皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
翌日から、ルドルフには過酷なトレーニングが課された。
落ちた体の張りを取り戻し、走りの軸を立て直すため――走り込みは避けられなかった。 一日四時間の運動。
休みなし。
東条の指示は容赦がない。
「負荷が強すぎませんか……?」
「止めるな!」
即答だった。
二週間後、ルドルフは皐月賞の疲労から完全に立ち直った。
春先の不幸も、ビゼンニシキとの死闘も乗り越え、肉体も精神も一段階成長していた。
トレーニングコースでの右回りの走り。
右回りへの踏み替えを促されると、ルドルフはわずかに身を固くした。
無理に体を回そうとした瞬間、彼女は鋭く反発した。
唯我独尊――皇帝の気性が戻ってきた。
東条はしてやったりと笑う。
クレバーなウマ娘とはいえ、まだ学園の生徒。
百戦錬磨のトレーナーには敵わない。
いい意味で、ルドルフは東条の掌の上だった。
「ここで手を抜くわけにはいかん。ダービーは皆がピークを合わせてくる。能力が抜けているからといって油断すれば足元を掬われる」
東条は言葉を飲み込みながらも、厳しい調整を続けた。
カフェテリアの大画面テレビ。
NHK杯の録画を、トレーニング後の三人――ルドルフ、ペガサス、イズモが食い入るように見つめていた。
「先行三番手から押し切り……」
「しかも四コーナーでウマなりのまま先頭に立つなんて」
イズモが驚く。
「次は前目でレースするって宣言だな」
ペガサスが言うと、ルドルフは腕を組んで胸を張った。
「ほう、ダービーでは楽しみだな」
堂々たる態度に、二人は感心する。
「弥生賞と皐月賞はルドルフちゃんで……」
「共同通信杯、スプリングS、NHK杯はビゼンかぁ」
春のクラシック路線は、完全に二強の構図だった。
ペガサスが頭の後ろで手を組む。
「ウチらは青葉賞で負けちゃったしね」
「ペガサスちゃん、黒歴史を振り返らないで!」
イズモが慌てて制止する。
だが二人とも、悲壮感はない。
東条の言葉が支えになっていた。
「これからだって。重賞なんて必ず出られるって」
「ワタシもG1出走を目指すよ」
「東条さんの言う通りだ。皆で頑張っていこう」
ルドルフの真面目な言葉に、二人は笑みをこぼした。
席を立ったルドルフに続き、二人もカフェテリアを出る。
廊下の角で、スズパレードとスズマッハに出会った。
「ダービー出走おめでとな」
「お二人とも、すごいですね」
賞賛に、二人は肩をすくめる。
「まあ、出るだけよ」
「そう、レース場を回るだけ〜」
二人の背中を見送りながら、ペガサスとイズモは言葉を飲み込んだ。
“勝てよ”などと言えば嫌味になる。
それほど、ルドルフの存在は圧倒的だった。
ただ一人、スズマッハだけが遠ざかるルドルフを鋭い目で見つめていた。
「まあ、見せ場だけは作るからさ」
その小さな呟きに、誰も気づかなかった。
寮の自室に戻ったルドルフは、後ろ手で扉を閉めた。
静寂が満ちる。
机には、森鴎外『ヰタ・セクスアリス』の文庫本。
「……ふう」
安堵とも、緊張の抜けた吐息ともつかない息が漏れる。
スカートのホックを外し、ベッドへ身を投げた。
マットレスが弾み、身体が沈む。
――ビゼンニシキの走り。
あの完勝。
あの気迫。
あの挑戦状。
思い返すだけで、胸の奥に熱が灯る。
「……燃えてくる」
猫のように丸くなりながら、ルドルフは笑った。
瞳が赤く揺れ、呼吸が少しずつ荒くなる。
身体が熱を帯びていく。
それはアスリート特有の反応――
闘争本能が目を覚ますときにだけ訪れる昂揚。
心臓が速く打ち、血が巡り、筋肉がざわつく。
まるでレース直前、ゲートの中にいるような感覚。
「……来る」
ルドルフはゆっくりと身体を起こした。
肩で息をしながら、胸の奥に湧き上がる熱を押しとどめるように拳を握る。
これは恐怖ではない。
不安でもない。
これは――
皇帝としての自覚が戻る瞬間。
ビゼンニシキの走りが、ルドルフの中の“皇帝”を呼び覚ました。
「負けられない……いや、負けるはずがない」
呼吸が整うにつれ、瞳の奥に鋭い光が宿る。
皐月賞の疲労も、春先の不幸も、すべてを乗り越えてきた身体が、
再び戦闘態勢へと切り替わっていく。
そのとき――
『コン、コン』
扉がノックされた。
「トレーニングだ、ルドルフ」
スピードシンボリの声。
まるで“覚醒”の瞬間を見計らったかのようなタイミングだった。
「……今、着替えています」
ルドルフは立ち上がり、クローゼットを開ける。
鏡に映る顔は、湯上がりのように紅潮し、
瞳は――戦士のそれだった。
そこには、トレセン学園の体操着が待っていた。
「行こう。ダービーへ」
皇帝の覚醒は、もう止まらない。