皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その13 スワンステークス(前編)──ビゼンニシキのこと

京都レース場。秋晴れの空はどこまでも高く、澄んだ風がターフを撫でていた。

そのスタートゲート前で、ビゼンニシキは静かに目を閉じていた。祈りにも似た、張り詰めた表情。胸の奥で、何かを振り切るように呼吸を整える。

十分前に行われた天皇賞秋でのミスターシービーの豪脚も、カツラギエースとマルゼンスキーの密談も、彼女の意識には一切ない。

今のビゼンにあるのは、ただ一つ――自分の未来を切り拓く覚悟だけだった。

今日のメインは芝1400メートル、スワンステークス。

クラシックの夢を断ち、マイル・短距離路線へと舵を切ったビゼンにとって、ここが再出発の舞台だ。

(内枠……包まれないように気をつけないと)

3枠3番。青い鉄柱のゲートへと歩み入る。

左の大外、8枠14番には、マイル王のウマ娘。

その姿を横目に捉えた瞬間、胸の奥に熱が灯る。

(相手は一年以上、連対を外していない怪物……でも)

ビゼンは小さく笑った。

(あたしだって、皇帝シンボリルドルフと死闘を演じてきたんだ。簡単に引くわけにはいかない)

緩んだ頬を引き締め、深く息を吸う。

(ここから、もう一度――)

ゲートが開いた。

(速いっ!)

ビゼンも悪くないスタートを切った。

だが、短距離の猛者たちのテンの速さは、想像以上だった。

マイル王は二番手につけると、まるで風に乗るように加速し、あっという間にハナを奪う。

(息が……継げない……!)

ビゼンは中団、八〜九番手。

前を追うウマ娘たちの脚色が、すでに苦しげに見える。

その中には、レコードホルダーの姿もあった。

(このペース……異常だ。でも――)

ビゼンは歯を食いしばる。

(ここで終わるわけには――)

ギアを上げようとした、その瞬間。

「えっ――」

視界の端で、二番手を走っていたウマ娘が、突然バランスを崩し、吹き飛ぶように失速した。

「うわっ!」

ビゼンは反射的にかわした。

だが――

「――っ!!」

右脚に、鋭い痛みが走った。

骨の奥まで響くような、焼けつく痛み。

声にならない悲鳴が喉で潰れ、顔が歪む。

(痛……っ! でも……まだ……)

右脚を庇いながらも、ビゼンは必死に前を追った。

四コーナーを回り、四番手まで押し上げる。

(いける……いけるはず……!)

だが、そこまでだった。

直線に入ると、右脚の感覚が急速に薄れていく。

力が入らない。

脚が前に出ない。

マイル王は独走。

外から桜花賞ウマ娘が迫るが、その差は縮まらない。

ビゼンは――抜かれていく。

「動けぇ……! オレの脚……っ!」

叫んでも、脚は応えない。

推進力が抜け落ち、ずるずると後退する。

背中を見送るしかない。

その背中が、どんどん遠ざかっていく。

気づけば、ゴールした時には、ほとんど歩いていた。

レースはレコード決着。

だが、ビゼンニシキは最下位。

勝ちウマ娘から6.4秒差――致命的な大敗だった。

 

レース後。

ビゼンは右脚に手を当てた。

熱い。

脈打つように痛む。

(……やっちまった、か)

鼻をすすり、指で涙を拭う。

その指先に落ちたのは、汗ではなく――悔しさの雫だった。

「ケガ……しちまった……」

それが、ビゼンニシキがターフに残した最後の言葉だった。

宮園トレーナーが泣きながら駆け寄り、ビゼンを抱き上げる。

「ごめんな……ごめんな……!」

何度も、何度も謝り続ける声が震えていた。

赤いランプを回す救急車が近づいてくる。

その光景が、ビゼンには現実とは思えなかった。

――彼女のクラシック世代としての物語は、ここで静かに幕を閉じた。

 

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