皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
葉月が一週間を過ぎ、暦の上では立秋を迎えた。朝夕にはほんのりと涼しい風が吹き始めたが、日中のトレーニングは相変わらず容赦がない。
千葉の『本拠地』で、シンボリルドルフは黙々と鍛錬を積んでいた。
朝のメニューを終え、宿舎へ戻ろうとしたその時だった。
「ルドルフ、トラックをもう一周!」
玄関先に立つスピードシンボリが、片手にコーヒーカップ、もう片手にトーストを持ったまま声を張る。
「いや、二周にしましょう。ワタシも走るわ!」
言うが早いか、コーヒーを一気に飲み干し、近くにいたシリウスシンボリへカップを押しつける。トーストをかじりながら軽快に走り出すと、ルドルフの横へ並び、尻を軽く叩いてペースを合わせた。
「うん、朝トレの締めにしては、まだ余裕があるじゃない」
スピードがニヤリと笑う。
「今日は風が涼しいですから。秋が早く来るかもしれませんね」
ルドルフは息を乱すことなく応じた。併走しながら会話できるほどの余裕。心肺機能の強化が目に見えて分かる。
「ルドルフの真摯さに、神様が味方してるのよ」
スピードは満足げに頷いた。
こうして、ルドルフの夏は順調そのものだった。
「海だーーっ! ウミーーっ!!」
ホッカイペガサスが両手を突き上げ、真夏の太陽の下を一直線に駆けていく。
紺色のスクール水着が砂浜を蹴り、群青の波へ飛び込む勢いだ。
「まったく、ペガサスは子どもみたいだな」
ルドルフが目を細めると、隣のイズモランドが肩をすくめた。
「まあまあ。夏合宿だし、今日のトレーニングも終わったし。息抜きも大事でしょ?」
イズモがルドルフの尻を軽く叩く。
「ほら、行くよ!」
満面の笑みに、ルドルフも思わず笑みを返す。
次の瞬間、二人は全力でペガサスを追いかけていた。
三人が肩を組み、波打ち際で――
「せーのっ!」
ザバァァァン!
水しぶきが夏空へ弾け、飛び込んだ音が水平線へ駆けていく。
潜った身体が浮上すると、三者三様の姿が現れた。
濡れた髪を払うルドルフ。
海水を飲んでむせるペガサス。
肩で息をするイズモ。
小麦色の肌が陽光に照らされ、濡れた髪がきらりと光る。
その姿が妙に可笑しくて、三人は同時に笑い出した。
「あははは!」
ペガサスが水を掬ってイズモへ投げる。
イズモが反撃しようとして手元が狂い、ルドルフの顔へ直撃。
無表情になったルドルフの顔が、ゆっくりと崩れる。
「あ……」
「それっ!!」
ルドルフの両手から放たれた水が、二人の顔へ完璧な軌道で命中した。
「反撃っ!」
ペガサスが腹へ突っ込むが、ルドルフはひらりとかわし、背中を押す。
勢い余ったペガサスはイズモへ突っ込み、二人まとめて派手に水中へ落ちた。
海面で藻掻く二人を見て、ルドルフは満足げに笑う。
「ぷはっ……ちょっとルドルフぅ!」
「ふふふ」
ご満悦のルドルフ。
ふと海岸を見渡すと、同じように夏を満喫するウマ娘たちの姿が広がっていた。
砂浜でボール遊びをする者。
タオルの上で寝転ぶ者。
ストレッチをする者。
真夏の午後、解放感に満ちた光景だった。
だが、その中にひとりだけ異質な姿があった。
赤い短パンに白い体操服。
夏合宿の海では珍しい、トレセン学園の夏制服。
栗色の髪が風に揺れ、どこか寂しげな横顔――。
「あれ、ビゼンじゃん」
ペガサスが顎をしゃくる。
イズモも咳をしながら顔を上げた。
「ほんとだ。ビゼンちゃん、今日は泳がないの?」
イズモも気にしたように声をかける。
ルドルフは右手を胸の前で振り、大きく呼びかけた。
「おーい、ビゼン。こっちに来ないか?」
ビゼンは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに背を向け、そのまま視界から消えた。
「うぇ、感じ悪っ!」
ペガサスが舌を出す。
「まあ、いいじゃないの。何か事情あるんでしょ」
イズモが軽くペガサスの腰を押す。
ルドルフは、呼びかけた手を下ろすタイミングを失い、握っては開き、開いては握り……。
消えていったビゼンの背中を、どこか不思議そうに見つめていた。