皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
京都レース場。秋晴れの空はどこまでも高く、澄んだ風がターフを撫でていた。
そのスタートゲート前で、ビゼンニシキは静かに目を閉じていた。祈りにも似た、張り詰めた表情。胸の奥で、何かを振り切るように呼吸を整える。
十分前に行われた天皇賞秋でのミスターシービーの豪脚も、カツラギエースとマルゼンスキーの密談も、彼女の意識には一切ない。
今のビゼンにあるのは、ただ一つ――自分の未来を切り拓く覚悟だけだった。
今日のメインは芝1400メートル、スワンステークス。
クラシックの夢を断ち、マイル・短距離路線へと舵を切ったビゼンにとって、ここが再出発の舞台だ。
(内枠……包まれないように気をつけないと)
3枠3番。青い鉄柱のゲートへと歩み入る。
左の大外、8枠14番には、マイル王のウマ娘。
その姿を横目に捉えた瞬間、胸の奥に熱が灯る。
(相手は一年以上、連対を外していない怪物……でも)
ビゼンは小さく笑った。
(あたしだって、皇帝シンボリルドルフと死闘を演じてきたんだ。簡単に引くわけにはいかない)
緩んだ頬を引き締め、深く息を吸う。
(ここから、もう一度――)
ゲートが開いた。
(速いっ!)
ビゼンも悪くないスタートを切った。
だが、短距離の猛者たちのテンの速さは、想像以上だった。
マイル王は二番手につけると、まるで風に乗るように加速し、あっという間にハナを奪う。
(息が……継げない……!)
ビゼンは中団、八〜九番手。
前を追うウマ娘たちの脚色が、すでに苦しげに見える。
その中には、レコードホルダーの姿もあった。
(このペース……異常だ。でも――)
ビゼンは歯を食いしばる。
(ここで終わるわけには――)
ギアを上げようとした、その瞬間。
「えっ――」
視界の端で、二番手を走っていたウマ娘が、突然バランスを崩し、吹き飛ぶように失速した。
「うわっ!」
ビゼンは反射的にかわした。
だが――
「――っ!!」
右脚に、鋭い痛みが走った。
骨の奥まで響くような、焼けつく痛み。
声にならない悲鳴が喉で潰れ、顔が歪む。
(痛……っ! でも……まだ……)
右脚を庇いながらも、ビゼンは必死に前を追った。
四コーナーを回り、四番手まで押し上げる。
(いける……いけるはず……!)
だが、そこまでだった。
直線に入ると、右脚の感覚が急速に薄れていく。
力が入らない。
脚が前に出ない。
マイル王は独走。
外から桜花賞ウマ娘が迫るが、その差は縮まらない。
ビゼンは――抜かれていく。
「動けぇ……! オレの脚……っ!」
叫んでも、脚は応えない。
推進力が抜け落ち、ずるずると後退する。
背中を見送るしかない。
その背中が、どんどん遠ざかっていく。
気づけば、ゴールした時には、ほとんど歩いていた。
レースはレコード決着。
だが、ビゼンニシキは最下位。
勝ちウマ娘から6.4秒差――致命的な大敗だった。
レース後。
ビゼンは右脚に手を当てた。
熱い。
脈打つように痛む。
(……やっちまった、か)
鼻をすすり、指で涙を拭う。
その指先に落ちたのは、汗ではなく――悔しさの雫だった。
「ケガ……しちまった……」
それが、ビゼンニシキがターフに残した最後の言葉だった。
宮園トレーナーが泣きながら駆け寄り、ビゼンを抱き上げる。
「ごめんな……ごめんな……!」
何度も、何度も謝り続ける声が震えていた。
赤いランプを回す救急車が近づいてくる。
その光景が、ビゼンには現実とは思えなかった。
――彼女のクラシック世代としての物語は、ここで静かに幕を閉じた。