皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
菊花賞の最終トレーニングは、八日朝に行われた。併走のメンバーはホッカイペガサスとイズモランド。いつもの仲良しトリオだ。
二人は、この日のためにわざわざ淀へ駆けつけていた。
「二人とも悪いな。ありがとう」
「礼には及ばないぜ。無敗の三冠ウマ娘の誕生を、拝めるんだしな」
ペガサスが胸を張れば、
「ううん、ルドルフちゃんと走れるだけで嬉しいよ」
イズモが柔らかく微笑む。
実は二人ともレース間近、今日のトレーニングが終われば、トレセン学園に急いで戻る身だ。
なるべく、普段に近い環境で。
そう、ルドルフのためにチームは最大限の努力をしていた。
東条の声が飛ぶ。
「ルドルフは好きなペースでいい。ペガサスとイズモは、ルドルフに合わせて」
号令とともに、三人はコースへ飛び出した。
並びはイズモランド、ホッカイペガサス、そして大外にルドルフ。向こう正面の七ハロン棒を過ぎたあたりで、ルドルフが早くもピッチを上げる。
だが、三人の併せは徐々に間隔が開き、外の二人が前へ出る形になった。
77.4―64.0―51.3秒。
直線に入ると、意外にもホッカイペガサスの脚が鈍る。
「!」
単走状態になったルドルフの集中が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「よし、今よっ!」
その隙を、内側のイズモランドが逃さない。
一杯に追われたイズモは、上がり38.4―12.1秒で、ルドルフに一バ身先着した。
「よし、ルドルフちゃんに勝った!」
嬉しさを隠しきれずに跳ねるイズモランド。
東条は肩をすくめ、穏やかに笑った。
「まあ、いい。トレーニングプラン通りだ」
当のルドルフは、まるで何事もなかったかのように涼しい顔をしていた。
翌九日、出走枠順が発表された。十八人立て、ルドルフは3枠5番。
記者たちが一斉に押し寄せる。
「枠順ですか? まあ、どこでもいいです。ただ、勝つだけですから」
あまりに素っ気ない返答に、場が白ける。
それを察したルドルフは、少しだけ口角を上げた。
「……いい枠だと思いますよ。縁起がいい」
「ほう、どんなところが?」
「万緑叢中紅一点」
緑を基調としたシンボリカラーに、赤帽子が映える――そういう意味だ。
「意味は?」
「万緑叢中の白路を辿れば紅一点に至る。唐詩です。孤高の理想を掲げる者の姿を詠んだものですよ」
事実上の“無敗の三冠宣言”だった。
記者たちは「ほう」「実にご立派」「博学ですねぇ」と感嘆し、ルドルフは満足げに目を細めた。
十一月十日、払暁。
前日の時雨が残り、芝の葉先に雫が光る。
太陽がもう一度沈み、再び昇れば、いよいよクラシック最終戦――菊花賞だ。
京都レース場の本バ場で、最後の追い切りが行われる。
東条、石上、スピードシンボリが宇治の宿から駆けつけた。
コース入り前、ルドルフはスマホを確認する。
(ビゼンニシキからのLANE……)
内容を開こうとした瞬間、東条の声がかかる。
「ルドルフ、単走でサッと行ってこい」
「分かりました」
関係者が見守るなか、ルドルフは静かに走り出した。
目には闘志が宿るが、動きはあくまで自制の効いたもの。
62.0―45.0―14.4秒。
完璧な“仕上がり確認”だった。
「ほぉ……」
スピードシンボリが陽光を遮りながら、深く息を吐く。
「ルドルフさん、絶好調じゃないですか!」
石上が興奮気味に声を上げる。
「まさに、人事を尽くして天命を待つ、だな」
東条も満足げに頷いた。
ルドルフが戻ってくる。
静まり返る三人に、軽く笑みを浮かべて声をかけた。
「どうしました? 安心立命の境地で遊んでいるように見えますが」
「無敗の三冠ウマ娘、もう確実ですね」
珍しく石上が軽口を叩く。
「そうなるよう、精進します」
ルドルフの返答は、いつになく素直だった。
そこでスピードシンボリが、ふと過去を語り始める。
「私はね、菊花賞で鼻差の二着だった」
「そんなこともあったなぁ」
東条が懐かしむ。
「身体で言えば、ルドルフはダービーの時点で私のシニアレベルに達していた」
「スーさんはステイヤーだから細身なんだよ」
「そのルドルフが、春よりさらに強くなっている。精神面もだ。3000なんて関係ない」
強気の言葉が続く。
だが東条は、どこか落ち着かない表情を見せた。
「……でも、正直、怖くもあるんだよ」
六つの視線が集中する。
「体調も良く、負ける要素が見当たらない。絶好調だ。だからこそ――未来には来てほしくない」
ルドルフの表情が強張る。
東条は続けた。
「ルドルフは鋭敏だ。デキがピークの時ほど、危うい。姉のシンボリフレンドもそうだった。あんな思いは、もうさせたくない」
スピードシンボリが、東条の背中を叩く。
「変なこと言わないの。あなた、私と海外遠征した時、どんなに苦しくても弱音なんて吐かなかったじゃない」
「寄る年波なのかねぇ……」
「じじくさいわよ」
軽口が飛び交い、空気が和らぐ。
「あと一日。URAの歴史を塗り替えるウマ娘との縁を、大切にしましょ」
「そうだな。もうひと踏ん張りだ」
「はい、ベストを尽くします。東条トレーナー!」
ルドルフが右手を高く掲げる。
そのまま固まり、次の瞬間、照れたように笑い出した。
スピードも石上もつられて笑う。
淀のターフに、三人の笑い声が響き渡る。
池の白鳥が驚いて羽ばたくほどに。
そしてルドルフは、ふとスマホのLANEを思い出す。
(……これから、宇治へ会いに行くとするか)
ビゼンニシキからの呼び出し。
ルドルフは、目立たぬようにそっと京都レース場を後にした。