皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その6 ダービー前夜──ヰタ・セクスアリス

翌日から、ルドルフには過酷なトレーニングが課された。

落ちた体の張りを取り戻し、走りの軸を立て直すため――走り込みは避けられなかった。 一日四時間の運動。

休みなし。

東条の指示は容赦がない。

「負荷が強すぎませんか……?」

「止めるな!」

即答だった。

二週間後、ルドルフは皐月賞の疲労から完全に立ち直った。

春先の不幸も、ビゼンニシキとの死闘も乗り越え、肉体も精神も一段階成長していた。

トレーニングコースでの右回りの走り。

右回りへの踏み替えを促されると、ルドルフはわずかに身を固くした。

無理に体を回そうとした瞬間、彼女は鋭く反発した。

唯我独尊――皇帝の気性が戻ってきた。

東条はしてやったりと笑う。

クレバーなウマ娘とはいえ、まだ学園の生徒。

百戦錬磨のトレーナーには敵わない。

いい意味で、ルドルフは東条の掌の上だった。

「ここで手を抜くわけにはいかん。ダービーは皆がピークを合わせてくる。能力が抜けているからといって油断すれば足元を掬われる」

東条は言葉を飲み込みながらも、厳しい調整を続けた。

 

カフェテリアの大画面テレビ。

NHK杯の録画を、トレーニング後の三人――ルドルフ、ペガサス、イズモが食い入るように見つめていた。

「先行三番手から押し切り……」

「しかも四コーナーでウマなりのまま先頭に立つなんて」

イズモが驚く。

「次は前目でレースするって宣言だな」

ペガサスが言うと、ルドルフは腕を組んで胸を張った。

「ほう、ダービーでは楽しみだな」

堂々たる態度に、二人は感心する。

「弥生賞と皐月賞はルドルフちゃんで……」

「共同通信杯、スプリングS、NHK杯はビゼンかぁ」

春のクラシック路線は、完全に二強の構図だった。

ペガサスが頭の後ろで手を組む。

「ウチらは青葉賞で負けちゃったしね」

「ペガサスちゃん、黒歴史を振り返らないで!」

イズモが慌てて制止する。

だが二人とも、悲壮感はない。

東条の言葉が支えになっていた。

「これからだって。重賞なんて必ず出られるって」

「ワタシもG1出走を目指すよ」

「東条さんの言う通りだ。皆で頑張っていこう」

ルドルフの真面目な言葉に、二人は笑みをこぼした。

席を立ったルドルフに続き、二人もカフェテリアを出る。

廊下の角で、スズパレードとスズマッハに出会った。

「ダービー出走おめでとな」

「お二人とも、すごいですね」

賞賛に、二人は肩をすくめる。

「まあ、出るだけよ」

「そう、レース場を回るだけ〜」

二人の背中を見送りながら、ペガサスとイズモは言葉を飲み込んだ。

“勝てよ”などと言えば嫌味になる。

それほど、ルドルフの存在は圧倒的だった。

ただ一人、スズマッハだけが遠ざかるルドルフを鋭い目で見つめていた。

「まあ、見せ場だけは作るからさ」

その小さな呟きに、誰も気づかなかった。

 

寮の自室に戻ったルドルフは、後ろ手で扉を閉めた。

静寂が満ちる。

机には、森鴎外『ヰタ・セクスアリス』の文庫本。

「……ふう」

安堵とも、緊張の抜けた吐息ともつかない息が漏れる。

スカートのホックを外し、ベッドへ身を投げた。

マットレスが弾み、身体が沈む。

――ビゼンニシキの走り。

あの完勝。

あの気迫。

あの挑戦状。

思い返すだけで、胸の奥に熱が灯る。

「……燃えてくる」

猫のように丸くなりながら、ルドルフは笑った。

瞳が赤く揺れ、呼吸が少しずつ荒くなる。

身体が熱を帯びていく。

それはアスリート特有の反応――

闘争本能が目を覚ますときにだけ訪れる昂揚。

心臓が速く打ち、血が巡り、筋肉がざわつく。

まるでレース直前、ゲートの中にいるような感覚。

「……来る」

ルドルフはゆっくりと身体を起こした。

肩で息をしながら、胸の奥に湧き上がる熱を押しとどめるように拳を握る。

これは恐怖ではない。

不安でもない。

これは――

皇帝としての自覚が戻る瞬間。

ビゼンニシキの走りが、ルドルフの中の“皇帝”を呼び覚ました。

「負けられない……いや、負けるはずがない」

呼吸が整うにつれ、瞳の奥に鋭い光が宿る。

皐月賞の疲労も、春先の不幸も、すべてを乗り越えてきた身体が、

再び戦闘態勢へと切り替わっていく。

そのとき――

『コン、コン』

扉がノックされた。

「トレーニングだ、ルドルフ」

スピードシンボリの声。

まるで“覚醒”の瞬間を見計らったかのようなタイミングだった。

「……今、着替えています」

ルドルフは立ち上がり、クローゼットを開ける。

鏡に映る顔は、湯上がりのように紅潮し、

瞳は――戦士のそれだった。

そこには、トレセン学園の体操着が待っていた。

「行こう。ダービーへ」

皇帝の覚醒は、もう止まらない。

 

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