皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
クラシック級のウマ娘たちは、ルドルフの決断など知る由もない。クライマックスである菊花賞に向け、各地で死闘が繰り広げられていた。
その一つが京都新聞杯。京都レース場のゴール前では、スズマッハとニシノライデンの激しい競り合いが続いていた。逃げるマッハ、追うライデン。勝負は、ゴール直前で決した。
「よし、差し切ったで!」
菊花賞トライアルを制したニシノライデンが、歓喜の右手を突き上げた。
「くっそ……三着か……」
ダービー二着のスズマッハは、後塵を拝した悔しさに唇を噛む。
ルドルフへの挑戦権を得たライデンは、地下通路で寮の友人と陽気にハイタッチを交わした。だが、すぐに表情を引き締める。次走の本番が脳裏をよぎったのだ。
「あいつ……ほんまに淀まで来よるんやろか」
栗東寮のウマ娘たちの本音。菊の頂を狙う者にとって、皇帝の動きが気になって仕方ない。
「去年シービーさんが三冠取ったばっかりやで。続けてなんて、考えにくいやろ?」
親友が、根拠のない希望的観測を口にする。
「せやなぁ……」
ライデンは天井を仰ぎ、トレセン学園で習った三冠の歴史を思い返す。
三冠ウマ娘は三人のみ。皐月賞とダービーを制しながら、菊花賞で涙を飲んだ者は四人。二冠を獲りながら、故障で進めなかった者も二人いる。
「三冠なんて……あんまり深く望まん方が、ウマ娘は幸せなんやろな」
淀で散った数多のウマ娘。その歴史を学んだニシノライデンは、自然とそう思う。だが、胸の奥底から叫びがこみ上げた。
「頼む……ルドルフだけは来んでええ!」
ライデンは、天に向かって叫んだ。
翌日。東京レース場ではシニア秋G1、天皇賞秋の激闘が繰り広げられていた。菊花賞が終われば、ルドルフらクラシック級もシニアクラスと対戦する。その前哨戦とも言える伝統の一戦が、今まさに幕を開けた。
スタート直後、カツラギエースは好発進を決めた。いつも以上に気合が入っている。
「やっと奴とG1戦だ。もう“トライアルホース”なんて言わせない」
今日は激しい逃げ争いを避け、三番手の好位で追走。ここまではよかった。だが、気負いが裏目に出る。
「ちきしょう……気持ちが抑えられねぇ!」
エースは折り合いを欠き、無駄に脚を使ってしまっていた。
一方、ミスターシービーは縦長の隊列の最後方。いつもの定位置だ。
「私は、自分の好きなようにするだけさ」
飄々とした声。だが、その奥には確かな自信がある。
先頭から二十バ身離されていたが、三コーナーからスパート。バ群を縫うようにして、徐々にポジションを上げていく。
エースも負けじと直線で加速し、前の二人をかわす。
「よし、やった!」
先頭に立ったエースは、小さくガッツポーズを見せた。
「このまま押し切ってやる!」
気力を振り絞る。だが、その背筋に冷たい風が走った。
「はああああぁぁ!」
大外一気。前を行くウマ娘をごぼう抜きにする影――
「シービーか……やらせるかぁ!」
エースの叫びを無視するように、突風が駆け抜けた。
「!!」
気づけば、他のウマ娘にも抜かれ、結果は五着。無理な追走で消耗したのが響いた。勝ちタイムは1分59秒3のコースレコード。エースは、ただの道化役となってしまった。
勝利インタビューでシービーは言い放つ。
「バテて下がるウマを見ると、やる気が出るんです」
天衣無縫。まさにミスターシービーの独壇場だった。
地下バ道には、敗者たちの悔しさが漂っていた。ばらばらと控室へ消えていく中、疲れた脚を引きずるウマ娘に声がかかる。
「カツラギエースちゃん!?」
振り向くと、制服姿のマルゼンスキーが右手を小さく振っていた。
「……何か、用ですか?」
ぶっきらぼうな返事。レース直後なら無理もない。
エースはマルゼンの姿を見て、思わず目を細めた。相変わらずの完璧なプロポーション。ウマ娘から見ても、羨望の的だ。
対して自分は――幼い頃は脚ばかり長く、ひょろっとしていた。入学後も動きが悪く、関係者をやきもきさせた。それでも、ここまで努力してきたのだ。
「次、頑張ればいいじゃない。G1ウマ娘さん」
気楽な笑顔の慰めが、逆に胸に刺さる。
「ええ……宝塚記念はシービー不在だから勝てたって、言う人もいますよ」
仏頂面で続ける。
「確かに、毎日王冠はシービーに勝ちました。でも……今日は完敗です」
悔しさが滲む。
「前哨戦は強いが、本番ではシービーに負ける――そう言われても仕方ないですよね」
エースは唇を噛む。だが、マルゼンは変わらず微笑んでいた。その優しさが、逆に自分を惨めにする。
八つ当たりしたくなる自分が、許せない。
「俺は……」
言い淀んだ瞬間、名を呼ばれる。
「カツラギちゃん、どうかした?」
マルゼンスキーが顎に手を当て、首を傾げる。その存在を意識したエースは、息を止め、考え、そして吐いた。
目を見開き、一歩前へ。腕を伸ばし、直立不動。
「勝つための極意を、教えてください!」
最敬礼。八戦八勝のスーパーカーに、恥も外聞もなく食らいつく。
「極意、ねぇ……」
マルゼンは依頼を咀嚼し、エースの覚悟を測る。腰は折れたまま、微動だにしない。
その姿勢に、マルゼンは小さく息をついた。
「手がないわけじゃないけど……」
甘い声音が漂う。
「次はジャパンカップよね?」
確認するように念を押す。
「相手は海外の強豪ウマ娘に、シービーちゃん……」
指を折りながら数え、そして止まる。
「……そして、ルドルフちゃん。噂ではね」
エースの背中が震えた。見上げる目は、不思議そうで、どこか怯えている。
菊花賞を使うルドルフが、中一週でジャパンカップに来るはずがない――常識ではそうだ。だが、マルゼンの言葉はそれを否定していた。
「ルドルフちゃんは、レベルの高い戦いを望んでいるわ」
真剣な声音で断言し、エースを見据える。
「正直、あなたの能力では足りないかもね……」
残酷な宣告。だが、事実だ。
エースは前へ飛び出し、マルゼンの肩を掴む。燃えるような瞳が、必死に訴える。
「死中に活路を求めるなら……」
マルゼンは続ける。
「みっともないかもしれないけど――」
「そんなの構いません!」
エースの声が震える。
「ならば――」
マルゼンは不敵に笑い、エースの耳元へ唇を寄せた。
「あなたの象徴。この“音”を司る部分。ここから変えるのよ」
「どういうこと、ですか?」
「それはね……」
さらに近づく。敏感な耳朶が熱を帯び、毛が逆立つ。
そこへ、ハスキーな囁きが落ちた。
――エースの触覚を、根底から揺さぶるアドバイスが。