皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
十一月二十七日。
冬の気配を帯びた冷たい空気のなか、東京レース場は人の熱気で溶けるように温度を上げていた。
最晩秋の開催とは思えないほどの賑わい。
世界八か国の国旗がはためき、海外からのファンも多数詰めかけている。
午前中にもかかわらず、パドックは黒山の人だかりだった。
「やっぱり、いいウマ娘だね」
「バランスが完璧だ」
「ワンダフル!」
「オー、グッドルッキングホースガール!」
各国語で称賛を浴びるシンボリルドルフ。
がらんとしたパドックを、悠然と歩く姿はまるで“主役”そのものだった。
第三競走、芝1600メートル。
出走はわずか五人。
一人でも欠ければ不成立という異例の少人数。
――ルドルフの強さが、すでに“出走回避”を生むほど知られている証だった。
レースは呆れるほどの強さだった。
インの二番手で軽く流し、
直線で先頭に並びかけ、
少し気合をつけただけで抜き去る。
余力たっぷりのままゴール板を通過。
東条トレーナーが語った“理想のレース”を、
まるで実験するかのように完璧にこなしてみせた。
「トレーニング代わりに使われたよ……」
敗れたウマ娘のトレーナーが自嘲するほどの完勝。
「タイムオーバーにしないからって、出走を頼んだらしいぜ」
そんな噂まで飛び交う。
ルドルフの強さは、もはや“恐れ”の域に達していた。
「ルドルフちゃんに敵う相手、いるのかしら……」
イズモランドが呟く。
「ひょっとしたら……」
ホッカイペガサスが静かに言う。
「次のレースで分かるさ。ルドルフのライバルかどうか」
それは――
ジュニア級プレオープン戦『さざんか賞』のことだった。
地下バ道。
ビゼンニシキは渋い表情で舌を打った。
「何よ、皆。ルドルフ、ルドルフって……」
彼女も今日、さざんか賞に出走する。
だが明らかに“ルドルフを避けた”ウマ娘が集まっている。
「ナメられたものよね……」
握りしめた拳は、怒りと悔しさと闘志の混ざった震えだった。
そこへ、逆光の中から歩いてくる影。
「いい調子のようだな、ビゼン。期待しているぞ!」
「シンボリルドルフ……」
ルドルフは汗ひとつかいていない。
まるで“これから本番”のような顔だ。
「おめでとう。強かったわね」
「ありがとう」
平然と返すルドルフ。
「汗、一つ掻いていないのね……」
「まあね。君が出ていたら、汗を掻いていたさ」
ビゼンの頬が赤くなる。
ルドルフは右手を差し出した。
「今度は君の番だ。私に続いて圧勝してほしい」
「……もし、あなたが今から出走したら?」
「いいウォーミングアップだったからな。今度は全力を出せると思う」
「私にも勝てる、と?」
「まあ、レースはやってみないと分からないけど……」
ビゼンは息を呑む。
「……決して楽じゃないけど、勝てるね」
その傲慢さに、ビゼンはのけ反った。
「なんという傲慢さなの……!」
「普通に導き出せる結論さ」
ルドルフは肩をすくめる。
「でも、現実的には――私はもう三勝目。さざんか賞には出られない」
オープンウマ娘になったからだ。
「勝つのはビゼン。君しかいないだろ」
その言葉に、ビゼンの瞳が揺れた。
「ええ、絶対に勝つわ」
「その意気だ。さすが、大好きなビゼンだよ」
「なっ……!」
顔を真っ赤にして逃げるビゼン。
ルドルフは小さく笑った。
翌日。
ビゼンはトレセン学園の野外ステージへ向かっていた。
ブロークンヒルに呼び出されたのだ。
「また、日本のウマ娘は勝てなかった……」
昨日のジャパンカップは、またしても海外勢の勝利。
三年連続の屈辱だった。
ステージ最上段で待っていたブロークンヒルが口を開く。
「アタマ差の二着まで食い込んだのは、トレセン学園の娘よ。
でも激闘のせいでケガして、もう走れないって……」
ビゼンは胸が痛んだ。
「昨日、私は中京のすずかけ賞で負けた」
ブロークンは悔しそうに続ける。
「二勝してオープンになれば、ルドルフに再挑戦できると思ってた。
勝ちたかった……でも負けた」
「……」
「やっぱり私は、ルドルフに挑戦する資格すらないのね」
すすり泣きが混じる。
だが、次の瞬間――
ブロークンはビゼンを指さした。
「でも、アナタは違う!」
「……」
「昨日のさざんか賞、三バ身差の圧勝!
タイムも速い!
斜行したのはご愛嬌だけどね!」
ビゼンの耳がぴんと立つ。
「これなら、あのルドルフを負かせるかもって思ったのよ!」
ビゼンは悟った。
――この娘も、ルドルフと戦いたいのだ。
だが叶わない。
だからこそ、自分に託している。
ビゼンは静かに言った。
「宮園トレーナーが言ったんだ。
“今は我慢しろ。ルドルフとはいつかやり合う。
こんな小さな舞台じゃない。
G1、G2……命を削り合うトップレベルの場でだ”って」
二人は思わず笑い合った。
夕日が優しく照らす。
ジュニアの季節は終わり、
クラシックの季節が近づいている。
出走できるのは、ほんの一握り。
敗れた者の想いを背負って走る者だけが、
栄冠を掴む資格を持つ。
「分かったよ、ブロークン。アンタの想い、背負ってやる」
ビゼンは友の手を包んだ。
ブロークンの頬を涙が伝う。
ビゼンニシキは、ウマ娘として生まれたことに感謝し、
腹の底から覚悟を決めた。
――来年、クラシック級。
熱い戦いが始まる。
ビゼンニシキは、
シンボリルドルフとの対決を心待ちにしていた。