皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
京都レース場の救護エリアへ運ばれる途中、ビゼンニシキは右脚を抱え込むようにして震えていた。
秋の陽光はまだ眩しいのに、視界はどこか白く霞んでいる。
(……走れなかった。いや、走れたはずなのに……)
胸の奥が、脚よりも痛んだ。
担架が医務室に滑り込むと、冷たい空気が肌を刺す。
白衣のドクターが次々と指示を飛ばし、スタッフがビゼンの脚を固定し、アイシングを施す。
「ビゼンニシキさん、深呼吸して。痛む場所はここですね?」
触れられた瞬間、ビゼンの身体が跳ねた。
「っ……!」
声にならない悲鳴。
宮園トレーナーが手を握り、震える声で呼びかける。
「ビゼン……大丈夫や、大丈夫やからな……」
その声に、ビゼンはかろうじて頷いた。
だが、胸の奥では別の声が叫んでいた。
(大丈夫なわけ、ない……)
レントゲンとエコー検査が終わり、医務室の空気が重く沈む。
ドクターがカルテを閉じ、静かに告げた。
「右後脚の靭帯損傷。軽度ではありません。
走行中の接触による急激な捻りが原因でしょう。
治療とリハビリで回復は見込めますが……」
言葉が一拍、宙に浮く。
「……今季のレース復帰は、難しいと思ってください」
宮園トレーナーが息を呑み、ビゼンは目を閉じた。
(ああ……やっぱり、そうか)
涙は出なかった。
ただ、胸の奥がぽっかりと空洞になったようだった。
(ルドルフ……あんたは、今ごろ菊花賞へ向けて走ってるんだろうな)
その姿を思い浮かべると、悔しさでも悲しさでもない、
もっと複雑な感情が胸を締めつけた。
(あたしは……もう、あんたと走れないのか)
医務室の天井を見つめながら、ビゼンは思った。
(クラッシックを諦めて、マイルでやり直すって決めたのに……
その最初のレースで、これかよ)
拳を握る。
爪が掌に食い込むほど強く。
(あたしは……何をやっても中途半端なのか?
ルドルフと走ったあの春が、あたしのピークだったのか?)
胸の奥がじわりと熱くなる。
(悔しい……悔しい……!)
だが、涙は落ちない。
泣く資格すらないと、どこかで思っていた。
同じ頃、トレセン学園のコースでは、シンボリルドルフが単走で追い切りを終えていた。
汗を拭い、呼吸を整えたところへ、スピードシンボリが駆け寄ってくる。
「ルドルフ……落ち着いて聞いて」
その声音に、ルドルフの耳がぴくりと動く。
スピードは滅多に見せない、沈痛な表情をしていた。
「ビゼンニシキが……京都のスワンステークスで、故障した」
ルドルフの瞳が大きく揺れた。
「……ビゼンが?」
スピードは頷く。
「靭帯損傷。今季は……もう走れないかもしれない」
ルドルフは言葉を失った。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
(ビゼン……)
夏祭りの夜、花火の下で交わした約束。
来年の天皇賞での再戦。
あの強気な瞳。
すべてが、痛みに変わる。
「……会いに行きます」
ルドルフは静かに言った。
その声は震えていたが、決意に満ちていた。
スピードシンボリは、そっと肩に手を置く。
「行ってあげなさい。あの子は、きっと……あなたを待ってる」
ルドルフは頷き、コースを後にした。
その背中は、いつもの皇帝のそれではなく、
ただ一人の友を案じる少女のものだった。