皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
木々の緑は初夏の風に揺れ、色を深めていた。トレセン学園の農場では、首を垂れた麦穂がそよぎ、季節の移ろいを静かに告げている。
ダービーを制したシンボリルドルフは、祭りの後に訪れる忙しさを噛みしめていた。ベッドに横たわると、レースとは異質の疲労がじわりと身体に広がる。
「……まさか、ダービーウマ娘がここまで忙しいとは思わなかった」
インタビュー、取材、撮影、イベント。学園では英雄扱い。
もちろん嬉しい。だが、勝者だけに与えられる喧騒は、静寂を愛する皇帝には少々重い。
負ければ悔しさだけが残り、歴史にも名は刻まれない。それに比べれば、まだ幸福だと自分に言い聞かせるしかなかった。
そんな日々のある夕食後、部屋の扉がノックされた。
「スピードシンボリだ。少し、いいかな?」
ルドルフが髪を整えながら返事をすると、扉が開く。
スピードは、かつてフレンドが使っていたベッドに一礼し、机の椅子を引いて腰を下ろした。
「レース後も問題ありませんよ」
ルドルフが切り出すと、スピードは口元を緩めた。
「それどころか、気力も体力も漲っているようだな」
その言葉に、ルドルフも自覚していたタフさが裏付けられる。
スピードは姿勢を正し、静かに告げた。
「次走のことだ……」
ルドルフの喉が、ごくりと鳴る。
「キングジョージ六世・クイーンエリザベスステークスに、出てみないか?」
アスコットで行われる、英国王室主催の格式高いレース。
ダービー前、東条トレーナーから“仮定の話”として聞かされていたが、まさか現実味を帯びてくるとは。
「私も挑戦した。結果は五着だったが、いい経験だったよ」
スピードは遠い目をした。
後日、国王陛下が来日した際、英国大使館のパーティに招かれたという。
その功績を、陛下自ら称えてくれたのだ。
「だが、あの時は手探りだった……」
組んだ両手を見つめ、そして顔を上げる。
「ルドルフ。お前は勝たねばならない。勝てる力がある」
その眼差しは、後輩に未来を託す者の強い意志だった。
ルドルフは、自分の立場が変わったことを痛いほど理解した。
「ウマ娘として、海外G1を本気で狙える……私は幸せ者ですね」
スピードは深く頷いた。
窓の外、夜空に浮かぶ星々が、皇帝の行く末を照らしているようだった。
週末の新宿、都庁近くのラグジュアリーホテルでは、URA主催のダービー優勝祝賀会が華やかに開かれていた。
理事長の扇子を使った挨拶、東条トレーナーの乾杯。
「ご歓談を」の声と同時に、ペガサスとスズマッハが料理へ突撃し、ビゼンニシキや栗東寮の三羽ガラスも続く。
スズパレードとイズモランドは苦笑し、シリウスシンボリはミスターシービーに熱弁を振るい、マルゼンスキーはトウカイテイオーからルドルフの話を聞き出していた。
主賓のルドルフは挨拶の嵐に囲まれ、ようやく料理にありつけた頃には宴も佳境に差し掛かっていた。
その時、壇上に理事長が立つ。
「シンボリルドルフ君。次走はどうするのかね?」
会場が一気に沸く。
無敗三冠か、シニア挑戦か、海外遠征か――誰もが知りたい未来。
東条が立ち上がり、マイクを握ると、場は静まり返った。
「キングジョージ、高松宮記念……選択肢はいくつかあります」
ざわめきが広がる。
そして、東条は力強く宣言した。
「秋、凱旋門賞を使いたい!」
空気が止まった。
「ロンシャンの芝に負けず、世界の最精鋭と戦ってほしい。どんな状況でも結果を出す規格外のウマ娘――それがルドルフだ!」
熱を帯びた言葉が会場を満たす。
ルドルフは、スピードから勧められたキングジョージの話を思い出す。
どちらも日本初の快挙。
だが、どちらも容易ではない。
(さて、どうするか……)
思案は数十秒。しかし永遠にも感じられた。
その時、スピードが立ち上がる。
「東条さん、マイクを貸してくださる?」
マルゼンスキー、ミスターシービーが拍手を始め、波のように広がっていく。
スピードはステージに上がり、会場を見渡すと――
短く、しかし力強い歌声を響かせた。
その声は、凛として美しく、会場を静かに魅了した。
歌い終えると、スピードはルドルフの隣に戻り、ウインクを送る。
「御大の母校の寮歌さ。高潔に、孤高に、そして己で道を選べ……そういう歌だよ」
ルドルフは天井のシャンデリアを見上げ、胸の奥で言葉を反芻した。
(己で決めろ、か……)
ダービーの季節は終わった。
次に進むべき道は、自分で選ぶ。
宴の翌日、朝日が薄雲を割って差し込むトラックで、ルドルフは屈伸をしていた。
「早いじゃん……朝から元気だねぇ」
眠そうなペガサス、息をこぼすイズモランド。
三人はショートパンツ姿で並び、夏のトレーニングへ向かう。
「ダービーに勝ったくらいで慢心はできないさ」
「二冠サマは言うことが違うわ」
軽口を交わしながら、三人はゆったりとジョギングを始めた。
軽めの併走でも、誰も気を抜かない。
事故は油断から生まれる。
春のクラシック戦線で苦しんだ経験が、三人の胸に刻まれていた。
普段通りに走れること。
レースに出られること。
それがどれほど幸せか、身に染みて理解している。
(非常時には平常心。平常時こそ異常心を持て、だ)
ルドルフは静かに覚悟を腹に落とした。