皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その14 三冠に向けて(PART1)──西へ向かって

一日一日、菊花賞が近づいてくる。

秋の天皇賞で敗れたカツラギエースが悔しさのあまりマルゼンスキーを頼ったことなど、シンボリルドルフはまだ知らない。ビゼンニシキの事故は録画で確認したが、怪我の予後は不明のままだ。気持ちとしては、見舞いに行きたい。

だが今、彼女が最も集中すべきは他者の動向ではない。

――己の走り、ただそれだけだ。

ルドルフのトレーニングは、驚くほど順調だった。ニシノライデンが「来ないでくれ」と祈った願いは、神に届く気配すらない。

トレセン学園のコース。念入りな準備運動を終え、ルドルフはキャンターで軽やかに駆け出す。今日の併走相手はシリウスシンボリだ。

「はぁ……走るっきゃないんだよなぁ」

シリウスが愚痴をこぼす。やる気があるのかないのか、判然としない声だ。

ルドルフはその背中を軽く叩いた。

「ほれ、行くぞ!」

「ああっ、分かってるって!」

嫌がるように見せかけて、シリウスは勢いよく飛び出した。手足の伸びは良く、若さの弾力がある。

脇ではスピードシンボリがストップウォッチを片手に、シリウスの悪態を楽しむように口元を緩めていた。

「さて、未来のダービーウマ娘を手合わせするか」

ルドルフが軽く挑発すると、シューズが大地を蹴り上げる。

瞬く間に一ハロン15秒のペースは14秒へと加速した。

1000メートル標識。先行していたシリウスが、偉大な先輩を待ち受けるように前を走る。

ルドルフは外からバ体を併せ、励ますように速度を上げた。

内のシリウスは必死の形相で食い下がる。

その姿に配慮したのか、あるいは叱咤したのか――ルドルフはシリウスと並んだまま、同時にゴールへ飛び込んだ。

「初めて65秒を切ったね、トレーナー」

ストップウォッチを止めたスピードシンボリが、隣の東条へ声をかける。

クールダウンに入ったルドルフの背中を、二人は静かに見つめた。

「また成長したようです。もう、いっぱしのシニアですね」

東条は静かに語る。

「いいトレーニングでしたね」

声をかけてきたのは、笑顔の女性記者だった。

東条は鼻を高くして応じる。

「プランに寸分の狂いもありません。これで仕上がるでしょう」

レースは走ってみなければ分からない――そう前置きしつつ、

「まあ、負けないでしょう」

と、さらりと言い切った。

「動きはパーフェクトですね。精神面も大人になっていますし」

記者も舌を巻く。

「うん、物見遊山としゃれこみますよ」

「その意味は?」

「スピードシンボリとゴルフに行きます」

東条はクラブを握るポーズをし、右肩からスイングしてみせた。

レース前日に宇治山田のカントリークラブでラウンドするという。

その自信満々の表情に、記者は圧倒される。

ただ一人、シンボリルドルフだけが、東条とスピードのゴルフ談義にむっつりとしていた。

 

十月三十日の夜。

ルドルフは車で京都へ向かうことになった。借りたのはドイツ製の高級リムジン。東条トレーナーと石上サブトレーナーが同乗する。

大安吉日の早朝に京都入りする計算だ。

合理主義の東条にしては珍しい“ゲン担ぎ”。

――史上初の無敗の三冠ウマ娘を誕生させたい。

その祈りが、静かに車内に満ちていた。

出発時、和服姿のスピードシンボリが、シリウス、ペガサス、イズモらを従えて見送りに立った。

「じゃあ、行ってきます」

冬制服のルドルフは、普段と変わらぬ落ち着きで後部座席に座る。

エンジンがかかり、車は静かに動き出した。

高速道路を西へ。

エンジンの単調な音が、眠気を誘う。

石上は舟を漕ぎ、ルドルフもまぶたが重くなる。

ふと目を覚ますと、東条が眠らずに外を見ていた。

柔らかな表情で、静かに語り出す。

「サブトレーナーの頃な。スピードシンボリが海外遠征から帰る時、一緒に寄り添ったのを思い出したよ」

ルドルフの耳がピクリと動く。

「本当ですか?」

頬が少し膨らむ。

そして、東条の腕を掴み、肩に顔を寄せた。

「今は、私のトレーナーさんです」

拗ねたような声音。

東条は優しく髪を梳き、頭を撫でた。

二人はそのまま、星空の下を走り抜けていった。

 

十月三十一日、大安吉日。

早朝、京都レース場に到着したルドルフは、軽くあくびをした。

東条が車を降りると、顔を引きつらせる。

――取材陣が、すでに待ち構えていた。

「東条さん、彼女に変わりありませんかいな?」

春のダービー以来の顔ぶれが、親しげに声をかける。

「問題ないですね」

東条は淡々と答えたが、その表情には複雑な影があった。

石上は、その本心を察する。

(本当は……ルドルフを西下させたくなかったんだ)

ジャパンカップで世界の強豪と戦わせたい。

それが東条の本音だ。

だが、彼女のために最善を選ぶなら――三冠を目指すべきだ。

セントライト記念後、凱旋門賞は回避した。

菊花賞の後、中一週でジャパンカップに挑む予定だが、本音を言えば「菊をスキップしてJCに全力で挑ませたい」のだ。

「さて、新幹線で来るスピードシンボリと合流しますか」

東条、スピード、石上は、これから十日間、宇治に宿を取る。

淀までは電車で三十分。

ゴルフも近隣で楽しむ予定だ。

――三冠の重圧を背負う関係者にも、気分転換は必要だった。

 

初めての京都レース場。

ルドルフは学園の赤ジャージに着替え、古都のターフに降り立つ。

初見のコースに、胸が高鳴る。

だが、東条の口笛で落ち着きを取り戻した。

軽く走る。

その瞬間――

「うわ、凄いスピード……」

「迫力もある……!」

記者陣から驚嘆が漏れた。

戻ってきたルドルフは、涼しい顔で言う。

「うん、悪くない」

堂々とした態度は、不遜にすら見える。

「どうですか。いいでしょう。春は精神的に不安定な部分もありましたが、今は何ら問題ありません」

東条の言葉に、栗東の記者が鼻を鳴らす。

「なんや、えらい気取った兄ちゃんやな」

だが、ニシノライデンのトレーナーは目を丸くした。

「あれが……クラシックで戦うウマ娘の姿なんか」

驚くのも当然だった。

ルドルフの身体は、すでに歴戦のシニア級。

研ぎ澄まされた体つきで、バランスは完璧。

「東条さん……ここまで仕上げてきはったんか」

褒められた東条は、とぼけて空を仰いだ。

「ええ、仕上がりは上々です。あとは呼吸を整えて、落ち着いて走らせるだけですよ」

「……そ、そうでっか」

相手は呆気に取られた。

「やっぱり……東条トレーナーの手腕は別格やな」

その横で、黒田と呼ばれた後輩トレーナーが、先輩から「参考にしろ」と指導を受けていた。

 

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