皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
場内はざわつきながらも、どこか静まり返っていた。
誰もが言葉を探している。
「おい、タイムは?」
東条が隣のスピードシンボリに問う。
「……2分13秒4」
スピードは呆然と告げた。
「あれ……」
石上が電光掲示板を指差す。
そこには“レコード”の文字。
「従来のレコードは、シニア級のウマ娘が出した2分13秒8……」
「クラッシックのルドルフは、それを十年ぶりに破ったわけね」
スピードは驚愕を通り越し、呆れたように息を吐いた。
道中は遊ぶように走り、
最後は流してゴールし、
それでレコード。
ただ一言――
「強い……」
「速い……」
ファン、トレーナー、ウマ娘、マスメディア。
あらゆる場所から驚嘆の声が漏れる。
だが、歓声というよりは静かな畏怖だった。
その二文字以外に、言葉が見つからない。
地下バ道には、汗まみれの出走ウマ娘たちが続々と戻ってくる。
悔しさ、安堵、落胆、さまざまな感情が入り混じる。
ただ一つ、一着のウマ娘が入るべきポケットだけが空のまま。
――ヒーローは、まだターフにいた。
芝コースを逆走し、軽く流すように走るルドルフ。
まるで「まだ走れる」と言わんばかりの軽快さ。
実際、彼女はほとんど本気を出していない。
正面スタンドでスピードシンボリは腕を組み、その流麗な走りを見つめていた。
雲間から差す陽光が、勝者の身体に一筋の光を落とす。
「……神の啓示か」
スピードは敬虔な気持ちで呟いた。
光はすぐに雲に隠れ、まるで神隠しのように消える。
同時にルドルフも走りを止め、地下バ道へと姿を消した。
「ルドルフは、もはや人知を超えているな」
スピードは静かに評した。
彼女はずっと、自分を超える“強さ”を求めていた。
その宿願が、今、同じ“シンボリ”の名を持つ後輩によって叶えられようとしている。
誇らしさを胸の奥に押しとどめながら、同時に孤高の影を感じる。
この先に待つ茨の道を思い、そっと目を閉じた。
ルドルフもまた、勝者の陶酔とは無縁だった。
検量室はざわめきに満ちている。
後検量を終え、二着以下のウマ娘たちと横に並ぶ。
敗者たちの視線が痛いほど突き刺さる。
そこへ女性記者が笑顔で近づき、マイクを向けた。
「優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「レースはいかがでしたか?」
「先行して三番手。そこから……何もしていません」
記者の笑顔が固まる。
「楽に追走できました」
さらに固まる。
「もっと、骨のある相手とやり合いたいです」
その純粋な言葉は、周囲に雷のような衝撃を走らせた。
嫌味ではない。だが、あまりにも核心を突きすぎていた。
ホッカイペガサスでさえ、表情を失っていた。
負けた悔しさが、胸に刺さる。
ようやくヒーローが戻ってくる。
「ルドルフ、お疲れさん」
東条が手を差し出す。
ルドルフも自然と握り返した。
「いやあ、格の違いを思い知らされたよ」
ホッカイペガサスが頭を掻きながら笑う。
「ふふ、同じチームのメンバー、楽しかったよ。
そのうちG1でも走ろう!」
ルドルフが手を差し出すと、
ペガサスは胸を張って握り返した。
東条は二人を慈しむように見守った。
周囲では、敗れたウマ娘やトレーナーたちが顔を寄せ合い、レースを振り返っていた。
「……あれは、次元が違うよ」
「菊花賞、どうしよう……」
「三冠阻止なんて、おこがましいですよ……」
「次は……自分のレベルに合ったレースにします」
念願のクラシック出走を諦める声すらある。
ざわめきは、ルドルフの走りと対照的に、どこか寂しげだった。
それが、ルドルフの強さを際立たせる。
「今のレースぶりなら……凱旋門賞を選んだとしても……」
スピードシンボリは天を仰いだ。
右回りでの絶対的な強さ。
これならば、という思いが胸をよぎる。
だが、その“IF”は神のみぞ知る世界。
「このまま日本に座してなど、いられない!」
スピードは黒髪を掻き上げた。
かつて海外で武者修行をした頃と同じ仕草、彼女そのものだった。
胸に、再び熱が灯る。
スピードシンボリは、
まだ胸の奥にある“ある計画”を抱えながら、
静かに拳を握った。
秋はさらに深まり、神無月の空は高く澄んでいた。
トレセン学園のコースでは、赤ジャージのルドルフが準備運動をしている。
一人で屈伸するだけでも、眼光は鋭い。
セントライト記念の快勝が、彼女の内に火を灯していた。
「トレーニングは厳しくいくぞ!」
東条の檄に、ルドルフは力強く右手を上げる。
そして、すっとコースへ駆け出した。
東条は腕を組み、悩ましげに唸る。
「どうしました?」
石上が心配そうに尋ねる。
「ルドルフの雰囲気だよ」
「……ああ」
「セントライト記念の前と、明らかに違う」
東条は続ける。
「大人びた。いや……勝負師になった」
軽く走っているだけなのに、迫力がある。
石上は憧れの眼差しで見つめた。
「皐月賞、ダービーと修羅場を越えてきましたしね」
「この前は遊びながらレコード勝ちだ」
「一皮むけた感じですね」
「修羅の道を行く青年だよ。どんな試練にも耐えられる自信に満ちている」
果てしない大地の端まで走っていきそうな気迫。
東条と石上は、ただ感嘆するしかなかった。
その時、東条の胸ポケットが震えた。
スマートフォンを取り出すと、フランスにいるスピードシンボリからのメールだった。
「ほう……凱旋門賞は、トレビーノが育成するウマ娘が勝ったのか」
昨晩ネットで見た情報だが、改めて目を通す。
「……欧州随一のトレーナであるトレビーノが、来年はルドルフをサポートしたい、だと?」
もしルドルフが遠征するなら――という誘い。
スピードは欧州を実地で見て回り、その成果としてこのオファーを得たらしい。
セントライト記念の映像を見せたら、一発でOKが出たという。
そして次の文面を見た瞬間、東条は息を飲んだ。
石上も画面を覗き込み、同じ反応を示す。
「……シンボリルドルフが出走するのが“来年でよかった”」
ただの文字列なのに、二人はそこに“本気”を感じた。
「もし今年、ルドルフさんが凱旋――」
「はい、ストップ」
東条は右手を突き出して遮る。
スピードも同じ思いだろう。
夢を追う一方で、現実を見る胆力も必要だ。
視線をコースへ戻すと、ルドルフが大地を踏みしめ、力強く加速していた。
――大人たちは、見果てぬ夢に思いを馳せる。
秋風が、終章のように二人の頬を切り刻んだ。