覚めない夢はない。そんなこと…とっくに分かっていた筈なのに。
どうしようもなく、その暖かさに溺れてしまった。
あぁ、だから…だから、これは抗うことを諦めた僕の罪で罰だ。
響くドラムの音、導くお姉ちゃんとそよお姉様の音。それを聞きながら睦姉さんと目を合わせて音を刻む。
でも燈ねぇの声は、切り取られた心の叫びは燈ねぇの喉で躓いて出てこない。
代わりに漏れたのは、小さな拒否の言葉だった。
「歌なんて…歌えない…!」
俯く燈ねぇに、誰も何を言えばいいのか分からず重い空気が流れる。
でも、そよお姉様がそんな空気を読んで「少し休憩しよっか」って、無理に笑った笑顔で皆の手を取った。
…なにも変わらない光景。これは、アニメで見た通りのCRYCHICの物語だ。
なのに、なのに…なんだか、胸を突き刺す痛みに襲われた。
駄目なのに、なにも感じちゃ…だって、壊れた仮面は全てを隠してはくれないから。
だから、また…ずれた。
「うん!休憩しよー、僕疲れた!ほら、燈ねぇいこ?」
「あ…うん…」
淡く柔らかい小さな手に、僕の手が繋がる。
命の暖かさが籠った彼女の手は、太陽に照らされた芝生のように穏やかなものだった。
カタリ、カタリ…少しずつ歯車の動きは変わる。決められた定めから。
「ありがとうございます」
そよお姉様が皆の分の飲み物を持ってくる間も、僕と燈ねぇの手は離れなかった。
「それじゃあ、初めての練習お疲れ様ってことでー」
「呑気なこと言っている場合?練習にすらならなかった。あんな調子でバンドやれるの?」
立希ねぇの言葉に、燈ねぇの手に力が入り項垂れる。
でも、そんな彼女に伸ばそうとした手を僕はゆっくりと下げた。
だって、これは僕の役目じゃない…お姉ちゃんの役目だから。
「燈さん、どうしても歌えませんの?何が駄目ですの?」
そう問うお姉ちゃんの言葉に、僕の手を撫でてから燈ねぇは答えた。
「人前で歌うのが…」
自信なく垂れたその声に、立希ねぇは追い詰めるように声を掛ける。
「でも、ボーカルってバンドの顔でしょ?なんで燈なの」
その言葉になにも答えられない燈ねぇは僕の手を弄くり考え続ける。でも、新たな言葉は紡がれず重い空気のまま…僕たちは一旦解散になった。
でも、燈ねぇとお姉ちゃんに繋がれた手は離されなかった。
帰り道、暗い夜の歩道橋の上…お姉ちゃんと燈ねぇが向き合った。
「なんで…私なの」
小さく自信のないように呟くその声にお姉ちゃんは自信満々に答える。
「貴方の書いた歌詞ですもの、本人が歌った方がいいに決まってますわ。…燈の歌詞は心の叫びですから」
酷く、真っ直ぐで止まらない言葉に燈ねぇは口を噤んだ。
だから、お姉ちゃんは彼女に自信を持って貰うように叫んだ。
「人間に、なりたいですわー!…ほら、翔子も!」
そう釣られて、僕も叫ぶ。酷く痛いほどに分かるその言葉を。
「人間に…なりたいー!!─うぅ燈ねぇも、ほら!」
なんで、僕を挟むの…居なくていい筈なのに、いや居ちゃいけないのに。
そんな声を漏らすことなんて出来なくて、僕も明るくお姉ちゃんのように燈ねぇの手をまた取った。
か細く、拙く彼女は紡ぐ自らの言葉を。
だけれど、その声じゃ誰にも届かなくて呆れたような声が聞こえた。
「ねぇ、やる気ある?」
「立希ちゃん。歌えるようになっただけでも一歩前進だよ?」
燈ねぇのビクビクする姿を見ていると、何故か手を伸ばしたくなる。
その理由が何となく、分かった。今の燈ねぇは昔の諦める前の僕みたいなんだ。
手を伸ばすのは怖いのに、暖かい空に手を伸ばしたくて。
今を、必死に歩んでいるんだ。
だから思わず、吐き出しそうになる言葉をギターの音色で書き消した。
「…翔、歌ってる。痛いの…?」
でも、それのせいで睦姉さんに仮面の中の感情を見られてしまった。
「うん、痛いよ…。だって…僕は等身大で叫ぶ燈ねぇの歌が聞きたいから」
咄嗟に出た嘘のようで本当の言葉に、僕を隠して呟く。
睦姉さんは、その言葉に「そっか…」と呟いて何時ものようにギターへ目を向けた。
そして、お姉ちゃんが僕の言葉に同調して燈ねぇの顔を見て問う。
「えぇ、翔子。わたくしも同じ思いですわ。昨日の歩道橋では歌えましたのに…」
「うーん、スタジオだと緊張しちゃう?」
「うん」
「そっか~…あっ!」
豆電球が点いたかのように、そよお姉様が微笑んで。
そんなそよお姉様に僕たちが連れてこられたのはカラオケだった。
「うわ~!カラオケだよ、お姉ちゃん!」
「ふふっ。翔子、危ないですわよ?」
たどり着いた瞬間、お姉ちゃんの手を取って僕は外れかけている仮面を着け直おすために無邪気にはしゃぐ。
そんな僕を、睦姉さんはずっとずっと見ていた。
どうしたの、そう聞こうとする声は大きな燈ねぇの声とはしゃぐお姉ちゃんの声で書き消された。
「出ましたわ!睦、翔子、今の見まして?燈、どうやったんですの?」
「えっと…押した」
「…?出ませんわ…」
「ふふっ、お姉ちゃん。こういうのはね、同じところから出ないんだって友達が言ってたよ!だから、ここ!……?あれ?」
「…何やってんの、そこ違うから」
はしゃぐお姉ちゃん達に立希ねぇは、呆れたように見る。でも、お姉ちゃんはそんなことを気にしないで「立希さんお詳しいのね!」と明るく返していた。
その瞬間だけは、今までの少し重い空気を感じずに済んで。それと同時に、CRYCHICの光を垣間見た気がした。
「遊ばないでくださ~い」
そして、またそよお姉様の案内で部屋へ向かった。
「カラオケって、なんて楽しいんですの♪」
「まだ歌ってないのに…」
ルンルンと、ご機嫌なお姉ちゃんを見ながら僕は睦姉さんの隣で自己を出さないように隠れる。
だって、今から始まるのはCRYCHICの彼女達の思い出だから…僕が邪魔したくない。
でも、僕の目の前に睦姉さんはマイクを差し出した。
「翔…歌おう?」
これを、受け取ってしまったら何かが壊れてしまう気がして手を伸ばさなかった。
でも、そんな僕を見て睦姉さんは不思議そうにして僕の手を取ってマイクを渡してきた。
それは、その出来事は…まるで僕にここにいていいと言われているみたいで…。
だから僕はその夢に溺れた。奏でる声が、はしゃぐ声が幾つも聞こえる楽園のようなこの夢に。
あぁ、楽しい…。皆の笑顔を見てそう思えて…。ずっと感じていた孤独感が、疎外感がチクリと痛む心を残してそこでやっと、消えた気がした。
きっとこの淡い、淡い夢は…どこまでも続くような気がして、でもそうじゃなかった…結局、僕はこの世界で、この皆が進む運命で存在する筈のないものだったんだ…。
次の日、燈ねぇからの歌詞書いたとのメッセージが来て。また、あのカフェで僕たちは集まった。
やっぱり一番期待していたお姉ちゃんが燈ねぇから受け取ったノートを開いて、ゆっくり歌詞を読んでいく。
その横で僕は、何故か痛み続ける胸に手を当てて息を吸っていた。
『きっと…分かっていたんだ。これで、僕がどうしても孤独だってことを突きつけられることを。だから痛かった。逃げ出したかった。見たくなかった。でも、もう逃げ出すことなんて出来なくて…お姉ちゃんの泣き顔だけを見ていた』
「これは…春日影は…わたくし達の歌ですのね」
その泣き顔は、どこまでも美しくて届かない星のようで。その輝きに照らされた叫びを、僕は見た。
春日影…透き通るように青く、儚くて美しいその曲を僕は前の時ずっと聞いていた。
だから、だから分かってしまった。
その歌詞にその思いに…僕がいないことを。
あぁ、痛い…痛い。僕は、何で…生きているんだろう…?
「翔子、泣きすぎですわよ…?ほら、拭いて上げますから…」
ポロリ、ポロリ…流れ出る涙は止まることなんてなくて、綺麗な太陽の外に居る僕だけ照らされないことが辛くて、心配そうに見ている彼女を、僕は…信じれなくなった。
楽しかったのに。ずっと、ずっと…一緒に居られると思っていたのに。僕はもう、1人じゃないってそう、思っていたのに。
また、僕はどこにもいない。裏切られた気分だった。
「…ごめん、お姉ちゃん…皆。ちょっと急に体調悪くなっちゃった。今日は少し、休むね」
多分、そんなようなことを言って。僕は外へ出た。
「翔子…一体どうしたんですの…?あ、皆さん…私は翔子を休ませて来ますので少し待っていて…!」
あぁ、今だけは…このどこまでも続く蒼を照らす太陽の眩しさがうざったく感じた。
こんなにも、こんなにも僕の周りは夜に満ちているのに。それなのにまだ、手を伸ばすから。
だから、だから…パキッとまた仮面が割れてしまった。
「…翔子─?」
「…いい、お姉ちゃんは皆と居て。曲…作るんでしょ」
「えぇ、でも翔子、貴方も一緒に─」
突き放す言葉に、お姉ちゃんは戸惑って…でもまだ、手を伸ばして、でも僕は今すぐにでも走り出したかった。
だから、隠せない言葉が溢れそうになる。でも、どうにか殺して…目を逸らした。
「…っ!大丈夫だから…お姉ちゃん。お願いだから、あっちに居て。少し、少し…休んだら治るから…そしたら、ちゃんと戻るから。だから…お願い。今は休ませて」
「分かり、ましたわ…」
やっと、見てなくなった太陽の影で僕は流れ出る涙も隠さず影に溶けるように溢し続ける。
でも、どれだけ泣き叫んでもどれだけ歩いてもこの世界には僕の居場所はなくて。
また、宙に浮いた。
そして、そのままどこまでも飛んで行きそうなそんな僕の手を…暖かな夜が握り締めた。
「…翔ちゃんだよね。なんで、そんなに辛そうに泣いてるの?」
優しく、優しく…ただ寄り添うように聞く彼女は。
古い、古い…お姉ちゃんの友人だった。
「初ねぇ…?─やめて…見ないで!離して…!」
「ううん、離さない。…そうだ。翔ちゃん、私の家来て。そこで話そう?何があったのか、なんで泣いているのか。全部、教えてほしいな」
「やだ、いやだ…お願いだから、僕を見ようとしないで─」
「ダメだよ、翔ちゃん。だって、あの時翔ちゃんは私の手を離さなかったんだから。私も、離さない」
セミの音が鳴る夏の夜を思い出しながら彼女は、力強く僕の手を握る。
逃げれない、そう分かってしまう程に。
だから、諦めて僕は初ねぇに着いていった。いや、着いていくしかなかった。
「─それで、何があったの?」
目の前に置かれたココアを手に、僕は初ねぇを見る。
彼女の目は、ずっと僕を見ている。逸れることなく、今は僕だけを見ている。
それが嫌で目を背けようとしても…初ねぇは僕の顔を触って目を合わせる。だから、ポロポロと崩れていく仮面と共に僕の言葉が紡がれていく。
「…僕はね、この世界に居なくていいの。いや、いちゃダメなの。でも、それなのにお姉ちゃんの手を取っちゃった…。それでもね、あそこ…お姉ちゃんのバンドに居れば居る程本当は居てもいいんじゃないかって…思えて。嬉しくて、楽しくて。でもね、やっぱり居場所はなかった。分かってたのに、理解していたのに…痛くて…消えてしまいたい。でも、お姉ちゃんは僕の手を掴もうとして…もう、どうすればいいのか分からないの。こんなことなら、生まれて来たくなんてなかった…」
頭の中、ぐちゃぐちゃで…漏れていくのは言葉じゃない感情だった。
それでも、初ねぇは目を背けず僕の嘆きを聞く。
そして、咀嚼するように一息置いてから僕の体を抱き締め、頭を撫でながら仮面を外した。
「…私はね、翔ちゃんが生まれてきてくれて良かったって思ってる。あの日、あの夜。私の嘘がバレた日…私はもう終わりなんだって思った。それなのに翔ちゃんは笑って言ってくれたよね。騙してても、二人とも幸せならそれでいいんじゃない?って。無責任で、無邪気で。でも、私にとっては救いの言葉だった。翔ちゃん、私にとってね祥ちゃんは眩しい眩しい光で、翔ちゃんはその側で咲いている綺麗な花なんだ。そして、その花は嘘の初華にも初音にも向いてなくて。誰でもない私に向けれられていて…冷たいのに、暖かかったんだ。また会いたいって思う程に…」
「だから…そんなこと言わないで?この世界で、翔ちゃんも生きて…?」
それは、僕のミスで出来てしまった運命の狭間だった。そして…僕がこの世界で生きていることの証拠で大好きなこの世界を壊してしまった証拠だった。
やっぱり、僕なんて。そうやって自分を攻める声が響く。でも、初ねぇの暖かさが沈むことを許さなくて。
答えのない問いだけが残った。
それは、僕がこの世界でお姉ちゃんの妹になぜ生まれてしまったの…?という当たり前の問いだった。
僕じゃなくて、この世界の皆を助けれるヒーローだったら。それで、良かったんじゃないかって。
でも、そんな問いなんて意味がなくて。
僕の言葉を待っている初ねぇに、僕はまだ定まっていない言葉で答えるしかなかった。
「分かった…とりあえず、生きてみる」
だって、僕が死んだら…きっと初ねぇが傷ついてしまうから。
重い、重い鎖が僕へ繋がれた。もう、どこにも浮かぶことは出来ない。
この世界で生きるしかなくなった。
それは、辛い筈なのに…何処か救われた気がする心があった─。
似た者同士、けれど違う。それでも─。