皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
皐月賞トライアル・スプリングステークスでは、ビゼンニシキが逃げ切り勝ちを収めた。
シンボリルドルフ、東条トレーナー、サブトレーナー役のスピードシンボリ、石上にとっては想定内。
ルドルフ自身も、いつも通りのトレーニングを続けていた。
弥生賞で負った外傷は完治した。
だが――身体の動きがどこか固い。
スピードシンボリは、その微妙な変調を見逃さない。
「ルドルフ! もう一本だ!」
「ええっ!? まだやるんですか!」
珍しく語気を荒げ、そっぽを向く。調教拒否の姿勢だ。
「ケガでブランクがあるだろ。今は体を戻すためにハードな運動が必要なんだよ」
背中を摩りながら宥めるスピード。しかし、ルドルフは立ち止まったまま耳を絞り、完全拒否のポーズ。
「体が……出来すぎている感じがするんです……」
顔つきは冴えず、不調を訴える。
「だったら気分を変えよう。ラストは軽い併走にするか」
東条が助け舟を出すと、ルドルフは渋々頷いた。
スピードの判断は正しい。ケガ明けの遅れを取り戻すには負荷が必要だ。
だが、気乗りしない状態で無理をさせるのは逆効果でもある。
「ペガサス、イズモ。つき合ってくれ」
「りょーかい!」
「分かりました!」
二人はルドルフを挟み、ニヤリと笑った。
ペガサスとイズモが先行し、ルドルフが途中から追いかける形。
東条がコースを見ながら声を張る。
「ルドルフ、7ハロンからピッチを上げろ!」
「二〇〇〇メートルの皐月賞ですからね。長めから負荷をかけるのが常道ですね」
スピードが頷く。
しかし――ルドルフは動かない。
ペガサスとイズモが不安げに顔を見合わせる。
「おかしいな……じゃあ6ハロンから強めに入るつもりか?」
「多分そうだろう。15-15じゃクラシックに挑むには軽すぎる」
東条の頬に緊張が走る。
だが6ハロンを通過しても、ルドルフのラップは上向かない。
東条の意図は完全に無視された。
「どうしたのよ……」
スピードが頭を抱える。
「ルドルフが……スパートしない」
東条の声は小さく沈んだ。
半マイル標識でようやくペガサスの外に併せたが、直線も抑えたまま。
何とか二バ身先着はしたものの、内容は軽すぎる。
6ハロン
82.6-70.3-55.4-42.1-12.1秒
ごく軽い調整にすぎなかった。
「もしかすると……」
スピードが、イズモとペガサスから聞いた話を思い返す。
「ルドルフ、食欲が落ちてるって」
東条も顎に手を当てる。
確かに身体の線が細い。
ルドルフは我慢しがちだが、太め残りよりはマシだと自分に言い聞かせる。
「まあ、仕上がってるなら軽めでもいいだろう」
皐月賞は目前。今さら特別な調整はできない。
しかし――当のルドルフは息が上がっていた。
「はぁ……はぁ……」
ペガサスがイズモの脇腹を肘でつつく。
「ルドルフ、調子よくないんじゃ……」
東条の表情も冴えない。
だが、回避はありえない。
チームに暗雲が立ち込める。
その空気を切り裂くように、イズモが前に出た。
「ルドルフちゃん!」
大声にルドルフの上体が跳ねる。
「アタシ、今週のレースで負けないから!」
弱った目でルドルフが見返す。
「おいおい、イズモが出るのは――」
ペガサスの言葉を、イズモが右手で制した。
「皐月賞の前日の未勝利戦。芝2000メートルよ」
そして、胸を張る。
「タイム、競いましょ!」
ルドルフの瞳に鋭い光が宿る。
「絶対に負けないから!」
「おいおい、そうは言っても――」
ペガサスが言いかけると、
「ペガサスちゃん、次はアナタよ! 青葉賞で勝ってやる!」
おとなしいイズモの啖呵に、周囲は呑まれた。
「絶対にダービーに出走してやるんだから! ルドルフちゃんと一緒にG1を走るんだ!」
顔を真っ赤にし、息を荒げるイズモ。
今にも泣きそうなその顔に、ルドルフの胸が熱くなる。
(励ましてくれている……)
「己を見失いそうだった。イズモ、ありがとう」
ルドルフは小さく頭を下げ、顔を上げた。
もう弱気はどこにもない。
「ああ。どんなことをしても勝ってやる、だな」
「うん!」
「よし、二人とも頑張れよ!」
ペガサスが二人の腰に手を回し、チーム東条は一致団結した。
「イズモに一本取られたな」
東条が頭を掻く。
「成長してるのはルドルフだけじゃないってことよ」
スピードが横目で笑い、石上は涙をすすっていた。
イズモランドは週末の未勝利戦を走り――勝った。
「ルドルフちゃん、勝ったよ!」
「ああ、素晴らしいレースだった」
石上のスマホ越しに届く報告。
直線で一バ身半の快勝。
しかも二着は宮園トレーナーのウマ娘。
テンガロンハットが嘆くのも無理はない。
「よし、これで青葉賞を一緒に走れる!」
ペガサスが喜び、ルドルフも頷く。
「ああ、皆でダービーを走ろう。皐月賞、恥ずかしいレースはできないからな」
友の成長に胸を熱くし、ルドルフは己を奮い立たせた。
トレセン学園の空は明るく、春の気配がようやく満ち始めた。
スピードシンボリが桜を見上げると、まだ五分咲き。
異常寒波で開花が遅れていた。
「5枠10番、理想的だな」
スピードが明るく言うが、ルドルフは桜を見つめたまま反応が薄い。
ふと、詩を口ずさむ。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」
「桜は毎年同じように咲くが、人は去年と同じではいられない……か」
スピードが解説すると、ルドルフは静かに答える。
「生々流転は、人の運命です」
冷めた声。
スピードは力を込める。
「そして、二度とない傑作がルドルフ。君だ」
だが、ルドルフは俯いたまま。
「三冠の緒戦、初G1だ。咲き誇れ!」
願いを込めても、返事はない。
スピードは顎に手を当て、考え込む。
(フレンドの不幸……弥生賞の死闘……)
(タフなルドルフでも、限界がある。よりによって皐月賞で……)
胸の奥がざわつく。
「体が出来すぎている、か……」
トレーニング時の言葉を思い返す。
「昨日の夕食、サンドウィッチとサラダだけ。しかも残したってな」
G1を走るウマ娘の食事ではない。
「ルドルフ、やっぱり……」
言いかけたスピードの腕が止まる。
「いや、何でもないですよ」
ルドルフの瞳は、拒絶の色を帯びていた。
スピードはそれ以上踏み込まなかった。
そして皐月賞当日。
中山の桜は半分ほどの開花。
だが、ファンの熱気は満開だった。
計量が始まる。
体操着姿のルドルフが、少しふらつきながら体重計に乗る。
係員が絶句した。
「シンボリルドルフ、マイナス10キロ」
「!」
周囲が凍りつく。
スピードと東条だけが、覚悟していたように動じない。
だが心の中では舌を打つ。
(やっぱり減っていたか……)
一か月で±2キロが普通。
5キロで大変動。
10キロ減――異常事態だ。
東条とスピードは無言でパドックへ向かった。
足取りは重い。
これから向き合う現実が、あまりにも厳しいからだ。
そして――その不安は、的中する。