貴方がこの物語を観測し終えたとき、この物語は固定される。
「君は、観測されたいと思ったことがあるかい?」
と、彼女は言った。
放課後の理科準備室。
割れたビーカーと、誰も使わないオシロスコープと、三年前に退職した教師の私物らしき『量子力学入門』が置かれているこの部屋で、彼女は唐突にそう言った。
彼女の名前は、
嘘みたいな名前だが本名らしい。戸籍を見せてもらったことはないが、彼女が嘘をつくときはもっとわかりやすい顔をする。
「観測されたい、って何だよ。承認欲求の話か?」
「違うよ、観測欲求。量子的な意味での」
僕の名前は
親のネーミングセンスを恨んだことはあるが、今はそれなりに気に入っている。量子論をやるには都合のいい名前だ。
観測波は黒板にチョークで式を書く。
Ψ → |0⟩ + |1⟩
観測 → どちらかに収束
「ねえ、測良子。もし人間が観測されるまで状態が定まらない存在だったらどう思う?」
「思春期みたいだな」
「ロマンがない」
彼女はチョークを折った。意図的か、偶然か。彼女の場合、その区別はつかない。
「今、この学校に量子幽霊がいる」
来た。
彼女の話はいつもここから始まる。つまり、ありえない前提から。
「観測されない限り存在が確定しない存在。カメラに映らない。記録に残らない。でも、確率的に干渉してくる」
「それもうただの統計誤差じゃないのか」
「違うよ。昨日、購買のパンがひとつ多く売れた」
「それは誰かが買ったんだろ」
「でもレジの記録にはない」
僕は溜息をつく。
この学校、私立・虚数高校は進学校だが、時々こういう空白が起こる。出席簿にない生徒の噂。誰もいないのに開く窓。存在しないはずのクラス。
そして、そのすべてを「量子力学」で説明しようとするのが観測波だ。
「量子幽霊はね、自分が存在しているって証明できないの。だって観測されないと存在しないんだから」
「それ、詰んでないか?」
「だから私たちが観測してあげる」
彼女は言った。
まるで慈善活動のように。
§
その日の夜。
僕は自室で考えていた。
量子幽霊。
観測されたい存在。
もし、観測することで世界が確定するなら、観測しなければ世界はどうなっている?
シュレーディンガーの猫は、生きても死んでもいない。
箱を開けるまでは。
では——箱の中に誰も観測しない猫がいたら?
そのとき、猫は存在しているのか?
スマホが震えた。
観測波からのメッセージ。
《今、理科準備室にいる。来て》
嫌な予感しかしない。
§
理科準備室の電気はついていなかった。
「観測波?」
暗闇の中、声がする。
「静かに。今、いる」
「何が」
「量子幽霊」
その瞬間、棚のビーカーが一つ、落ちた。
パリン。
僕は息を呑む。
「ほら、干渉」
「地震だろ」
「震度ゼロの地震?」
彼女は僕の手を掴んだ。
冷たい。
「測良子、観測して」
「何を」
「いるって、言って」
僕は意味がわからなかった。
だが、彼女の目は本気だった。
「……いる」
その瞬間。
空気が、歪んだ。
音が消えた。
まるで世界が一瞬、確率の海に沈んだみたいに。
そして。
……そして。
理科準備室の隅に、誰かが立っていた。
制服。
うちの学校の。
顔は、見えない。
ノイズみたいに揺れている。
「成功……」
観測波が、笑った。
「観測した。だから収束した」
それは、こちらを向いた。
口が動く。
声は聞こえない。
でも、言っていることはわかった。
——ありがとう。
次の瞬間、消えた。
完全に。
「……消えた」
「存在が確定したからだよ」
「意味わからん」
観測波は静かに言った。
「ねえ測良子。もしさ、私たちも誰かに観測されてるだけの存在だったら?」
「メタなこと言うな」
「観測者がいなくなったら、私たちは?」
その問いに、答えはなかった。
理科準備室の時計が動き出す。
さっきまで止まっていたのに。
§
翌日。
学校から「生徒が一名、行方不明」という連絡があった。
名前を聞いたとき、僕は息を止めた。
その名前は。
観測波だった。
教室の席は空いている。
出席簿から名前が消えている。
スマホの履歴もない。
昨夜のメッセージも。
理科準備室に行く。
黒板には、式が残っている。
Ψ → ?
その下に、見覚えのない文字。
《観測して》
背後で、声がした。
「君は、観測されたいと思ったことがあるかい?」
振り返る。
そこにいたのは。
観測波だった。
でも、少しだけ、ノイズが走っていた。
観測してこの物語を固定していきましょう。まだ続きますよ。