皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
陽の傾いたコースに、三つの黒い影が伸びていた。
悔しさをバネに、闘志を瞳に宿す。
「ウチらかて、ダービー出走組やで」
ニシノライデンが鼻にある白いテーピングをひくつかせ、汗を拭うルドルフを睨む。
「レースは一人で走るんちゃうんやでぇ」
別の子が肩をすくめる。
「あいつらな、目ぇ覚まさしたるわ!」
栗東寮の三人が、ルドルフたちへの不満を口にする。
一生に一度のダービー。
その前に海外遠征まで吹聴する態度が気に入らないのだ。
そんな中、ひとりだけ静かに頷く影があった。
ビゼンニシキ。
「まあ、あそこまで言いふらしたら、他の出走者は面白くないよな」
栗色の髪を風に流し、独りごちる。
「敵をつくってどうするんだ……まったく、あいつは」
呆れたように鼻を鳴らしつつ、どこか寂しげなため息を漏らす。
視線の先では、ルドルフが仲間と笑顔でストレッチをしていた。
弥生賞は調整不足。
皐月賞は体調不良。
それでもビゼンとの激闘を制してきた。
そして今、ダービーへ向けて万全に近い。
「NHK杯は勝ったけど……あと2ハロン伸びて、ルドルフに勝てるのか?」
ビゼンは自問する。
自分はマイラー寄りではないか――そんな不安が胸をよぎる。
だが、すぐに首を振った。
「……一生に一度のチャンスだ。やってやる」
拳を握りしめたそのとき。
「ビゼンじゃないか。これからトレーニングか?」
「ル、ルドルフ!?」
いつの間にか目の前に立っていた。
汗を拭い、清々しい笑顔で右手を上げる。
「君とダービーを走れるのが嬉しいよ」
その言葉は、まるで友人に向けるような柔らかさだった。
ビゼンは顔が熱くなるのを感じる。
「アンタってウマ娘はっ!!」
羞恥を隠すように怒鳴る。
ルドルフはきょとんとした。
「ふふっ、じゃあレースで」
可笑しさを堪えきれず笑い、ルドルフは踵を返した。
ビゼンは言葉を返せず、ただその背中を見送った。
五月二十九日。
東京レース場は快晴。
クラシック最高峰、日本ダービーを祝福するような青空だった。
「私は約束を果たすために、ダービーに臨むだけさ」
入場しながら、ルドルフは空に向かって呟いた。
天国の姉・シンボリフレンドへ誓うように。
「一国の宰相になるより、ダービーウマ娘になりたい――英国の女性首相がそう言ったとか?」
背後から声がかかる。
例の女性記者だ。
「私とは別世界の方の気持ちは分かりませんね。
まあ、ダービーウマ娘になってみなければ実感も湧かないでしょう」
淡々と答え、「期待してくださいね」と微笑んで控室へ向かった。
「もう、勝ったも同然ですね……」
記者は感嘆の息を漏らした。
午後三時。
出走ウマ娘が次々と姿を現し、歓声が空へ吸い込まれていく。
十番目、シンボリルドルフ。
落ち着いた足取りでパドックに現れた。
東条に背中を押され、ルドルフは一歩踏み出す。
痛いほどの視線が注がれる。
ダービー一番人気――当然だ。
ふと空を見上げると、不思議と心が静まった。
(あれ……? ダービーなのに、思ったより緊張していない)
バ道へ向かう途中、胸の奥で確信が芽生える。
(他に負けるなんて考えられない。
でも……これでいいのかな。
まるで普通の重賞に出るみたいだ)
本バ場に出ると、ルドルフは両耳を立て、闘志を燃やした。
「よお、調子良さそうだな」
振り向けば、ビゼンニシキ。
「君ほどではないさ」
互いに不敵な笑みを交わす。
「まっすぐ走れよ!」
ビゼンが尻を叩く。
「君こそ進路を邪魔するなよ!」
ルドルフが拳を突き出す。
まるで子ども同士のじゃれ合いだ。
「いいぜ! 真っ向から叩き潰してやる!」
拳を合わせ、二人は背を向けた。
世界一の大スタンドが、試走だけで鯨波のように揺れる。
ルドルフの悠然とした態度は、さらに観衆の視線を集めた。
(さて、こちらも体をほぐすか)
ダグで一コーナーへ向かう。
スターターが登場し、生演奏のファンファーレが鳴り響く。
十三万人の熱気が沸騰する。
午後三時三十五分。
二十一人のウマ娘がゲートに収まった。
静寂が一瞬――
次の瞬間、つんざく歓声がスタンドを揺らした。