皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

55 / 55
★第二章三冠編  その13 スワンステークス(後編)──痛みと現実

京都レース場の救護エリアへ運ばれる途中、ビゼンニシキは右脚を抱え込むようにして震えていた。

秋の陽光はまだ眩しいのに、視界はどこか白く霞んでいる。

(……走れなかった。いや、走れたはずなのに……)

胸の奥が、脚よりも痛んだ。

担架が医務室に滑り込むと、冷たい空気が肌を刺す。

白衣のドクターが次々と指示を飛ばし、スタッフがビゼンの脚を固定し、アイシングを施す。

「ビゼンニシキさん、深呼吸して。痛む場所はここですね?」

触れられた瞬間、ビゼンの身体が跳ねた。

「っ……!」

声にならない悲鳴。

宮園トレーナーが手を握り、震える声で呼びかける。

「ビゼン……大丈夫や、大丈夫やからな……」

その声に、ビゼンはかろうじて頷いた。

だが、胸の奥では別の声が叫んでいた。

(大丈夫なわけ、ない……)

 

レントゲンとエコー検査が終わり、医務室の空気が重く沈む。

ドクターがカルテを閉じ、静かに告げた。

「右後脚の靭帯損傷。軽度ではありません。

走行中の接触による急激な捻りが原因でしょう。

治療とリハビリで回復は見込めますが……」

言葉が一拍、宙に浮く。

「……今季のレース復帰は、難しいと思ってください」

宮園トレーナーが息を呑み、ビゼンは目を閉じた。

(ああ……やっぱり、そうか)

涙は出なかった。

ただ、胸の奥がぽっかりと空洞になったようだった。

(ルドルフ……あんたは、今ごろ菊花賞へ向けて走ってるんだろうな)

その姿を思い浮かべると、悔しさでも悲しさでもない、

もっと複雑な感情が胸を締めつけた。

(あたしは……もう、あんたと走れないのか)

医務室の天井を見つめながら、ビゼンは思った。

(クラッシックを諦めて、マイルでやり直すって決めたのに……

その最初のレースで、これかよ)

拳を握る。

爪が掌に食い込むほど強く。

(あたしは……何をやっても中途半端なのか?

ルドルフと走ったあの春が、あたしのピークだったのか?)

胸の奥がじわりと熱くなる。

(悔しい……悔しい……!)

だが、涙は落ちない。

泣く資格すらないと、どこかで思っていた。

 

同じ頃、トレセン学園のコースでは、シンボリルドルフが単走で追い切りを終えていた。

汗を拭い、呼吸を整えたところへ、スピードシンボリが駆け寄ってくる。

「ルドルフ……落ち着いて聞いて」

その声音に、ルドルフの耳がぴくりと動く。

スピードは滅多に見せない、沈痛な表情をしていた。

「ビゼンニシキが……京都のスワンステークスで、故障した」

ルドルフの瞳が大きく揺れた。

「……ビゼンが?」

スピードは頷く。

「靭帯損傷。今季は……もう走れないかもしれない」

ルドルフは言葉を失った。

胸の奥に、冷たいものが落ちていく。

(ビゼン……)

夏祭りの夜、花火の下で交わした約束。

来年の天皇賞での再戦。

あの強気な瞳。

すべてが、痛みに変わる。

「……会いに行きます」

ルドルフは静かに言った。

その声は震えていたが、決意に満ちていた。

スピードシンボリは、そっと肩に手を置く。

「行ってあげなさい。あの子は、きっと……あなたを待ってる」

ルドルフは頷き、コースを後にした。

その背中は、いつもの皇帝のそれではなく、

ただ一人の友を案じる少女のものだった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。