皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
「本当に、来たのね」
ビゼンニシキは、腰に手を当てて、呆れたように、しかしどこか安堵を滲ませてルドルフを見た。
夕闇に沈む宇治の小径――さわらびの道。その薄明の中で、彼女の影は細く長く伸びている。
「君に、誘われたから……」
叱られたシンボリルドルフは、耳を前に倒し、しょんぼりと肩を落とした。
冬制服の襟元にかかったコートの毛が、夕闇の風にふわりと揺れた。
周囲には平等院鳳凰堂、宇治神社、宇治上神社――古都の息遣いがそこかしこに漂う。
昼間なら観光客で賑わうこの道も、今は人影がない。
木立が重なり、光を吸い込み、世界はゆっくりと“夜”へと沈んでいく。
まるで、二人だけが取り残されたようだった。
まさに“逢魔が時”の気配が満ちていた。
「明日、無敗の三冠に挑む主役が、宿舎を抜け出すなんて……」
自分で呼び出しておきながら、ビゼンの口調は辛辣だった。
だが、その声の奥にある震えを、ルドルフは気づかないふりをした。
「……前代未聞よ。G1勝ちのウマ娘として、自覚が足りなさすぎるわ!」
「やるべきことは、やっている!」
少し意地になったルドルフは、両手を広げて反論した。
その仕草があまりに子どもっぽくて、ビゼンは思わず吹き出しそうになる。
「はいはい。分かったわよ」
くるりと背を向け、歩き出す。
「あっ……」
その背中を追うように、弱々しく伸ばされたルドルフの右手は、空を掴むだけだった。
ビゼンは振り返り、舌をちょこんと出しておどけてみせると、
ルドルフも思わず頬を緩めた。
その瞬間、二人の間に流れていた緊張がふっとほどけた。
「じゃあ、行くわよ」
ビゼンはルドルフの手を掴む。
その瞬間、ルドルフの肩がびくりと震えた。
手のひらに伝わる温度は、思っていたよりも弱く、細く、頼りなかった。
ビゼンは痛めた右脚を隠すように、平然と歩き出す。
そして握った手をたぐり寄せるように、ぐいと引っ張る。
つまずきかけたルドルフは、慌ててバランスを取りながらついていく。
宇治の空は、夕暮れの名残をわずかに抱えたまま、夜へと沈み込もうとしていた。
さわらびの道に差し込む光は、もう橙ではなく、紫と藍の境目のような色をしている。木々の葉はその光を受けて、まるで水墨画のように輪郭だけを浮かび上がらせていた。
舗装のない坂道へと入り、木々はさらに鬱蒼とし、闇は深まる。
ルドルフは、ビゼンの右脚がわずかに遅れるのを見逃さなかった。
そのたびに痛々しい心配が浮かぶ。
(……本当に、大丈夫なのか?)
だが、ビゼンは振り返らない。
ただ、前へ。
その背中は、どこか“決意”の色を帯びていた。
そして痛めた右脚をかばうような歩き方が、ルドルフにはどうしても気になった。
「なあ、どこへ行くんだい?」
「大吉山」
「だいきちやま?」
正式名称は仏徳山。標高一三一メートル。
宇治を一望できる、地元では有名なハイキングコースだという。
しかし、ビゼンはそれ以上語らない。
ただ黙々と、つづら折りの山道を登っていく。
ルドルフは、珍しく心細さを覚えていた。
頼りは、握られた手の温もりだけ。
坂道を登りながら、ルドルフはふと、昔のことを思い出していた。
――初めてビゼンと併走した日のこと。
まだ互いに幼さが残っていた頃、ビゼンはルドルフの前に立ちはだかり、胸を張って言った。
『あんた、強いけど……負けないからね!』
その言葉は、挑戦状であると同時に、友情の始まりでもあった。
――ダービーの後。
ビゼンは悔し涙を拭いながら、それでも笑って言った。
『あんたは、あんたの道を行きなさい。私は私の道で、絶対に追いつくから』
その言葉が、どれほどルドルフを支えてきたか。
だからこそ、今のビゼンの歩みが痛々しくて仕方がなかった。
――半月前のスワンステークス。
ビゼンは新たな道を求めて短距離路線へ挑んだが、最下位。
そして脚を痛めた。
その彼女が、なぜ夜の山へ?
前を行くビゼンの右脚は、やはりどこかぎこちない。
その視線に気づいたのか、ビゼンがふいに立ち止まった。
手が離れる。
温もりが消える。
振り返ったビゼンの表情は、能面のように無表情だった。
闇に溶けてしまいそうなほど、儚い。
「この前のレースで、故障してしまったわ」
十月二十八日のスワンステークス。
ルドルフも録画で見たが、その後の顛末は知らなかった。