皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その14 三冠に向けて(PART3)──宇治・大吉山にて

「本当に、来たのね」

ビゼンニシキは、腰に手を当てて、呆れたように、しかしどこか安堵を滲ませてルドルフを見た。

夕闇に沈む宇治の小径――さわらびの道。その薄明の中で、彼女の影は細く長く伸びている。

「君に、誘われたから……」

叱られたシンボリルドルフは、耳を前に倒し、しょんぼりと肩を落とした。

冬制服の襟元にかかったコートの毛が、夕闇の風にふわりと揺れた。

周囲には平等院鳳凰堂、宇治神社、宇治上神社――古都の息遣いがそこかしこに漂う。

昼間なら観光客で賑わうこの道も、今は人影がない。

木立が重なり、光を吸い込み、世界はゆっくりと“夜”へと沈んでいく。

まるで、二人だけが取り残されたようだった。

まさに“逢魔が時”の気配が満ちていた。

「明日、無敗の三冠に挑む主役が、宿舎を抜け出すなんて……」

自分で呼び出しておきながら、ビゼンの口調は辛辣だった。

だが、その声の奥にある震えを、ルドルフは気づかないふりをした。

「……前代未聞よ。G1勝ちのウマ娘として、自覚が足りなさすぎるわ!」

「やるべきことは、やっている!」

少し意地になったルドルフは、両手を広げて反論した。

その仕草があまりに子どもっぽくて、ビゼンは思わず吹き出しそうになる。

「はいはい。分かったわよ」

くるりと背を向け、歩き出す。

「あっ……」

その背中を追うように、弱々しく伸ばされたルドルフの右手は、空を掴むだけだった。

ビゼンは振り返り、舌をちょこんと出しておどけてみせると、

ルドルフも思わず頬を緩めた。

その瞬間、二人の間に流れていた緊張がふっとほどけた。

「じゃあ、行くわよ」

ビゼンはルドルフの手を掴む。

その瞬間、ルドルフの肩がびくりと震えた。

手のひらに伝わる温度は、思っていたよりも弱く、細く、頼りなかった。

ビゼンは痛めた右脚を隠すように、平然と歩き出す。

そして握った手をたぐり寄せるように、ぐいと引っ張る。

つまずきかけたルドルフは、慌ててバランスを取りながらついていく。

宇治の空は、夕暮れの名残をわずかに抱えたまま、夜へと沈み込もうとしていた。

さわらびの道に差し込む光は、もう橙ではなく、紫と藍の境目のような色をしている。木々の葉はその光を受けて、まるで水墨画のように輪郭だけを浮かび上がらせていた。

舗装のない坂道へと入り、木々はさらに鬱蒼とし、闇は深まる。

ルドルフは、ビゼンの右脚がわずかに遅れるのを見逃さなかった。

そのたびに痛々しい心配が浮かぶ。

(……本当に、大丈夫なのか?)

だが、ビゼンは振り返らない。

ただ、前へ。

その背中は、どこか“決意”の色を帯びていた。

そして痛めた右脚をかばうような歩き方が、ルドルフにはどうしても気になった。

「なあ、どこへ行くんだい?」

「大吉山」

「だいきちやま?」

正式名称は仏徳山。標高一三一メートル。

宇治を一望できる、地元では有名なハイキングコースだという。

しかし、ビゼンはそれ以上語らない。

ただ黙々と、つづら折りの山道を登っていく。

ルドルフは、珍しく心細さを覚えていた。

頼りは、握られた手の温もりだけ。

 

坂道を登りながら、ルドルフはふと、昔のことを思い出していた。

――初めてビゼンと併走した日のこと。

まだ互いに幼さが残っていた頃、ビゼンはルドルフの前に立ちはだかり、胸を張って言った。

『あんた、強いけど……負けないからね!』

その言葉は、挑戦状であると同時に、友情の始まりでもあった。

――ダービーの後。

ビゼンは悔し涙を拭いながら、それでも笑って言った。

『あんたは、あんたの道を行きなさい。私は私の道で、絶対に追いつくから』

その言葉が、どれほどルドルフを支えてきたか。

だからこそ、今のビゼンの歩みが痛々しくて仕方がなかった。

――半月前のスワンステークス。

ビゼンは新たな道を求めて短距離路線へ挑んだが、最下位。

そして脚を痛めた。

その彼女が、なぜ夜の山へ?

前を行くビゼンの右脚は、やはりどこかぎこちない。

その視線に気づいたのか、ビゼンがふいに立ち止まった。

手が離れる。

温もりが消える。

振り返ったビゼンの表情は、能面のように無表情だった。

闇に溶けてしまいそうなほど、儚い。

「この前のレースで、故障してしまったわ」

十月二十八日のスワンステークス。

ルドルフも録画で見たが、その後の顛末は知らなかった。

 

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