皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
――その瞬間。
ルドルフは脚が止まりかけていた。
中団での不本意な追走。
ビゼン、スズの二人、栗東寮の包囲網。
集中砲火を浴び続け、体力は限界に近かった。
直線の「2」の標識を過ぎても、前へ届く脚色ではない。
その時――。
「会長ーっ! ふぁいとーっ!!」
大歓声を切り裂き、少女の声が届いた。
チラリとスタンドを見る。
「テイオー……」
トウカイテイオーが飛び跳ねていた。
最前列で、何度も何度も。
天性のバネを活かし、必死に。
十万人の観衆の中、走ることはできない。
だから、跳ぶ。
跳び続ける。
その姿は、走る本人以上に必死だった。
その想いが、千万の勇気となってルドルフを貫く。
「うおおおおぉぉぉぉ!」
胸の奥で何かが弾け、ルドルフは正気を取り戻す。
坂を突っ走る。
一完歩ごとに鋭さが増す。
疾風怒濤が先頭を襲う。
限界の先――
時代を創るウマ娘だけが踏み込める領域。
『領域』だ。
ルドルフの後ろでは、すべてが無に帰していく。
伝説の領域に突入したのだ。
皇帝のプライドが暴風となり、すべてを飲み込む。
「えっ! 何っ?」
スズマッハが短い悲鳴を上げる。
鋭い疾風が通り抜け、頬がナイフで切られたように痛む。
次の瞬間――
ルドルフの背中が視界を奪った。
右から、並ぶ間もなく抜き去られたのだ。
あっという間に先頭へ。
決勝線へ駆け抜ける。
悔しさよりも、呆然。
ただただ、呆然。
***
「もう茫然自失よ、あの時は……」
後日、美浦寮の同室で、スズマッハはスズパレードに悔しそうに語った。
夏制服の二人はベッドに腰掛け、ダービーを振り返る。
「フツーはさ、抜かれる時にもう少し粘れるもんだけどさ」
「それが、一気だもんね……」
パレードも語尾を落とす。
「あいつって、一体何様? 影も感じず、突然よ……化け物、いや、幽霊よ!」
マッハが素っ頓狂に声を荒げ、両手を広げた。
パレードは四着。最後はバテたが、胸を張れる走りだった。
「ルドルフの走り……ウワサの『領域』ってやつかな?」
「そうかもね」
二人は一呼吸置き、マッハが短い息を落とす。
「あーあ。2400メートルを逃げまくって、最後の最後にやられちゃった……」
少し茶化すように言うが、パレードは聞き逃さない。
「おかげで、ほら。レース後二週間は、トモの痛みが抜けなかったのよ」
スカートをたくし上げると、両脚には大きな白いシップ。
「これじゃあ、美少女も台無しよね」と苦笑する。
だが、次の瞬間、マッハは黙り込んだ。
表情がゆっくりと消え、頭が下がる。
初夏の太陽が、傷ついた少女を容赦なく照らす。
長い一分が流れた。
「私だって……ダービーウマ娘になりたかった……」
嗚咽まじりの声が零れた。
「……でも、だめだった」
涙がスカートを濡らす。
堪えても、堪えても、染みが広がる。
肩が震えた。
「マッハ。私、G1勝つわ。絶対に優勝してみせる」
パレードが力強く宣言する。
自分たちだってウマ娘だ――そう言わんばかりに。
「このままじゃ、納得いかない……」
「そうね。パレードの言う通り」
マッハは涙を拭い、パレードが立ち上がる。
そっと抱き寄せられ、二人は胸の鼓動に再起の決意を刻んだ。
***
――2分29秒3。
東京の空に掲げられた数字が、静かに事実を告げる。
逃げ切りを図ったスズマッハに1バ身4分の3差。
悪いバ場を考えれば完勝だった。
返しですら絵になるルドルフは、再びゴール板前へ戻る。
スタンドを見上げると、歓呼が龍のように天へ昇る。
その中で、透明な少女の声が届いた。
「会長! 優勝おめでとう!!」
オーバーオール姿で、ポニーテールを振りながら必死に手を振る。
「トウカイテイオー、か」
胸が熱くなる。
ポーズを取りたくなる衝動が湧き上がる。
「天上天下唯我独尊!」
ルドルフは右手を誇らしげに突き上げた。
Vサインが天空を貫く。
「最っ高っだよ! 会長!」
皇帝は、すべての臣下を睥睨していた。
テイオーも最前列で跳び続ける。
「ボク、決めた。会長のようなウマ娘になるっ!」
真っ赤な顔で鼻の下をこすりながら。
新たなダービーウマ娘に酔いしれる声が轟き、東京レース場を覆い尽くした。
スタンド下の通路。
「やはり、ダービーですね……さすがに、簡単にはいきませんでした。苦しかったです」
ルドルフは東条トレーナーとスピードシンボリに第一声を放つ。
スピードから渡されたタオルで汗を拭う。
「おつかれさん」
東条が労うと、ルドルフは白い歯を見せて笑った。
安堵が感慨となり、瞳が薄く光る。
「ルドルフ! おめでとー!」
「カッコよかったよ、ルドルフちゃん!」
ホッカイペガサスとイズモランドが抱きつく。
涙と嗚咽を流す二人の背を、ルドルフが優しく撫でる。
どちらが感極まっているのか分からないほどだった。
東条はその光景を、嬉しそうに目を細めて見守った。
本バ場に設けられた白塗りのお立ち台。
流れる曲は、ウェーバー『魔弾の射手』より「勇者は甦る」。
アフターライブでルドルフは弾けるというより、安堵のままにステージをこなす。
観客はダービーの熱気そのままに大盛り上がりだった。
すべてが終わる頃、ルドルフの身体は汗で真っ黒に染まっていた。
石上サブトレーナーが簡易チェックを行う。
「体温、脈拍、心音とも正常です」
ルドルフは東京レース場から学園へ戻り、その足で千葉の“本拠地”へ向かった。
自然豊かな郊外での休養。
秋のことなど、まだ頭の片隅にもない。
ダービー前に語ったシニア級挑戦、海外遠征――どれも夢物語のようだった。
だが、ルドルフの意志とは無関係に、物語は動き始めていた。
それを知らぬまま、数日を静かに過ごしていた。