が目的? 他の仲間は?」
――ああ……。
この時、私は絶望にも等しい落胆を覚えた。
教えてくれると思っていたが、結局、その程度なのか。
「……つまらない」
「なんですって?」
「私は期待していたんだ。
紫さんは境界を操る妖怪だろう。賢者と呼ばれるだけの知能もあると聞いた。だから、私の正体に明確な答えをくれると思っていた。
それでも、……無理なのか」
紫さんの頬へ腕を伸ばし、触れる。彼女の瞳に恐怖が差し込み、動きが止まる。
「私は」
全ての演技を止め、ただただ純朴に。
「川上龍泉で、妖怪なんだよ」
その時、『川上龍泉』が何を思ったか、本人である私にもよく分からなかった。
視界には怯んだ紫さんの、それでも美しいままの顔と、細い木の根のような不恰好な私の腕。
その対比は滑稽で悲しく腹立たしく、そして何より不釣り合いだった。
様々な疲労が腕を蝕み、床へと引き摺り落とす。
疲労は麻痺に勝るのかと、私は上手く働かない頭で考えていた。
◆
八雲紫が我を取り戻すまで、数秒もの時間が必要となった。
頬に当てられた手の感触を服の袖で拭う。
慈しむかのように優しく、しかし、酷く虚ろな感触。
嫌悪も恐怖も勿論あったが、紫はそれらよりも強く、憐憫の情を抱いていた。
今になって漸く、紫は龍泉自身でさえも自らを理解していない事に気付いたのだ。
「……愚かね」
呟き、紫は身を引いた。
外の世界から放逐された挙げ句、自らが何者かすら分からない。文字通り、世界から完全に見捨てられた存在。それが龍泉なのだろう。
そんな龍泉を気の毒に思った紫は、目を逸らすかのように、彼の故郷の景色へ視線を戻した。
その景色が綺麗かと問われれば、紫は違うと答えるだろう。
緑が生き生きとし、空気も澄んでいる。だが、人間の営みがある以上、アスファルトに覆われた道路や鉄筋コンクリートの電柱が緑の中で場違いな存在感を放っていたためだ。
観光地ではなく、民家から見る景色だと考えれば中々なものかもしれないが、自然溢れる幻想郷に慣れた紫の感性へ訴えかけてくる程ではなかった。
その冷やかな視線を以て、紫はある事に気付いた。
この世界は龍泉の夢の世界。紫が自らの夢と現の境界を操ってどうにか辿り着いた場所だ。
夢であるからには、この世界は持ち主の精神に大きく影響を受ける筈だ。
持ち主である龍泉はまるで廃人のように床に伏しており、とても真っ当な状態には見えない。
なのに、世界は変化していない。
龍泉は未だに正気を保っている。
彼の口が徐に動いた。
「……残念な事に」
誰かに向けた言葉では無い。
「私は既に狂っても壊れてもいるから、どうしようもないんだ」
自嘲の笑みを浮かべ、龍泉はゆらりと起き上がる。
しかし、笑みは直ぐに消え失せ、彼は超然とした居住まいをとった。
「紫さん。私は何の妖怪だと思う?」
「……それを聞きに来たのよ」
「予想で良い」
「根拠の無い予想は出来る限り言わない主義なの。勘違いされても困るから」
「とことん期待を裏切るね」
「勝手に期待するほうが悪いのよ」
「正論だ」
ふふ、と龍泉は息を漏らす。
不気味だが下品では無い。そんな笑み。
「私はひび割れている。いや、粉々に砕けた破片の集合体なんだと思うよ。そんな細かな破片を全部分別する事は難しいよね」
「もしかして……」
「ただの根拠の無い予想だよ。聞いてどうする?」
龍泉の挑発的な言動に紫は閉口する。
本来、妖怪である紫と殆ど人間である龍泉の実力は天と地程に隔たっている。
しかし、ここは龍泉の夢の世界。そこに入り込んでいる以上、下手に倒せば世界の崩落に巻き込まれて紫も道連れになりかねないのだ。
この確かな優位を龍泉は自覚していた。
それと、もう一つ。
「破片の断面一つ一つが私にある境界なんだろうね。互いに上手く噛み合って私が出来てるんだろう。それがあまりに複雑過ぎるから、紫さんでもどうしようも出来ない、って感じかな」
「……私の力が効かないと何時気付いたの?」
「気付いたら気付いていた」
「ふざけないで」
腹を立てた紫に龍泉は飄々と応じる。
「壊れていても私は至って真面目だよ。これが私の能力……らしい」
「まさか全知だとでも――」
「そんな訳無いよ。種族と能力と事象が唐突に分かる時があるだけだ。信憑性の検証が出来ないから、あまり当てにも出来ない。こんなもの、紫さんの境界を操る力の劣化版。言ってしまうなら、範疇を知る能力と言ったところかな」
知る限りの説明を終えると、龍泉は姿勢を崩した。
そして、空を仰ぐ。
緑に縁取られた青空に、白い入道雲が浮かんでいた。
「……なあ、紫さん。幻想郷を私の新しい故郷にしても良いだろうか」
紫も同じ空を見た。
この愛郷心の塊だった男が幻想郷に何をもたらすのか。澄み切った空を見ても何一つ分からない。
しかし、何にせよ。
「幻想郷は全てを受け入れる。それはそれは残酷な事よ」
人間と妖怪。
両者には覆しようの無い様々な違いが存在し、幾つもの悲劇を生み出してきた。
「……そうだな、酷い話だ。こんな私を受け入れるなんて、他の人間や妖怪には迷惑な話だろうな」
龍泉はそっと目を閉じる。
ほんの一刹那、景色が滲んだ。
「ありがとう」
瞑目したまま、穏やかに告げられた感謝の言葉に紫は罪悪感で息を詰まらせた。
死ぬ可能性を認めた上で放置し、今日幻想郷に来た妖怪だからという理由で疑ってかかった自分に謝辞を受け取る資格は無い。
そう考えた紫は空を眺め続ける事で龍泉から再び目を逸らす。
片方は目を瞑り、片方は目を逸らした。その為に。
肩が触れそうな程に近付いていた事に、まだ二人とも気付いていなかった。