皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
夜が長くなり始める季節。しかし月末の日曜日、午後の中山レース場には、まだ夏の名残を思わせる蒼天が広がっていた。
中山レース場には七万人の観衆が押し寄せ、秋の空気を震わせている。
ただのトライアル戦とは思えない熱気――
中心にいるのは、もちろん二冠ウマ娘シンボリルドルフだ。
その名が、今日のレースを“G1並み”の舞台へと押し上げていた。
東条トレーナーは控室へ向かう。まもなくメディカルチェックと検量の時間だ。
ノックに応じる声を聞き、扉を開ける。
シンボリルドルフは、凛とした姿勢で椅子に腰掛けていた。
赤い瞳は静かに燃え、鍛え上げられた身体は均整を極めている。
まさに――天高くウマ娘肥ゆる秋。
「うん、いい具合だね」
東条は満足げに頷く。
「トレーナー。まだ、完調ではない気がするのですが」
ルドルフの真っ直ぐな視線に、東条は笑みを返す。
「まあ、ダービー以来の休み明けだ。八分で十分だよ」
スピードシンボリも状態を見極め、軽く顎を引いた。
「体調は八分……でも、ルドルフにはそれで充分ね」
「ルドルフには絶好調はいらないよ」
東条がウインクすると、ルドルフは小さく息を整えた。
出走十名のうち、春に決着をつけた顔ぶれが多い。
ただ――一人、気になる存在がいる。
「ホッカイペガサスのところへ行ってくる」
東条は軽く手を振り、控室を後にした。
廊下では、レースを終えたウマ娘たちが戻ってくる。
笑顔、涙、悔しさ――勝負の世界の縮図がそこにあった。
「ペガサス、どうだ?」
扉を叩くと、明るい声が返る。
「入ってください、トレーナーさん!」
ホッカイペガサスは、いつも以上に目を輝かせていた。
「ルドルフさんと初めての真剣勝負。やる気が出ない方がおかしいですよ!」
石上サブトレーナーが珍しく茶化す。
「前走はシニア混合戦。ハナ差を凌いだ根性、今日も活かせよ」
「はいっ!」
ペガサスの声は、部屋いっぱいに弾んだ。
東条は笑顔を浮かべながらも、胸の奥に複雑な思いを抱えていた。
――どちらも勝たせたい。
贅沢な悩みを、彼は静かに飲み込んだ。
日が傾き始める頃、十人のウマ娘がパドックへ姿を現す。
五番、シンボリルドルフが登場した瞬間、スタンドが揺れた。
体操服姿。勝負服ではない。
だが、そのシンプルな装いだからこそ、鍛え抜かれたラインが際立つ。
しなやかで、強靭で、美しい。
一歩ごとに地面を押し返す強さと、舞うような優雅さ。
噂された体調不良など、微塵も感じさせない。
柵の外で見つめるイズモランドは、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「落ち着きすぎていますね……石上さん」
「まあ、いいんじゃないですか。イズモランドさん」
その言葉に、イズモは胸を痛めた。
――ずっと隣で走ってきたからこそ、分かる。
今日のルドルフは、強い。
続いてスズマッハ、スズパレード。
ダービーで二・四着を分けた二人にも声援が飛ぶ。
そして――
「ホッカイペガサス、頑張れよーっ!」
ペガサスは両腕を交差させ、胸を張る。
人気はスズマッハを上回り、ファンの期待を一身に受けていた。
「関東の最終兵器だ」
「ルドルフに続く、チーム東条のウマ娘さ」
その声に、スズマッハの眉がぴくりと動く。
「ふん、いい気になってんじゃないよ。ポッと出が!」
「そうよ。私たちは春から厳しいレースを戦ってきたんだから」
プライドが火花を散らす。
その横で、イズモはローファーを見つめていた。
(ペガサスちゃんは三勝して、ルドルフちゃんと同じ重賞へ……
私は函館で三勝目を逃して……
いつまでたっても、平凡なウマ娘……)
うつむく彼女に、突然声が飛ぶ。
「イズモ、前を向け!」
雷のような声。
顔を上げると、東条トレーナーが立っていた。
「お前は三人の中で一番の晩成タイプだ」
イズモの胸に、熱が灯る。
「オープンまでは行ける。重賞にも挑める。G1だって視野に入る」
「……!」
「どこまで行けるかは、自分次第だ。
そして――最後は“運”だ」
「運……ですか?」
「そう。だから運を呼び寄せるために、死ぬほど努力しろ」
「はい!」
イズモは力強く返事をした。
東条の背中を追い、走り出す。
――いつか、自分も重賞へ G1の舞台へ。
石上もその背中を見つめ、静かに呟いた。
「僕も……ウマ娘を励ませるトレーナーになりたいです」
パドックを終えたウマ娘たちがコースへ向かう。
緑のターフは風に揺れ、絶好の良バ場。
太陽は雲に隠れ、曇天の中山にファンファーレが響く。
外回り2200メートル。
シンボリルドルフの得意とする先行が生きる舞台だ。
十人のゲートインは驚くほどスムーズだった。
ルドルフは好発。
しかし内の1番が強気にハナを主張し、スズマッハが二番手へ。
ルドルフは慌てず三番手に収まる。
すぐ後ろにはスズパレード。
ダービー同様、前後から挟み込む“包囲網”だ。
その外で、ホッカイペガサスが鼻で笑う。
「フン、そんな小細工がルドルフに通用すると思ってるの?」
そして、自分にも言い聞かせる。
(……そうだ、私もレースに参加してるんだっけ)
ペガサスは口元を引き締めた。
「前のマッハは放っておいて……ルドルフをマークする!」
親友であろうと、勝負は別。
ウマ娘の本能が、彼女を前へと駆り立てる。
たとえ相手が親友で、最強のルドルフであっても。
一コーナー、二コーナー。
向こう正面では流れが落ち着き、隊列が縛られたように動かない。
ルドルフが三番手でレースを“支配”していた。
(まったく……全員がルドルフを意識しすぎ)
ペガサスも仕掛けどころを探りあぐねていた。
(このままじゃ、全員ルドルフの術中……!)
痺れを切らし、前へ動く。
スズパレードも同じくじわりと進出。
(ふ、考えることは皆同じか)
四コーナー、先団七人が一塊となる。
(よし……このままなら、ひょっとして……!)
淡い期待が胸に灯った瞬間――
ルドルフ以外が一斉に仕掛けた。
流れが一気に速くなる。
だが、ルドルフだけが涼しい顔。
(く、苦しい……!)
ペガサスは必死に食らいつくが、脚が重い。
スズマッハもスズパレードも同じ脚色。
ただ一人、ルドルフだけが“別次元”だった。
スタンドから驚愕の歓声が上がる。
スズマッハが先頭へ。
スズパレードが追う。
その時――
ルドルフが一瞬、もたついた。
ざわめきが走る。
動けないのか?
まさか――
だが次の瞬間。
シンボリルドルフは、まるで風に押されたように前へ出た。
優雅で、軽やかで、強い。
最速ではない。
まだ“上のギア”を隠したまま。
それでも、自然と先頭へ躍り出る。
ペガサスは遅れ、スズマッハら三人が二着争いを繰り広げる。
ゴールが迫る。
ルドルフは――走るのをやめた。
惰性で流すように、ふわりとゴールラインを通過した。
三バ身差。
圧勝。
「ち……八着か……」
ホッカイペガサスは悔しさを噛みしめた。
ルドルフとの“本気の初対決”。
その結果は、ほろ苦いものだった。