皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
一日一日、菊花賞が近づいてくる。
秋の天皇賞で敗れたカツラギエースが悔しさのあまりマルゼンスキーを頼ったことなど、シンボリルドルフはまだ知らない。ビゼンニシキの事故は録画で確認したが、怪我の予後は不明のままだ。気持ちとしては、見舞いに行きたい。
だが今、彼女が最も集中すべきは他者の動向ではない。
――己の走り、ただそれだけだ。
ルドルフのトレーニングは、驚くほど順調だった。ニシノライデンが「来ないでくれ」と祈った願いは、神に届く気配すらない。
トレセン学園のコース。念入りな準備運動を終え、ルドルフはキャンターで軽やかに駆け出す。今日の併走相手はシリウスシンボリだ。
「はぁ……走るっきゃないんだよなぁ」
シリウスが愚痴をこぼす。やる気があるのかないのか、判然としない声だ。
ルドルフはその背中を軽く叩いた。
「ほれ、行くぞ!」
「ああっ、分かってるって!」
嫌がるように見せかけて、シリウスは勢いよく飛び出した。手足の伸びは良く、若さの弾力がある。
脇ではスピードシンボリがストップウォッチを片手に、シリウスの悪態を楽しむように口元を緩めていた。
「さて、未来のダービーウマ娘を手合わせするか」
ルドルフが軽く挑発すると、シューズが大地を蹴り上げる。
瞬く間に一ハロン15秒のペースは14秒へと加速した。
1000メートル標識。先行していたシリウスが、偉大な先輩を待ち受けるように前を走る。
ルドルフは外からバ体を併せ、励ますように速度を上げた。
内のシリウスは必死の形相で食い下がる。
その姿に配慮したのか、あるいは叱咤したのか――ルドルフはシリウスと並んだまま、同時にゴールへ飛び込んだ。
「初めて65秒を切ったね、トレーナー」
ストップウォッチを止めたスピードシンボリが、隣の東条へ声をかける。
クールダウンに入ったルドルフの背中を、二人は静かに見つめた。
「また成長したようです。もう、いっぱしのシニアですね」
東条は静かに語る。
「いいトレーニングでしたね」
声をかけてきたのは、笑顔の女性記者だった。
東条は鼻を高くして応じる。
「プランに寸分の狂いもありません。これで仕上がるでしょう」
レースは走ってみなければ分からない――そう前置きしつつ、
「まあ、負けないでしょう」
と、さらりと言い切った。
「動きはパーフェクトですね。精神面も大人になっていますし」
記者も舌を巻く。
「うん、物見遊山としゃれこみますよ」
「その意味は?」
「スピードシンボリとゴルフに行きます」
東条はクラブを握るポーズをし、右肩からスイングしてみせた。
レース前日に宇治山田のカントリークラブでラウンドするという。
その自信満々の表情に、記者は圧倒される。
ただ一人、シンボリルドルフだけが、東条とスピードのゴルフ談義にむっつりとしていた。
十月三十日の夜。
ルドルフは車で京都へ向かうことになった。借りたのはドイツ製の高級リムジン。東条トレーナーと石上サブトレーナーが同乗する。
大安吉日の早朝に京都入りする計算だ。
合理主義の東条にしては珍しい“ゲン担ぎ”。
――史上初の無敗の三冠ウマ娘を誕生させたい。
その祈りが、静かに車内に満ちていた。
出発時、和服姿のスピードシンボリが、シリウス、ペガサス、イズモらを従えて見送りに立った。
「じゃあ、行ってきます」
冬制服のルドルフは、普段と変わらぬ落ち着きで後部座席に座る。
エンジンがかかり、車は静かに動き出した。
高速道路を西へ。
エンジンの単調な音が、眠気を誘う。
石上は舟を漕ぎ、ルドルフもまぶたが重くなる。
ふと目を覚ますと、東条が眠らずに外を見ていた。
柔らかな表情で、静かに語り出す。
「サブトレーナーの頃な。スピードシンボリが海外遠征から帰る時、一緒に寄り添ったのを思い出したよ」
ルドルフの耳がピクリと動く。
「本当ですか?」
頬が少し膨らむ。
そして、東条の腕を掴み、肩に顔を寄せた。
「今は、私のトレーナーさんです」
拗ねたような声音。
東条は優しく髪を梳き、頭を撫でた。
二人はそのまま、星空の下を走り抜けていった。
十月三十一日、大安吉日。
早朝、京都レース場に到着したルドルフは、軽くあくびをした。
東条が車を降りると、顔を引きつらせる。
――取材陣が、すでに待ち構えていた。
「東条さん、彼女に変わりありませんかいな?」
春のダービー以来の顔ぶれが、親しげに声をかける。
「問題ないですね」
東条は淡々と答えたが、その表情には複雑な影があった。
石上は、その本心を察する。
(本当は……ルドルフを西下させたくなかったんだ)
ジャパンカップで世界の強豪と戦わせたい。
それが東条の本音だ。
だが、彼女のために最善を選ぶなら――三冠を目指すべきだ。
セントライト記念後、凱旋門賞は回避した。
菊花賞の後、中一週でジャパンカップに挑む予定だが、本音を言えば「菊をスキップしてJCに全力で挑ませたい」のだ。
「さて、新幹線で来るスピードシンボリと合流しますか」
東条、スピード、石上は、これから十日間、宇治に宿を取る。
淀までは電車で三十分。
ゴルフも近隣で楽しむ予定だ。
――三冠の重圧を背負う関係者にも、気分転換は必要だった。
初めての京都レース場。
ルドルフは学園の赤ジャージに着替え、古都のターフに降り立つ。
初見のコースに、胸が高鳴る。
だが、東条の口笛で落ち着きを取り戻した。
軽く走る。
その瞬間――
「うわ、凄いスピード……」
「迫力もある……!」
記者陣から驚嘆が漏れた。
戻ってきたルドルフは、涼しい顔で言う。
「うん、悪くない」
堂々とした態度は、不遜にすら見える。
「どうですか。いいでしょう。春は精神的に不安定な部分もありましたが、今は何ら問題ありません」
東条の言葉に、栗東の記者が鼻を鳴らす。
「なんや、えらい気取った兄ちゃんやな」
だが、ニシノライデンのトレーナーは目を丸くした。
「あれが……クラシックで戦うウマ娘の姿なんか」
驚くのも当然だった。
ルドルフの身体は、すでに歴戦のシニア級。
研ぎ澄まされた体つきで、バランスは完璧。
「東条さん……ここまで仕上げてきはったんか」
褒められた東条は、とぼけて空を仰いだ。
「ええ、仕上がりは上々です。あとは呼吸を整えて、落ち着いて走らせるだけですよ」
「……そ、そうでっか」
相手は呆気に取られた。
「やっぱり……東条トレーナーの手腕は別格やな」
その横で、黒田と呼ばれた後輩トレーナーが、先輩から「参考にしろ」と指導を受けていた。