「君は、観測されたいと思ったことがあるかい?」
同じ台詞。
同じ声。
同じ理科準備室。
違うのは、僕の側だけだった。
「……観測波?」
名前を呼ぶ。
呼んだ瞬間、彼女の輪郭が一瞬だけ乱れた。まるで電波の悪い映像みたいに。
「それは、私の名前かな?」
「昨日までそうだった」
「昨日?」
彼女は首を傾げる。
動きが、ほんの少し遅延している。フレームレートが低い存在みたいだ。
「測良子、だよね」
「覚えてるじゃないか」
「覚えてる、というより……収束してる」
黒板を見る。
昨日僕が見たはずの式は、少し変わっていた。
Ψobserver × Ψobserved → collapse
「昨日、消えたのは私だったんだね」
さらりと言うな。
「学校中から存在が消えてる」
「うん。たぶん、私は観測されなかった」
「昨日あんなに見たろ」
「君だけが」
彼女は笑う。
「世界にとって、観測は十分な回数が必要なんだよ」
それは民主主義みたいな理屈だった。
多数決による実在。
僕はスマホを取り出す。
写真フォルダ。
ない。
昨日、理科準備室で撮ったはずの写真が消えている。
だが——
一枚だけ、ノイズまみれの画像が残っていた。
制服姿の誰か。
顔の部分だけ、確率の砂嵐。
「……これ」
「それ、量子幽霊」
「でも、消えたはずだ」
「消えたんじゃない。確定した」
「違いは?」
「私が曖昧になった」
等価交換、というやつだろうか。
観測できる存在の総量が一定なら、誰かが収束すれば、誰かが拡散する。
「保存則かよ」
「存在保存則。いいね、論文書けそう」
彼女は笑うが、足元が半透明になっている。
§
その日の授業中。
僕はある実験をした。
観測波のことをクラスメイトに聞いてみた。
「観測波? 誰それ」
「うちのクラスだけど」
「うちのクラスは38人だろ?」
数える。
確かに38人。
昨日は39人だったはずなのに。
僕の記憶だけが浮いている。
いや。
本当にそうか?
「なあ」
後ろの席の男子が言う。
「さっきから何もない席に話しかけてるけど大丈夫か?」
振り向く。
そこには、空席。
だが、僕には見えている。
観測波が、そこに座っている。
ノイズ混じりで。
「測良子」
彼女が囁く。
「逆転してる」
「何が」
「観測してるのは、君だけ」
つまり。
彼女は僕の世界にしか存在していない。
他の人間にとって、彼女は未収束の波動関数。
そして僕は。
「俺が観測者?」
「そう。唯一の」
嫌な予感がする。
唯一、という言葉はいつも不吉だ。
§
放課後。
理科準備室。
「ねえ、測良子」
観測波は棚に座っている。半分透けながら。
「もしさ、観測者が消えたらどうなると思う?」
「哲学か?」
「物理」
即答だった。
「観測者がいない世界では、全部が重ね合わせになる」
「じゃあ、世界はカオスか?」
「いいや、安定するかも」
「は?」
「だって、収束しないなら、確定しないなら、矛盾も確定しない」
彼女は笑う。
「戦争も、死も、失恋も。全部起こったかもしれないで済む」
それは優しい地獄だった。
そのとき。
理科準備室のドアが開いた。
入ってきたのは、知らない女子生徒。
いや。
知っている気もする。
制服。
黒髪。
表情が、ない。
ノイズ。
「……また来た」
観測波が呟く。
女子生徒は言う。
「観測、ありがとう」
声が、二重に聞こえる。
一つは現実の音。
もう一つは、直接頭に響く。
「あなたが観測したから、私は存在できた」
「昨日の……量子幽霊?」
「今は違う」
彼女ははっきりしている。
輪郭が安定している。
「私は収束した」
「じゃあ観測波は」
「代わりに、曖昧になった」
やはり等価交換。
存在の総量は一定。
「なあ」
僕は言う。
「これ、元に戻せるのか?」
女子生徒は首を振る。
「観測は不可逆」
エントロピーかよ。
「でも」
彼女は続ける。
「逆転はできる」
「何が違う」
「観測者と被観測者を入れ替える」
観測波が、静かに言う。
「測良子。君が観測される側になればいい」
「は?」
「君が曖昧になれば、私は戻る」
意味はわかる。
つまり。
僕が消えればいい。
「嫌だね」
即答だった。
観測波は笑う。
「安心して。完全には消えない」
「信用できるか」
「私を信用しないなら、誰を信用するの」
それは卑怯な問いだ。
女子生徒が近づく。
「あなたを、観測します」
「ちょっと待て」
彼女の瞳が、こちらを見る。
その瞬間。
世界が、ノイズに包まれた。
僕の手が透ける。
床の感触が遠のく。
音が遅延する。
「測良子!」
観測波の声が遠い。
「観測されるって、こういうことかよ……!」
輪郭が崩れる。
思考が分散する。
僕は今、1でも0でもない。
重ね合わせ。
存在と非存在の中間。
そのとき。
ふと思った。
もし僕が完全に曖昧になれば。
誰が、この物語を観測する?
読者?
作者?
それとも——
「まだだ!」
僕は叫んだ。
「俺は俺を観測する!」
自己観測。
自己言及。
量子論最大の禁忌。
だが。
その瞬間、世界が強制的に収束した。
閃光。
静寂。
そして——
理科準備室には。
三人、立っていた。
僕。
観測波。
そして、収束した女子生徒。
誰も、透けていない。
「……保存則、破ったな」
観測波が笑う。
「自己観測。ズルい」
女子生徒が言う。
「でも、その代償は来る」
「代償?」
彼女は黒板に書く。
Ψworld = unstable
「世界が、不安定になる」
その瞬間。
窓の外の空が、反転した。
昼なのに星が見える。
校舎が、少し傾く。
遠くで悲鳴。
観測波が囁く。
「測良子」
「何だ」
「観測しすぎた」
世界は今。
収束過多。
確定しすぎて、壊れかけている。
収束と反発。観測と未確定。
何が事実で何がフィクションか、決めるのは貴方です。