皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
二月最後の日曜日の午後。
シンボリルドルフは、「シンボリフレンド」と記されたネームプレートの前で深呼吸し、病室の扉をノックした。
「はあい」
聞き慣れない声。
そっとドアを開けようとした瞬間、内側からスライドして開いた。
若い看護師が開けてくれたのだ。
個室病棟。
白を基調とした静かな部屋には、テーブルとソファが向かい合い、奥にベッドがあった。
そのベッドに、フレンドが横たわっていた。
「フレンド姉さん」
ルドルフは微笑み、静かに近づく。
布団に包まれた姉は、青い医療用マスクをつけていたが、顔色は思ったより悪くない。
「会話できるようになって、良かったです」
看護師に促され、ルドルフはベッド脇の丸椅子に腰を下ろす。
「五分間ですからね」と耳元で念押しされた。
脚の脱臼、肺への損傷――
重傷だったが、ようやく快方へ向かい始めたところだ。
「四月はいよいよトレセン学園へ入学だね、ルドルフ」
マスク越しの声は弱々しい。
「姉さん、学園やレースのことは一旦忘れて、療養に専念してください」
ルドルフは身を乗り出し、心配を隠さない。
「そうね。でも……可愛い妹がトゥインクルシリーズを目指すんだもの。応援しちゃうわよ」
フレンドはかすれた声で笑った。
その必死さが、ルドルフには胸に刺さる。
「姉さんは、ご自身のことを第一に考えてください」
「早く元気になって……ルドルフの力になりたいの」
フレンドは真摯な目を向ける。
「そして、将来は……全てのウマ娘の幸福のために働きたい」
弱々しい笑顔だった。
「でもね。アメリカへ行か……」
続いた小声が、聞こえないように途切れた。
「それは……いいですね。私もお手伝いしたい――」
小声が聞こえないようなルドルフが、言いかけたところで、看護師が腕時計を見た。
「お時間です」
姉妹の会話は、無情にも打ち切られた。
「じゃあ、姉さん。また来ます」
立ち上がるルドルフの目に、フレンドの涙が光った。
胸が締め付けられ、両手を強く握る。
「じゃあ、またね……ルドルフ」
フレンドも寂しげに手を振った。
ルドルフは後ろ髪を引かれるように歩き、看護師が開けたドアをくぐる。
閉じられた扉の前で、ネームプレートを見つめ、深く息を吐いた。
それが希望か、ため息かは分からなかった。
数時間後。
シンボリルドルフは病院の廊下を全力で走っていた。
ウマ娘のフルスピード。
医師や看護師が左右に避け、風が巻き起こる。
その目は真っ赤に腫れていた。
後方には、険しい顔のスピードシンボリが続く。
シリウスは「本拠地にいろ」とスピードに怒鳴られ、置いてきた。
「フレンド姉さん……快方に向かってたんじゃないのか!!」
廊下に響く叫び。
「私がトレセン学園に入学したら、一緒にレースを走るって言ってたじゃないか!!」
胸の底から噴き出す悲鳴。
「なんで……なんでこんなことになるんだ!!」
スピードは耳を塞ぎたくなるほどの叫びを聞きながら、ただ走った。
容体急変の連絡が入ったのは、ルドルフが見舞いを終えた日の夕方。
本拠地で軽いトレーニングをしていた時だった。
スピードの携帯に、凶報が届いた。
二人は車に飛び乗り、東関東道と京葉道路を疾走した。
スピードの運転は、まるでマルゼンスキーのように鋭かった。
助手席のルドルフは、爪を噛みながら震えていた。
そして今、再び「シンボリフレンド」の扉の前に立つ。
震える手でノックし、ドアを開けた。
昼間とは違う光景。
医師と看護師が数名、ベッドを取り囲んでいた。
「姉さん……」
ルドルフは脚の力が抜けそうになりながら近づく。
スピードも後ろで息を呑む。
人垣が割れ、フレンドの姿が現れた。
人工呼吸器。
透明マスクの中で、弱々しい息が荒れている。
「フレンド姉さん……」
ルドルフは左腕にそっと触れた。
医師が止めようとしたその時――
フレンドの瞼が、ゆっくりと開いた。
「……ルドルフ」
かすかな笑顔。
ルドルフは涙をこらえながら励ます。
「大丈夫だよ。私、来たよ。スピードさんもいる。お医者様だって、たくさんいる」
フレンドは左手を伸ばし、ルドルフの手を握った。
温もりが伝わる。
「お願いが……あるの……」
ルドルフは身を乗り出す。
「……もし、レースに出走する時は……普段通りで、ね」
ルドルフは強く頷いた。
「あなたの能力なら……絶好調はいらない。
調子が良すぎると……体調が急変する可能性がある。
昼は良くても……夜には悪くなる。今の私みたいに」
「分かった」
ルドルフは手を握り返す。
「トレセン学園で……頑張ってね。
クラシックは大変だけど……あなたなら、結果を出せる……」