皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
初秋が訪れた。だが季節は裏切るように、記録的な熱波が関東を襲った。熱帯夜は連日更新され、日中は三十八度に迫る。夏負けで体調を崩すウマ娘も出始めていた。
そんな中、シンボリルドルフは堂々とトレセン学園へ戻ってきた。残暑など意に介さぬ気迫と、夏の鍛錬で磨き上げた身体。チームハウスを出てコースへ向かう途中、風がふっと吹き上げ、少し小さくなった体操服の裾がめくれた。
「おお、腹筋ガチガチじゃん!」
ホッカイペガサスが、目ざとく腹部をつつく。即座にルドルフの手刀が飛び、ペガサスが「いってぇ!」と跳ねた。
「ほんと、ゼイ肉なんて一つもないわね」
イズモランドが感心したように微笑む。
三人はそのままコースへ入り、キャンターで体を温める。5ハロン標識を過ぎる頃には、三人がぴたりと横一線に並び、息の合ったフットワークを刻んでいた。
「夏前より、バネが増してるな」
ペガサスが右から言えば、
「ルドルフちゃん、どこまで強くなるのよ……」
イズモが左から呟く。
「二人にそう言われるなら、私は幸せ者だな」
ルドルフは軽く笑い、さらにギアを上げた。
一か月後には秋のクラシック戦線が開幕する。セントライト記念はペガサスも出走予定だ。チームメイトとはいえ、互いに気になる存在であることは否めない。イズモもまた、自分の秋に向けて準備を進めていた。
トレーニングを終えると、メディアが待ち構えていた。カメラのフラッシュが一斉に光り、記者たちが口々にルドルフの仕上がりを称える。
「バランスのいい身体になりましたね。肌艶も素晴らしい……ウマ娘の理想形ですよ」
東条トレーナーが肩を叩きながら、満足げに言う。
確かに、ルドルフは“美少女”から“美女”へと変わりつつあった。だがそれ以上に、ウマ娘としての能力が一段階上がっているのは、誰の目にも明らかだった。
カメラがポーズを求めれば応じ、質問が飛べば流れるように答える。
ビゼンニシキがマイル路線へ転向したニュースもあり、秋のクラシック戦線はルドルフ一強――そんな空気すら漂っていた。
残暑はようやく影を潜め、秋の気配が学園を包み始めた。
夏を休養に充てていたウマ娘たちが戻り、トレセンは再び活気を取り戻す。
空は高く澄み、川沿いのススキが風に揺れる。体操服からジャージへ衣替えする者も増えてきた。
午後のトレーニング前、スピードシンボリと石上サブトレーナーがチームルームの扉を開けると、妙な光景が目に飛び込んできた。
「ルドルフちゃん、大丈夫?」
イズモランドが心配そうに覗き込んでいる。
ルドルフは体操服姿のまま、両脚にテーピングを巻いていた。
「今日は身体をほぐして、軽いランニングで終わりだ」
わざとらしい背伸び。痛みを隠しているのが見え見えだった。
セントライト記念まで一週間。軽すぎるメニューは、どう見ても不自然だ。
「さっき、理事長さんがきて、あんなことが……」
イズモが言いかけた瞬間、スピードの鋭い視線が飛ぶ。
イズモは口をつぐみ、しゅんと肩を落とした。
ルドルフは無言のまま、テーブルへ向かう。
スピードは東条の席――チームの“主”の席に座り、腕を組んだ。
「どうした、ルドルフ」
「……別に」
短い返答。
普段なら素直に話すルドルフが、完全に殻に閉じこもっている。
石上が恐る恐る口を開く。
「海外遠征を白紙にした時の故障……再発したのかもしれません」
部屋の空気が一気に張り詰めた。
ルドルフの耳は伏せられ、落ち着きなく震えている。
あの堂々とした姿はどこへ消えたのか。
「……理事長のところへ行ってくる」
スピードは立ち上がると、扉を乱暴に開け放ち、学園内を駆け抜けた。
「理事長! ルドルフに何したんだ!」
扉を叩き開けると、理事長がびくりと肩を跳ねさせた。
その拍子に、ポケットから“何か”が落ちる。
――採寸メジャー。
スピードは一瞬で悟った。
「……スリーサイズを測ったんだな」
低く、怒りを押し殺した声。
理事長は扇子を開き、そっぽを向く。
「いや、その……ファンは興味があるだろう? 最強のダービーウマ娘がどんな身体なのか……」
秘書が冷ややかに言い放つ。
「理事長。慎重さが欠けていましたね」
スピードは机を叩き、身を乗り出した。
「来週はセントライト記念ですよ!? どうして今やる必要があるんですか!」
理事長は完全に縮こまった。
「怯えさせて、テンションが上がりすぎて、レースで暴走したらどうするんですか! 測るならレース後にしてください!」
秘書が腕を腰に当て、妹を叱るように言う。
「ほら、悪いことをしたら?」
「……ごめんなさい」
小さな声が落ちた。
スピードが急いで戻ると、ルドルフはすでにイズモと併走していた。
向こう正面から軽快にピッチを上げ、弾むような動きで駆けてくる。
――まるで何事もなかったかのように。
「いい調子だ……」
スピードは胸を撫で下ろす。
トレーニング後、イズモがぽつりと言った。
「だって、上から86・59・85だよ。理想的じゃない」
ルドルフはウインクし、軽く笑った。
「トレビアン、だろう?」
最初は嫌がっていたが、結果が“誇れるもの”だと分かった途端、機嫌が戻ったらしい。
「現金な子ね……」
スピードは苦笑しつつも、どこか嬉しそうだった。