皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
着替えを終えたシンボリルドルフが、トレセン学園のコースへ向かって歩いていた。
どこか気怠げに見えるのは、気のせいだろうか。
「やあ、ルドルフ」
東条トレーナーが手を上げる。しかし、ルドルフはなぜか無反応だった。
少し恥ずかしそうにそっぽを向き、東条の上げた手は行き場を失う。
彼は手持ち無沙汰にグーパーを繰り返していたが、そこへ女性記者が駆け寄ってきた。
「ダービー、今度は気合が入りますねぇ。皐月賞は最悪の出来でしたし。まあ、ダービーはそれより良ければ満足な結果が得られるかと」
「大した自信ですね」
嫌味ではなく、本心からの感嘆だった。
東条は得意げに口笛を吹き、法螺を重ねる。
「どうせ次は勝つでしょうから。ええ、中京の高松宮杯を使います」
「この時期にシニアとぶつけるんですか!?」
記者のペンが止まり、驚愕の声が上がる。
成長途上のクラシック世代が、経験も体力も上のシニア勢に六月で勝てるはずがない――それが常識だ。
「高松宮杯の勝利を手土産に、イギリスのキングジョージ・クイーンエリザベスステークスを使うつもりです」
「しかも海外G1ですか!?」
「ええ、ルドルフなら夢ではありません」
記者の指からペンが滑り落ち、芝の上で乾いた音を立てた。
呆然とする彼女に、ルドルフがそっとペンを拾って手渡す。
「私も、海外に挑戦したいと以前から考えていました」
「でも、長期遠征になりますよね?」
「そうですね。渡英すれば、秋シーズンは欧州で戦うことになります」
あまりに平然とした口調に、記者は思わず詰問調になる。
「その意味、分かっているんですか?」
ルドルフは小首を傾げるだけだった。
東条が父親のような笑みで補足する。
「無敗の三冠ウマ娘、って言いたいんですよね?」
「ええ、その通りです」と、記者は口を尖らした。
ルドルフは胸に手を当て、静かに口を開く。
「日本で誰も成し遂げていない栄誉。それを目指さない理由がありません」
澄んだ瞳には、揺るぎない意志が刻まれていた。
初夏の風が二人の間を抜け、記者は我に返ってメモを走らせる。
「まずはダービーに全力を注ぎます。勝ってから、以降のことを考えます」
軽く一礼し、ルドルフはターフへ駆けていった。
――この頃から、世間には
『ルドルフ、海外遠征か!?』
『相手は世界。弱い相手に三冠はいらぬ』
といった記事が漂い始めた。
単なるG1ウマ娘ではない。
皇帝・シンボリルドルフの伝説が、静かに動き出していた。
五月中旬。梅雨の気配が漂う空の下、ルドルフはその曇天を吹き飛ばすように調子を上げていた。
皐月賞以来、実戦形式のトレーニングが続く。
ホッカイペガサス、イズモランドとの6ハロン併走。
ルドルフのフットワークは流麗で、
97.4―76.2―60.8―47.8―35.6―11.6秒
と、文句なしの時計を叩き出した。
「いいですねぇ!」
例の女性記者が歓声を上げる。
東条も上機嫌で口笛を吹いた。
「当然ですよ。本気でダービーウマ娘になろうとしているんですから!」
記者は真剣な横顔を見つめる。
「トレーナーになって何年経ったかなぁ……ダービーは高嶺の花でね」
東条は照れ笑いしながら、思い出を語り始めた。
サブトレーナーの頃、スピードシンボリの挑戦。
トレーナーとしてのシンボリフレンドの苦い思い出。
幼いルドルフが姉シンボリフレンドに鍛えられていた頃のこと。
興奮して車に轢かれそうになったこと。
デビューから皐月賞までの道のり。
――そして今、確信に変わった。
「優勝するのはルドルフだ」と。
ただし、今年の東京レース場は例年と違う。
冬の名残が抜けきらず、芝はまだ根を張りきれていない。
補修の砂が舞い上がり、ホームストレッチには荒れが残っていた。
「心配ですね。走りづらいんじゃ?」
「他のウマ娘さんも同じですよ」
ルドルフはわずかに微笑み、落ち着いた声で返した。
皐月賞前とは比べものにならないほど、状態は良い。
「スピードシンボリさんがヴィクトリーパーティを予約したそうですよ。ぜひ来てくださいね」
記者は手を合わせて喜んだ。
イズモランドがリードホースを務め、1マイル標まで誘導。
そこからホッカイペガサスの外に併せる。
16秒―16秒の入りから、6ハロンでギアが上がる。
直線、ペガサスが歯を食いしばって全力疾走。
ルドルフは余裕を残したまま、美しいスライドで応える。
フィニッシュは 30.7―11.4秒。
東条は腕を組み、満足げに頷いた。
「いけるでしょう。普段通りの好調維持です。
勝負は時の運と言う人もいますが……ルドルフはどんな状況でも負けてはいけないのです!」
記者がどよめく中、東条は優しい顔に戻る。
「勝ったら、ルドルフと一緒に凱旋門賞へ行きますか?」
冗談めかした口調だが、記者はそれがホラでないと悟っていた。
ルドルフにとってダービーは通過点。
未来への扉にすぎない。
併走を終えたルドルフたち三人は、じゃれ合いながら互いを労っていた。
イズモが背中に乗り、ペガサスが頭を掻きむしる。
珍しくルドルフはされるがままだった。
薫風が三人の脇を通り抜けていく。