皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その11 セントライト記念(後編)──歴史のIF

場内はざわつきながらも、どこか静まり返っていた。

誰もが言葉を探している。

「おい、タイムは?」

東条が隣のスピードシンボリに問う。

「……2分13秒4」

スピードは呆然と告げた。

「あれ……」

石上が電光掲示板を指差す。

そこには“レコード”の文字。

「従来のレコードは、シニア級のウマ娘が出した2分13秒8……」

「クラッシックのルドルフは、それを十年ぶりに破ったわけね」

スピードは驚愕を通り越し、呆れたように息を吐いた。

道中は遊ぶように走り、

最後は流してゴールし、

それでレコード。

ただ一言――

「強い……」

「速い……」

ファン、トレーナー、ウマ娘、マスメディア。

あらゆる場所から驚嘆の声が漏れる。

だが、歓声というよりは静かな畏怖だった。

その二文字以外に、言葉が見つからない。

地下バ道には、汗まみれの出走ウマ娘たちが続々と戻ってくる。

悔しさ、安堵、落胆、さまざまな感情が入り混じる。

ただ一つ、一着のウマ娘が入るべきポケットだけが空のまま。

――ヒーローは、まだターフにいた。

芝コースを逆走し、軽く流すように走るルドルフ。

まるで「まだ走れる」と言わんばかりの軽快さ。

実際、彼女はほとんど本気を出していない。

正面スタンドでスピードシンボリは腕を組み、その流麗な走りを見つめていた。

雲間から差す陽光が、勝者の身体に一筋の光を落とす。

「……神の啓示か」

スピードは敬虔な気持ちで呟いた。

光はすぐに雲に隠れ、まるで神隠しのように消える。

同時にルドルフも走りを止め、地下バ道へと姿を消した。

「ルドルフは、もはや人知を超えているな」

スピードは静かに評した。

彼女はずっと、自分を超える“強さ”を求めていた。

その宿願が、今、同じ“シンボリ”の名を持つ後輩によって叶えられようとしている。

誇らしさを胸の奥に押しとどめながら、同時に孤高の影を感じる。

この先に待つ茨の道を思い、そっと目を閉じた。

 

ルドルフもまた、勝者の陶酔とは無縁だった。

検量室はざわめきに満ちている。

後検量を終え、二着以下のウマ娘たちと横に並ぶ。

敗者たちの視線が痛いほど突き刺さる。

そこへ女性記者が笑顔で近づき、マイクを向けた。

「優勝おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「レースはいかがでしたか?」

「先行して三番手。そこから……何もしていません」

記者の笑顔が固まる。

「楽に追走できました」

さらに固まる。

「もっと、骨のある相手とやり合いたいです」

その純粋な言葉は、周囲に雷のような衝撃を走らせた。

嫌味ではない。だが、あまりにも核心を突きすぎていた。

ホッカイペガサスでさえ、表情を失っていた。

負けた悔しさが、胸に刺さる。

 

ようやくヒーローが戻ってくる。

「ルドルフ、お疲れさん」

東条が手を差し出す。

ルドルフも自然と握り返した。

「いやあ、格の違いを思い知らされたよ」

ホッカイペガサスが頭を掻きながら笑う。

「ふふ、同じチームのメンバー、楽しかったよ。

そのうちG1でも走ろう!」

ルドルフが手を差し出すと、

ペガサスは胸を張って握り返した。

東条は二人を慈しむように見守った。

周囲では、敗れたウマ娘やトレーナーたちが顔を寄せ合い、レースを振り返っていた。

「……あれは、次元が違うよ」

「菊花賞、どうしよう……」

「三冠阻止なんて、おこがましいですよ……」

「次は……自分のレベルに合ったレースにします」

念願のクラシック出走を諦める声すらある。

ざわめきは、ルドルフの走りと対照的に、どこか寂しげだった。

それが、ルドルフの強さを際立たせる。

「今のレースぶりなら……凱旋門賞を選んだとしても……」

スピードシンボリは天を仰いだ。

右回りでの絶対的な強さ。

これならば、という思いが胸をよぎる。

だが、その“IF”は神のみぞ知る世界。

「このまま日本に座してなど、いられない!」

スピードは黒髪を掻き上げた。

かつて海外で武者修行をした頃と同じ仕草、彼女そのものだった。

胸に、再び熱が灯る。

スピードシンボリは、

まだ胸の奥にある“ある計画”を抱えながら、

静かに拳を握った。

 

秋はさらに深まり、神無月の空は高く澄んでいた。

トレセン学園のコースでは、赤ジャージのルドルフが準備運動をしている。

一人で屈伸するだけでも、眼光は鋭い。

セントライト記念の快勝が、彼女の内に火を灯していた。

「トレーニングは厳しくいくぞ!」

東条の檄に、ルドルフは力強く右手を上げる。

そして、すっとコースへ駆け出した。

東条は腕を組み、悩ましげに唸る。

「どうしました?」

石上が心配そうに尋ねる。

「ルドルフの雰囲気だよ」

「……ああ」

「セントライト記念の前と、明らかに違う」

東条は続ける。

「大人びた。いや……勝負師になった」

軽く走っているだけなのに、迫力がある。

石上は憧れの眼差しで見つめた。

「皐月賞、ダービーと修羅場を越えてきましたしね」

「この前は遊びながらレコード勝ちだ」

「一皮むけた感じですね」

「修羅の道を行く青年だよ。どんな試練にも耐えられる自信に満ちている」

果てしない大地の端まで走っていきそうな気迫。

東条と石上は、ただ感嘆するしかなかった。

その時、東条の胸ポケットが震えた。

スマートフォンを取り出すと、フランスにいるスピードシンボリからのメールだった。

「ほう……凱旋門賞は、トレビーノが育成するウマ娘が勝ったのか」

昨晩ネットで見た情報だが、改めて目を通す。

「……欧州随一のトレーナであるトレビーノが、来年はルドルフをサポートしたい、だと?」

もしルドルフが遠征するなら――という誘い。

スピードは欧州を実地で見て回り、その成果としてこのオファーを得たらしい。

セントライト記念の映像を見せたら、一発でOKが出たという。

そして次の文面を見た瞬間、東条は息を飲んだ。

石上も画面を覗き込み、同じ反応を示す。

「……シンボリルドルフが出走するのが“来年でよかった”」

ただの文字列なのに、二人はそこに“本気”を感じた。

「もし今年、ルドルフさんが凱旋――」

「はい、ストップ」

東条は右手を突き出して遮る。

スピードも同じ思いだろう。

夢を追う一方で、現実を見る胆力も必要だ。

視線をコースへ戻すと、ルドルフが大地を踏みしめ、力強く加速していた。

――大人たちは、見果てぬ夢に思いを馳せる。

秋風が、終章のように二人の頬を切り刻んだ。

 

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