どちらかに偏りすぎるのはよくないですね。
世界が、確定しすぎている。
これは比喩ではない。
物理的に、だ。
空は昼であり夜であり、星は瞬きながら太陽と重なり、校舎は一度倒壊しかけて「やっぱりやめた」と言わんばかりに直立している。
曖昧さを許さなくなった世界は、逆に不安定だった。
「観測過多」
と、観測波は言った。
理科準備室の窓から、半分だけ星空になったグラウンドを眺めながら。
「普通はね、観測って足りないくらいなの。でも今は逆。全部が確定しようとしてる」
「確定したらいいじゃないか」
「良くないよ」
彼女はチョークを握る。
「量子の世界は“揺らぎ”があるから安定するの。ゼロか一かだけにすると、割れる」
割れる。
嫌な単語だ。
そのとき、校内放送が鳴った。
『三年二組の——』
ノイズ。
『——が、倒れているのが発見されました』
放送が、二重に聞こえる。
一つは通常のアナウンス。
もう一つは、別の内容。
『——は、倒れていません』
僕と観測波は顔を見合わせた。
「来たね」
「何が」
「確率的殺人事件」
軽い。
言い方が軽い。
§
三年二組の教室前は騒然としていた。
廊下の中央に、男子生徒が横たわっている。
いや。
横たわっている“ように見える”。
同時に。
立っている“ようにも見える”。
輪郭が二重化している。
倒れている像と、立っている像が、重なっている。
「……生きてるのか?」
隣の生徒が言う。
「死んでるだろ!」
「いや、さっき喋ってたぞ!」
教師が駆けつける。
脈を測る。
「……ある」
同時に、別の教師が言う。
「ない!」
観測が割れている。
僕は理解した。
「こいつ、“死んだ状態”と“生きてる状態”が同時に確定してる」
観測波が頷く。
「世界が、両方を許容してる」
「シュレーディンガーの猫かよ」
「箱が壊れてるけどね」
問題は単純だ。
観測が多すぎる。
しかも、矛盾する観測が。
誰かが「死んでる」と強く認識し、
誰かが「生きてる」と強く認識する。
その両方が収束してしまった。
結果。
存在が分裂。
男子生徒は、苦しそうに口を動かす。
「……たす、け……」
声が二重に響く。
「……たすかってる……」
観測波が僕の腕を掴む。
「測良子、選んで」
「は?」
「どっちかに収束させて」
「俺が?」
「今の世界で一番強い観測者は君」
それは嬉しくない称号だ。
「死か、生か」
究極の二択。
「他に方法は?」
「重ね合わせを許す」
「どうやって」
「観測をやめる」
簡単に言うな。
目の前で苦しんでいる人間を、観測しない?
それは、見捨てるのと同義だ。
僕は、男子生徒の前にしゃがむ。
彼の目を見る。
その瞳も、二重だ。
一つは光を失い、
一つは恐怖に揺れている。
「……頼む」
どっちの声かわからない。
観測波が囁く。
「測良子、決めないと世界が割れる」
廊下の壁に亀裂が走る。
天井が、昼と夜に裂ける。
時間が、前後に揺れる。
確定しすぎた世界は、矛盾に耐えられない。
僕は。
目を閉じた。
「俺は——」
観測しない。
そう、決めた。
目を閉じる。
耳も塞ぐ。
思考も止める。
死んでいるか、生きているか。
判断しない。
決めない。
ラベルを貼らない。
世界に委ねる。
数秒。
いや、数時間かもしれない。
時間の感覚が溶ける。
そして。
静寂。
恐る恐る目を開ける。
廊下は、元通り。
空は昼。
男子生徒は——
いない。
「……消えた?」
観測波が言う。
「いいや」
背後から声。
振り向く。
三年二組の教室の中で、彼は普通に席に座っている。
友人と笑っている。
「助かった、のか?」
「ううん」
観測波は首を振る。
「“どちらでもなくなった”」
僕は理解する。
死でも、生でもない。
その出来事自体が、曖昧になった。
殺人事件は、発生していないし、発生したかもしれない。
記録はない。
記憶も揺らぐ。
「これが、観測しないってこと」
彼女は少し震えていた。
「でもね」
「まだあるんだろ」
頷く。
「今のは“局所”。世界全体が同じ状態になったら」
嫌な想像が浮かぶ。
戦争も事故も、全部“あったかもしれない”。
責任も、罪も、功績も、全部曖昧。
「倫理が崩壊する」
「うん」
観測波は笑わなかった。
そのとき。
例の女子生徒が現れる。
完全に収束したはずの、元・量子幽霊。
「バランスが崩れています」
「見りゃわかる」
僕は言う。
「原因は、あなた」
「自己観測か」
彼女は頷く。
「観測者が自分を確定させたことで、世界に“絶対座標”ができた」
「何が悪い」
「世界は相対で成り立っている」
観測波が小さく笑う。
「測良子、中心になっちゃったね」
望んでない。
「じゃあどうすればいい」
女子生徒は、静かに言った。
「あなたが、いなくなればいい」
またそれか。
だが今回は、前回と違う。
「消えるんじゃない」
彼女は続ける。
「観測者を分散させる」
「分散?」
「世界中に」
意味が、わからない。
観測波が目を見開く。
「まさか」
女子生徒は、黒板に書く。
Ψworld = Σ Ψobserver_i
「観測者を、増やす」
「どうやって」
彼女は、こちらを見る。
真っ直ぐに。
「この物語を、読ませる」
一瞬、理解が遅れる。
「……は?」
「あなた一人が観測者である限り、世界はあなたに依存する」
彼女の声が、少しメタに響く。
「でも、もし無数の観測者がいれば?」
観測波が、にやりと笑う。
「読者」
「そう」
女子生徒は頷く。
「物語を観測する無数の意識。あなたを観測する視線」
背筋が冷える。
「じゃあ俺は」
「観測される側になる」
立場の逆転。
観測者から、被観測者へ。
世界を安定させるために。
窓の外が、再び揺らぐ。
空が二重化する。
時間が逆流しかける。
観測波が僕の手を握る。
今度は、はっきりとした温度。
「測良子」
「何だ」
「怖い?」
「当たり前だ」
彼女は微笑む。
「大丈夫。ちゃんと観測してあげる」
「信用できるか」
「できないね」
即答。
らしい。
世界が、ひび割れる。
女子生徒が宣言する。
「第四段階へ移行します」
「段階?」
「観測者の観測」
空間が反転する。
視界が、紙のようにめくれる。
僕は思う。
もし、今これを読んでいる誰かがいるなら。
あなたは、僕を観測している。
ならば。
ならば。
僕は、確定する。
世界は、安定する。
その代わり——
僕は、物語になる。
視界が白に溶ける。
最後に聞こえたのは、観測波の声。
「次は、あなたが観測する番だよ」
観測する、しない。どちらかを選ぶのは勇気か傲慢か。
貴方はどう定義しますか?