皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
「シンボリルドルフの調子が、おかしい?」
東条トレーナーの声が、トレーナー室に鋭く響いた。椅子を蹴るように立ち上がり、報告に来た石上サブトレーナーへ詰め寄る。
昨日のペガサス、イズモとのハードトレーニングのあと、ルドルフは「調子が悪い」とだけ言って部屋に閉じこもった。そして翌朝、再開したエクササイズでは脚さばきがぎこちなく、肩を気にする仕草も見せたという。
「医務室でチェックしたのですが……」
石上が言い淀むと、東条の目が鋭く光る。
「……軽い骨膜炎です。右肩と右脚が特に」
「そうか……」
念のため、学園近くのウマ娘専用クリニックへ向かった。診察室でルドルフは、驚くほど落ち着いていた。レントゲン室でも微動だにしない。
千葉の“本拠地”から急ぎ駆けつけたスピードシンボリが、勢いよく扉を開ける。
「ルナ……大丈夫か!?」
「別に、平気だと思いますが」
そっけない返事。医師は淡々とモニターを指し示す。
「軽度の骨膜炎ですね。運動は控えた方がいいでしょう」
「レースは……?」
スピードが沈んだ声で問う。
「回避した方が無難です」
無情な宣告。しかしルドルフは、表情ひとつ変えずに聞き入っていた。
東条が深く息を吐く。
「……夏のレースも海外遠征も、一旦白紙だ」
「分かりました」
ルドルフは静かに頷いた。その声音には、むしろ前向きな響きすらあった。
石上が意欲的に前へ出る。
「僕がトレーニングメニューを組み直します。まずは……セントライト記念を目標にしましょう」
「妥当だな。よし、それで行こう!」
東条の声に、スピードも石上も頷く。
バラバラになりかけた“チームルドルフ”が、再びひとつにまとまった瞬間だった。
「皆さん、よろしくお願いします」
ルドルフは立ち上がり、深く一礼した。
その顔は、曇りなく晴れやかだった。
不思議なことに、ルドルフはすぐに走り始めた。
ペガサスとイズモを相手に、軽快なフットワークを見せる。
東条は腕を組み、石上が耳打ちする。
「再検査の結果、影は消えていました。右肩の痛みも……今はありません」
ルドルフは肩を回しながら柔軟運動。
その横で、ペガサスとイズモがふざけ合いながらストレッチしている。
東条は息を呑んだ。
(まさか……)
イズモも気づいたように、口元を押さえて笑う。
(全力で走った後、ケアもせず部屋にこもれば、そりゃ体は固まるわ)
ルドルフは、何事もなかったようにアキレス腱を伸ばしている。
(でも本当の目的は――夏のレースも海外遠征も、全部“白紙”にするため)
(周囲の意見が割れたまま走るのが嫌だったのね)
目が合うと、ルドルフがウインクを送ってきた。
イズモは肩を震わせて笑う。
「イズモ、何かおかしいか?」
「別に、なんでもないわよ」
ペガサスが怪訝な顔をすると、イズモは舌を出してごまかした。
二人が取っ組み合いを始めるのを、ルドルフは穏やかに見守っていた。
東京・新橋。
昼の喧騒の中、通行人たちが噂していた。
「今日だよな、ルドルフの記者会見」
「次走どうするんだろ。三冠か、海外か……」
URA本部の大会議室。
ひな壇の中央にルドルフ、左右に東条とスピード。
記者たちがびっしりと並び、カメラのシャッター音が絶えない。
秘書がマイクを取り、会見開始を告げる。
最初の質問は、若い女性記者だった。
「現在の体調はいかがでしょうか?」
「右脚の骨膜炎の疑いはありましたが、再検査で問題なしと分かりました」
シャッター音が一斉に鳴る。
「秋はどのレースを目標に?」
「セントライト記念です」
即答。
記者たちの間に、わずかな落胆が走る。
「その後は? 三冠、ジャパンカップ、まさか凱旋門賞……?」
「トライアル後に決めます」
ざわめきが広がる。
東条がマイクを取り、空気を整える。
「適性を考えれば、菊花賞よりジャパンカップが向いているでしょう。ただし、まだ決定ではありません」
さらに続ける。
「海外遠征は、当面考えません。体調面の不安があった以上、準備不足と判断しました」
記者たちが納得したように頷く。
ルドルフが、静かにマイクを握った。
「私は……負けたくありません」
会議室が静まり返る。
「海外へ行きたい気持ちはあります。でも、出るからには絶対に勝ちたい。私を支えてくれる人たちと、一緒に高みを目指したいんです」
赤い瞳に、強い意志が宿る。
「皆の気持ちがひとつになる。そんな選択をしたい」
東条が力強く頷く。
「まずはセントライト記念。その後は状態を見て判断します」
ルドルフは深く一礼した。
「本日は、私のためにお集まりいただき、ありがとうございました」
そのお辞儀は、誰よりも長く、丁寧だった。