皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

43 / 43
★第二章三冠編  その7 東京優駿(PART3)──『領域』

――その瞬間。

ルドルフは脚が止まりかけていた。

中団での不本意な追走。

ビゼン、スズの二人、栗東寮の包囲網。

集中砲火を浴び続け、体力は限界に近かった。

直線の「2」の標識を過ぎても、前へ届く脚色ではない。

その時――。

「会長ーっ! ふぁいとーっ!!」

大歓声を切り裂き、少女の声が届いた。

チラリとスタンドを見る。

「テイオー……」

トウカイテイオーが飛び跳ねていた。

最前列で、何度も何度も。

天性のバネを活かし、必死に。

十万人の観衆の中、走ることはできない。

だから、跳ぶ。

跳び続ける。

その姿は、走る本人以上に必死だった。

その想いが、千万の勇気となってルドルフを貫く。

「うおおおおぉぉぉぉ!」

胸の奥で何かが弾け、ルドルフは正気を取り戻す。

坂を突っ走る。

一完歩ごとに鋭さが増す。

疾風怒濤が先頭を襲う。

限界の先――

時代を創るウマ娘だけが踏み込める領域。

『領域』だ。

ルドルフの後ろでは、すべてが無に帰していく。

伝説の領域に突入したのだ。

皇帝のプライドが暴風となり、すべてを飲み込む。

「えっ! 何っ?」

スズマッハが短い悲鳴を上げる。

鋭い疾風が通り抜け、頬がナイフで切られたように痛む。

次の瞬間――

ルドルフの背中が視界を奪った。

右から、並ぶ間もなく抜き去られたのだ。

あっという間に先頭へ。

決勝線へ駆け抜ける。

悔しさよりも、呆然。

ただただ、呆然。

 

***

「もう茫然自失よ、あの時は……」

後日、美浦寮の同室で、スズマッハはスズパレードに悔しそうに語った。

夏制服の二人はベッドに腰掛け、ダービーを振り返る。

「フツーはさ、抜かれる時にもう少し粘れるもんだけどさ」

「それが、一気だもんね……」

パレードも語尾を落とす。

「あいつって、一体何様? 影も感じず、突然よ……化け物、いや、幽霊よ!」

マッハが素っ頓狂に声を荒げ、両手を広げた。

パレードは四着。最後はバテたが、胸を張れる走りだった。

「ルドルフの走り……ウワサの『領域』ってやつかな?」

「そうかもね」

二人は一呼吸置き、マッハが短い息を落とす。

「あーあ。2400メートルを逃げまくって、最後の最後にやられちゃった……」

少し茶化すように言うが、パレードは聞き逃さない。

「おかげで、ほら。レース後二週間は、トモの痛みが抜けなかったのよ」

スカートをたくし上げると、両脚には大きな白いシップ。

「これじゃあ、美少女も台無しよね」と苦笑する。

だが、次の瞬間、マッハは黙り込んだ。

表情がゆっくりと消え、頭が下がる。

初夏の太陽が、傷ついた少女を容赦なく照らす。

長い一分が流れた。

「私だって……ダービーウマ娘になりたかった……」

嗚咽まじりの声が零れた。

「……でも、だめだった」

涙がスカートを濡らす。

堪えても、堪えても、染みが広がる。

肩が震えた。

「マッハ。私、G1勝つわ。絶対に優勝してみせる」

パレードが力強く宣言する。

自分たちだってウマ娘だ――そう言わんばかりに。

「このままじゃ、納得いかない……」

「そうね。パレードの言う通り」

マッハは涙を拭い、パレードが立ち上がる。

そっと抱き寄せられ、二人は胸の鼓動に再起の決意を刻んだ。

***

 

――2分29秒3。

東京の空に掲げられた数字が、静かに事実を告げる。

逃げ切りを図ったスズマッハに1バ身4分の3差。

悪いバ場を考えれば完勝だった。

返しですら絵になるルドルフは、再びゴール板前へ戻る。

スタンドを見上げると、歓呼が龍のように天へ昇る。

その中で、透明な少女の声が届いた。

「会長! 優勝おめでとう!!」

オーバーオール姿で、ポニーテールを振りながら必死に手を振る。

「トウカイテイオー、か」

胸が熱くなる。

ポーズを取りたくなる衝動が湧き上がる。

「天上天下唯我独尊!」

ルドルフは右手を誇らしげに突き上げた。

Vサインが天空を貫く。

「最っ高っだよ! 会長!」

皇帝は、すべての臣下を睥睨していた。

テイオーも最前列で跳び続ける。

「ボク、決めた。会長のようなウマ娘になるっ!」

真っ赤な顔で鼻の下をこすりながら。

新たなダービーウマ娘に酔いしれる声が轟き、東京レース場を覆い尽くした。

 

スタンド下の通路。

「やはり、ダービーですね……さすがに、簡単にはいきませんでした。苦しかったです」

ルドルフは東条トレーナーとスピードシンボリに第一声を放つ。

スピードから渡されたタオルで汗を拭う。

「おつかれさん」

東条が労うと、ルドルフは白い歯を見せて笑った。

安堵が感慨となり、瞳が薄く光る。

「ルドルフ! おめでとー!」

「カッコよかったよ、ルドルフちゃん!」

ホッカイペガサスとイズモランドが抱きつく。

涙と嗚咽を流す二人の背を、ルドルフが優しく撫でる。

どちらが感極まっているのか分からないほどだった。

東条はその光景を、嬉しそうに目を細めて見守った。

 

本バ場に設けられた白塗りのお立ち台。

流れる曲は、ウェーバー『魔弾の射手』より「勇者は甦る」。

アフターライブでルドルフは弾けるというより、安堵のままにステージをこなす。

観客はダービーの熱気そのままに大盛り上がりだった。

すべてが終わる頃、ルドルフの身体は汗で真っ黒に染まっていた。

石上サブトレーナーが簡易チェックを行う。

「体温、脈拍、心音とも正常です」

 

ルドルフは東京レース場から学園へ戻り、その足で千葉の“本拠地”へ向かった。

自然豊かな郊外での休養。

秋のことなど、まだ頭の片隅にもない。

ダービー前に語ったシニア級挑戦、海外遠征――どれも夢物語のようだった。

だが、ルドルフの意志とは無関係に、物語は動き始めていた。

それを知らぬまま、数日を静かに過ごしていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。