皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その8 海外遠征への誘い(PART1)──宴の後に

木々の緑は初夏の風に揺れ、色を深めていた。トレセン学園の農場では、首を垂れた麦穂がそよぎ、季節の移ろいを静かに告げている。

ダービーを制したシンボリルドルフは、祭りの後に訪れる忙しさを噛みしめていた。ベッドに横たわると、レースとは異質の疲労がじわりと身体に広がる。

「……まさか、ダービーウマ娘がここまで忙しいとは思わなかった」

インタビュー、取材、撮影、イベント。学園では英雄扱い。

もちろん嬉しい。だが、勝者だけに与えられる喧騒は、静寂を愛する皇帝には少々重い。

負ければ悔しさだけが残り、歴史にも名は刻まれない。それに比べれば、まだ幸福だと自分に言い聞かせるしかなかった。

そんな日々のある夕食後、部屋の扉がノックされた。

「スピードシンボリだ。少し、いいかな?」

ルドルフが髪を整えながら返事をすると、扉が開く。

スピードは、かつてフレンドが使っていたベッドに一礼し、机の椅子を引いて腰を下ろした。

「レース後も問題ありませんよ」

ルドルフが切り出すと、スピードは口元を緩めた。

「それどころか、気力も体力も漲っているようだな」

その言葉に、ルドルフも自覚していたタフさが裏付けられる。

スピードは姿勢を正し、静かに告げた。

「次走のことだ……」

ルドルフの喉が、ごくりと鳴る。

「キングジョージ六世・クイーンエリザベスステークスに、出てみないか?」

アスコットで行われる、英国王室主催の格式高いレース。

ダービー前、東条トレーナーから“仮定の話”として聞かされていたが、まさか現実味を帯びてくるとは。

「私も挑戦した。結果は五着だったが、いい経験だったよ」

スピードは遠い目をした。

後日、国王陛下が来日した際、英国大使館のパーティに招かれたという。

その功績を、陛下自ら称えてくれたのだ。

「だが、あの時は手探りだった……」

組んだ両手を見つめ、そして顔を上げる。

「ルドルフ。お前は勝たねばならない。勝てる力がある」

その眼差しは、後輩に未来を託す者の強い意志だった。

ルドルフは、自分の立場が変わったことを痛いほど理解した。

「ウマ娘として、海外G1を本気で狙える……私は幸せ者ですね」

スピードは深く頷いた。

窓の外、夜空に浮かぶ星々が、皇帝の行く末を照らしているようだった。

 

週末の新宿、都庁近くのラグジュアリーホテルでは、URA主催のダービー優勝祝賀会が華やかに開かれていた。

理事長の扇子を使った挨拶、東条トレーナーの乾杯。

「ご歓談を」の声と同時に、ペガサスとスズマッハが料理へ突撃し、ビゼンニシキや栗東寮の三羽ガラスも続く。

スズパレードとイズモランドは苦笑し、シリウスシンボリはミスターシービーに熱弁を振るい、マルゼンスキーはトウカイテイオーからルドルフの話を聞き出していた。

主賓のルドルフは挨拶の嵐に囲まれ、ようやく料理にありつけた頃には宴も佳境に差し掛かっていた。

その時、壇上に理事長が立つ。

「シンボリルドルフ君。次走はどうするのかね?」

会場が一気に沸く。

無敗三冠か、シニア挑戦か、海外遠征か――誰もが知りたい未来。

東条が立ち上がり、マイクを握ると、場は静まり返った。

「キングジョージ、高松宮記念……選択肢はいくつかあります」

ざわめきが広がる。

そして、東条は力強く宣言した。

「秋、凱旋門賞を使いたい!」

空気が止まった。

「ロンシャンの芝に負けず、世界の最精鋭と戦ってほしい。どんな状況でも結果を出す規格外のウマ娘――それがルドルフだ!」

熱を帯びた言葉が会場を満たす。

ルドルフは、スピードから勧められたキングジョージの話を思い出す。

どちらも日本初の快挙。

だが、どちらも容易ではない。

(さて、どうするか……)

思案は数十秒。しかし永遠にも感じられた。

その時、スピードが立ち上がる。

「東条さん、マイクを貸してくださる?」

マルゼンスキー、ミスターシービーが拍手を始め、波のように広がっていく。

スピードはステージに上がり、会場を見渡すと――

短く、しかし力強い歌声を響かせた。

その声は、凛として美しく、会場を静かに魅了した。

歌い終えると、スピードはルドルフの隣に戻り、ウインクを送る。

「御大の母校の寮歌さ。高潔に、孤高に、そして己で道を選べ……そういう歌だよ」

ルドルフは天井のシャンデリアを見上げ、胸の奥で言葉を反芻した。

(己で決めろ、か……)

ダービーの季節は終わった。

次に進むべき道は、自分で選ぶ。

 

宴の翌日、朝日が薄雲を割って差し込むトラックで、ルドルフは屈伸をしていた。

「早いじゃん……朝から元気だねぇ」

眠そうなペガサス、息をこぼすイズモランド。

三人はショートパンツ姿で並び、夏のトレーニングへ向かう。

「ダービーに勝ったくらいで慢心はできないさ」

「二冠サマは言うことが違うわ」

軽口を交わしながら、三人はゆったりとジョギングを始めた。

軽めの併走でも、誰も気を抜かない。

事故は油断から生まれる。

春のクラシック戦線で苦しんだ経験が、三人の胸に刻まれていた。

普段通りに走れること。

レースに出られること。

それがどれほど幸せか、身に染みて理解している。

(非常時には平常心。平常時こそ異常心を持て、だ)

ルドルフは静かに覚悟を腹に落とした。

 

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