皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
スピードシンボリに背中を押された影響だろう。
シンボリルドルフは『選抜レース』に出走した。
デビュー前のウマ娘が、トレーナーや関係者に能力を示す場。
通常は“スカウトされたい者”が走るレースであり、
すでに実力が知られている者は出走を控えることも多い。
だがルドルフは、あえて出た。
――自分はフリーだ、と全員に示すために。
そして当然のように勝利した。
鎧袖一触。万邦無比。
学園アナウンサーの言葉は、観客の胸に深く刻まれた。
「……凄い」
その一言しか出ない。
東条も観戦しており、圧倒的なパフォーマンスに再び心を奪われた。
だが、その強さは逆にトレーナーたちを萎縮させた。
――もしこのウマ娘を預かって結果を出せなかったら?
――自分の無能さを晒すだけでは?
プライドの高いトレーナーほど、躊躇した。
東条ですら、声をかけられなかった。
東条はまだ戸惑いの中にいた。
「あのウマ娘のトレーナーに……俺は相応しいのか?」
独白はどこか寂しげだった。
考えをまとめられず、学園内を彷徨っていたその時――
「東条トレーナー!」
制服姿のシンボリルドルフが立っていた。
彼女もまた、ここで会うとは思っていなかったようだ。
「ふふ、ご縁がありますね」
柔らかな声。
避けられてはいないが、どこか距離を置いた他人行儀な響きがあった。
「『選抜レース』は効果的でした。
トレーナーさんお二人から、オファーを頂きました」
「そうなのか……」
覚悟あるトレーナーがまだいる――
その事実に、東条の胸に焦りが灯る。
「夏デビューが目標ですので。
早めにトレーナーさんの元で練習したいです」
淡々とした口調。
だが、その瞳は鋭く、相手の覚悟を測っていた。
「三日後までに決めます」
東条は息を呑む。
そして、胸の奥にしまっていた本音をさらけ出した。
「君の走りを……もっと見たいと思ったからだ」
ルドルフは静かに聞いている。
「実は、私の元を訪れた者が二人いる。
一人は『必ず強くする』と宣言し、
もう一人は『必ず歩む』と断言した」
彼らの覚悟は確かだ。
だがルドルフは、淡々と受け止めるだけだった。
「トレーナー君。三日後、私は再び同じことを君たちに問いたい」
東条に頭を下げた。
「君の想いを、表明して欲しい。
試すような真似をして、申し訳ない」
顔を上げると、苦しげな笑みを浮かべる。
「私も、必死なんだ。
誰もが認める頂点となり、あらゆるウマ娘を導きたい。
傲慢かもしれないが……それが全てのウマ娘の幸福に繋がると信じている」
その言葉は痛々しいほど真剣だった。
ルドルフは静かに一礼し、「それでは、また」と去っていく。
東条はその背中が見えなくなるまで、拳を握りしめて見送った。
シンボリルドルフは、当てもなく歩いていた。
スピードシンボリから「チームに入れ」と叱咤されたことが頭を離れない。
「……まったく、頭では分かっているのだよ」
トレセン学園に入った以上、
トゥインクル・レースに出るにはトレーナーが必要だ。
だからこそ選抜レースに出た。
オファーも来ている。
あとは―― どこを選ぶか。
(フレンド姉さんだって、私が活躍することを望んでいる。
だけど……姉さんの夢を継ぐなら、百駿多幸を叶えるなら……
どこがいいんだ?)
大人びたルドルフにしては珍しく、迷っていた。
歩きついた先は、普段なら寄りもしない場所。
「……木の切り株、か」
朽ちた根元だけが残る木。
陰の気を帯びたその場所に、なぜか惹かれた。
「おい、どうした?」
声に振り向くと、テンガロンハットの男が白い歯を見せていた。
「まあ、切り株には近寄らない方がいい。
ここはレースに負けたウマ娘が、悔しさを吐き出す場所だ」
筋肉質の腕を組み、男は笑う。
「また会ったな、シンボリルドルフ」
“必ず強くする”と誘ってきたトレーナーだった。
破天荒な印象だが、どこか憎めない。
「俺でいいなら、話してごらんよ」
顎をしゃくって促す。
ルドルフは驚きつつも、なぜか拒めなかった。
「ふふ……何から話せばいいのか。そこすら分からないのですよ」
苦笑するルドルフに、男は肩をすくめた。
「分からなくてもいいんだよ」
意外な言葉だった。
切り株に来るウマ娘は、悔しさや悲しさを抱えている。
本当は喜びたいのに、できない事情がある。
心の葛藤を抱えた者が来る場所だ。
「では、どうすればいいのか? 悩んでいるんだろ?」
ルドルフは素直に頷いた。
男はルドルフの額に指を三度、軽く当てた。
「SLEEP、EAT、RUN」
「それは……?」
「早く寝る。一晩寝たら、メシを食って、走る!」
白い歯が輝く。
「ウマ娘だろう、アンタは。
それ以外に何がある?」
単純だが、迷路に迷い込んでいたルドルフには、
その言葉が胸に響いた。
「……なるほど。そういうことですね」
過ぎた日は戻らない。
悩んでも仕方ない。
立ち止まるなら、一度リセットして走り出せ――。
ルドルフの表情に、少し光が戻る。
「じゃあ、またな」
男は指を二本立て、軽く敬礼して背を向けた。
ルドルフは思わず声を上げた。
「トレーナーさん、名前を教えてください!」
男は一度だけ振り返り、テンガロンハットを持ち上げた。
「宮園だよ」
そして歩き去る。
右手を頭上で振りながら。
その姿は、ルドルフには太陽のプロミネンスのように見えた。
希望の光が、ゆっくりと遠ざかっていく。
ルドルフは、その光が見えなくなるまで立ち尽くしていた。