皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
「ルドルフ、落ち着け!」
シリウスシンボリが必死に羽交い締めにする。
スピードシンボリも立ち上がり、肩を押さえた。
「今、無駄に動いても意味がない!」
だが、ルドルフの抵抗は止まらない。
押さえれば押さえるほど、抜け出そうとする力は激しくなる。
普段は思慮深い彼女には珍しい姿だった。
スピードが苦渋の表情で右手を上げる。
「『ルナ』、止めろ!」
パン、と乾いた音が響いた。
スピードの手がルドルフの頬を打つ。
その瞬間、すべての動きが止まった。
幼名を呼ばれたルドルフは、悔しさに震えながらスピードを睨む。
荒い息が三人の間で絡み合った。
「私がURAの上層部に連絡を入れる」
スピードは両腕を広げ、必死に説得する。
「救急車で病院に搬送されているはずだ。まずは状態を確認してからだ」
そして、冷徹な現実を突きつけた。
「今のシンボリルドルフには、何も出来ない」
その言葉が胸に突き刺さり、ルドルフの力が抜けていく。
シリウスに押さえられていた腕が、するりと落ちた。
膝が床に崩れ、四つん這いになった背中が震える。
涙がポタポタと床を濡らし始めた。
次の瞬間――
ルドルフは嘔吐した。
悲鳴のような、泣き声のような音が部屋に満ちる。
喉から迸る枯れた声。
その惨烈な姿を、スピードとシリウスはただ見守るしかなかった。
千葉県船橋市。
中山レース場と同じ市内にある緊急病院。
集中治療室前の長椅子に、東条トレーナーとシンボリルドルフが座っていた。
東条はツイードのジャケット、ルドルフはジャージ姿。
レース場から駆けつけたままの格好だった。
二人は出会った瞬間、言葉を交わすこともできず、
ただ長椅子に崩れ落ちた。
医師からは「本来は来てはいけない」と言われたが、
師匠と妹の強い願いに押され、
“治療室の前にいることだけ”が許された。
薬品の棘のある匂いが鼻を刺す。
夜の病院は暗く、青白い照明だけが頼りだった。
「……申し訳ない。こんなことになってしまって」
東条が項垂れ、声を絞り出す。
「調子は良かったんだ。だけど、それが裏目に出た」
ルドルフは無表情のまま前を向いている。
「絶好調だったからこそ、勝ちたい気持ちが出すぎて……力んでしまったんだ」
東条の声には痛恨が滲む。
「焦りもあったのかもしれない。このところ負け続けていたから……
チャンスを掴みたかったんだろう。体調の維持が難しい娘だから、なおさらだ」
沈黙が落ちる。
どれほど時間が経ったのか分からない。
ルドルフは両手を膝に置き、震える指先を見つめていた。
瞼を閉じれば、テレビで見た“膝が崩れる瞬間”が蘇る。
心が乱れ、目を見開く。
――シンボリフレンドは右脚を脱臼し、横転。
その際、肋骨が肺に刺さる重傷を負った。
救急搬送され、到着後すぐに大手術。
肺と骨の処置、脚の整復。
手術はつい先ほど終わったばかりだった。
医師の説明は厳しいものだった。
――現役復帰は難しい。
――まずは命が助かるかどうか。
帰宅を促されても、二人は動けなかった。
その時、影が近づく。
「ルドルフ……」
耳がピクリと動き、やつれた顔が上がる。
「スピード、さん?」
スピードシンボリが心配そうに立っていた。
東条も疲れ切った表情で顔を上げる。
「お迎えに上がりました。東条トレーナー、ルドルフ」
柔らかな笑みが、二人の憔悴を包む。
「フレンドをご心配なのは痛いほど分かります。
一命は取り留め、小康状態とのことです。予断は許しませんが……」
そして、ルドルフへ向き直る。
「ただ、ルドルフ。君には“やるべきこと”があるはずだ」
「それは……」
ルドルフは息を呑む。
「トレセン学園に入学し、クラシック戦線に名乗りを上げることだ」
スピードは拳を握り、自らの胸を叩いた。
「そこには、君をライバル視するビゼンニシキを含め、多くの猛者がいる。
厳しい茨の道だ。その王道を進むには、力が必要だ」
そして、静かに問いかける。
「ここで姉を見守ることが……フレンドの本意に適うのか?」
その言葉が、ルドルフの瞳孔に火を灯した。
「……違う。姉さんは、皐月賞とダービーで私が勝つのを望んでいる」
胸が熱くなる。
フレンドが果たせなかった夢――クラシック制覇。
それを叶えられるのは、自分だ。
「そうだな。ここにいても、しょうがない」
ルドルフは顔を上げた。
東条も重い腰を上げる。
「一旦、帰るしかないか……」
「空港近くの『本拠地』に戻ったら、今日は休みなさい。
トレーニングは明日から、様子を見ながらだ」
東条は教え子に向けるような口調で言った。
ルドルフは素直に頷く。
「じゃあ、駐車場へ行こうか」
スピードが車のキーを握る。
まず本拠地へルドルフを送り、その後で東条を府中へ送るつもりだ。
三人は青白い廊下を歩き出す。
ルドルフはちらりと病室を見た。
(フレンド姉さん……頑張れ)
トレセン学園への入学。
春のクラシック戦線。
姉と交わした“同じレースに立つ”という約束。
その全てを胸に、ルドルフは深夜の病院を後にした。