皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
「どうするんですか、東条さん」
石上サブトレーナーの詰問が、トレーナー室に鋭く響いた。
椅子に腰を下ろしたばかりの東条は、ホッカイペガサスとイズモランドのトレーニングメニューをバインダー越しに確認していたが、その手が止まる。
「このままだと、宮園トレーナーにルドルフさんを奪われますよ?」
『選抜レース』での圧勝以来、二名のトレーナーが名乗りを上げた――そんな噂を無視するように、東条は書類に視線を落としたままだ。
石上の眉がつり上がる。
「聞いてるんですか?」
机を叩く音が重なり、東条は逃げるように立ち上がった。
バインダーを脇に抱え、部屋を出ようとドアを開ける。
廊下に出ると、石上が慌てて追いすがった。
「何考えてるんですか!」
痛烈な言葉も、東条には届いていないようだった。前だけを見据え、歩みを止めない。
「東条さん、ゆかりのウマ娘でしょう。姉のシンボリフレンドはあなたのチームだった。スピードシンボリ先輩とも深い縁がある。母親だって――」
「俺だって考えてる!」
東条の怒声が廊下に反響した。
「千葉の『本拠地』で、俺が“ルナ”と口にしたあの日からだ。あれ以来、ルドルフは俺に不信感を抱いている。……だが、手をこまねいていたわけじゃない」
東条の目が鋭く光る。
「スピードシンボリに口を利いてもらって、『御大』に会ってきた」
“ルナ”という幼名に隠された秘密を知るために。
――千葉の『本拠地』。
荘厳な屋敷の最奥、薄暗い和室。
上座に鎮座する『御大』は、年齢すら判然としない威圧感をまとっていた。
「東条トレーナーか。遠路、大儀である」
その声音だけで背筋が震えた。
「恐れながら……知りたいことがあり、参りました」
『御大』は顎をさすり、鋭い眼光で東条を値踏みする。
「ルドルフの母親のことだな」
「……はい」
床の間に飾られた大小の日本刀が、静かに光を返す。
一歩でも誤れば斬られる――そんな緊張が走る。
「よかろう」
『御大』の口が開いた瞬間、空気が重く沈んだ。
「それは、母である“ルナ”に降りかかった運命なのだよ……」
――その内容は、あまりにも重かった。
東条は、石上にその事実を語りながら歩いていた。
「……御大から聞かされたのは、断片だけだ」
石上は黙って耳を傾ける。
「ルドルフの母親には、ある“出来事”があったらしい。
詳しいことは、家の中でもほとんど共有されていない。
ただ……二人の娘を守るために、何かが起きた。
そして、その後――母は海外へ移された」
石上が息を呑む。
「そんな、フレンドさんと同じだなんて……」
東条は首を横に振った。
「似ているようで……質が違う。
フレンドは“今”の喪失だが、母親は……“空白”のまま残された喪失だ。
御大は“運命”とだけ言った。
それ以上は語らなかった。
私にも、真相は分からない」
石上は言葉を失う。
「……ルドルフさんは?」
「幼かったからな。
覚えているのは、姉の声と……母の背中だけだそうだ。
その日を境に、母は姿を消した。
会うことも、消息を確かめることも許されなかった」
東条の声には、どうしようもない無力感が滲んでいた。
「私は……その空白を埋めてやりたかった。
過去を共有し、前へ進む力にしてほしかった。
だが……」
「それは……」
石上が言葉を選ぶように歩みを緩めた、その時。
「その話、聞かせてくれませんか?」
東条の前に、制服姿のシンボリルドルフが立っていた。
腕を組み、静かに、しかし圧をまとって。
「ルドルフ……」
東条は思わず名を呼んだ。
どうやら、石上との会話を聞いていたらしい。
「いいよ。話すよ……」
ルドルフは唇を結び、覚悟を決めたように頷いた。
東条は、知り得る限りの“断片”を語った。
――姉シンボリフレンドと、母と過ごした、あの日々の“断片”を。
だが語れば語るほど、言葉は空を切るように虚しく響いた。
語られた事実よりも、語られなかった部分の方が、はるかに重かった。
ルドルフは、ほとんど表情を変えなかった。
ただ、わずかに視線を落とし、長い睫毛が影を落とす。
その沈黙は、どんな言葉より雄弁だった。
「……それだけ、なのですね」
静かな声だった。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、深い底に沈んだような響き。
「すまない。
私にも、それ以上は……」
東条の言葉は途中で途切れた。
ルドルフの横顔に、淡い失望が浮かんだからだ。
それは責める色ではなく、
“また真実に触れられなかった”者の、静かな諦念だった。
ルドルフは何も言わず、二人の横を通り過ぎていく。
足取りは乱れず、背筋は伸びたまま。
ただ、その歩みには、どこか影が差していた。
廊下の光が彼女の影を長く伸ばし、揺らめかせる。
東条は伸ばしかけた手を、途中で止めた。
呼び止める言葉が喉まで出かかったが、声にはならなかった。
足も動かない。
ただ、遠ざかる背中を見送るしかなかった。
「……怒らせてしまったな」
東条は自嘲気味に呟いた。
その声は、先ほどよりもずっと小さかった。
「本当は、ルドルフを理解していると伝えたかった。
共に前へ進むため、過去を共有したかった。
だが……私は、ただ“空白”を突きつけただけだ」
深い自己嫌悪が胸に沈む。
石上は何も言えず、ただ隣に立つしかなかった。
一方、ルドルフは悩ましい表情で歩いていた。
自分の進むべき道を探しながら、
闇の中を手探りで進むように。
――母の記憶は、今も霧の向こう側にある。
その霧は、皆が守っているのか。
それとも、自分が忘れたのか。
答えは、どこにもなかった。