皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
ビゼンニシキは淡々と語る。
大怪我で救急搬送、即手術。
今日まで安静。
本来なら歩けるはずもない時期だが、医師に無理を言って外出許可をもぎ取ったこと。
病院からここまではタクシーで来たこと。
シンボリルドルフは、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
「それはなにより。でも、退院ではないんだろ。門限とか、ないのかい?」
「本来は、病院の庭を散策する程度よ」
ビゼンは遠くを見つめ、栗色の髪を払った。
「いいのかい?」
「今日、この時、ここで、あなたと話したかったの」
その笑顔は柔らかいが、どこか壊れそうだった。
ルドルフは、何と返せばいいのか分からなかった。
「行きましょ」
ビゼンは再び歩き出す。
ルドルフも黙ってついていく。
山道は静まり返り、二人の呼吸だけが響く。
木々は鬱蒼とし、夕闇はすでに夜の色を帯びている。
ビゼンの右脚は、わずかに遅れ、わずかに震え、わずかに軋んでいた。
息は次第に荒くなり、肩が揺れる。
それでも彼女は止まらない。
止まることを許さないように、前だけを見て歩く。
ルドルフはその背中を見つめながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
――ビゼンは、こんなにも強かっただろうか。
いや、強くなったのだ。
怪我をして、夢を断たれ、それでも前へ進もうとしている。
その姿は、かつてのビゼンよりも、ずっと大人で、ずっと美しかった。
やがて道が開け、山頂の東屋が見えた。
二人は最後の力を振り絞ってそこへ向かう。
「ああ、疲れた……」
ビゼンは尻から崩れ落ちるようにベンチへ倒れ込んだ。
ルドルフも隣に腰を下ろす。
「帰りは私がおぶっていくよ、ビゼン」
「ふふ、ルドルフの背中は大きそうね」
二人は眼下の景色を見下ろした。
森の向こうに宇治川が銀の帯のように流れ、街の灯りが宝石のように瞬いている。
風が頬を撫でる。
冷たいのに、どこか優しい風だった。
しばし、言葉はなかった。
ただ、静かな時間が流れた。
「あの……」
「その……」
同時に声が重なり、二人は顔を見合わせる。
視線がぶつかり、そっと逸らす。
ビゼンは下を向いた。
栗色の髪が頬に落ち、震える唇は紫がかっている。
「ルドルフ……私ね、右脚、浅屈腱断裂だって」
その言葉は、夜気よりも冷たく、重かった。
ルドルフは息を飲む。
ウマ娘にとって、それが何を意味するか――痛いほど知っている。
ビゼンは続けた。
怪我の痛み、手術の恐怖、復帰への希望、そして絶望。
病床で考え続けた日々。
「まあ、結局、生きるしかないわけで」
軽口を挟みつつも、声は震えていた。
「それなら、ウマ娘として。シンボリルドルフと競り合ったライバルとして」
ビゼンはルドルフの瞳をまっすぐ見つめる。
「私は、後進育成に携わるわ」
その宣言は、芯のある強さを帯びていた。
「ルドルフ。あなたも、いつかは故障して、引退する」
「いつかは引退する、のだけにしてくれないか?」
「そうね。五体無事に引退がいいわよね」
二人はくすりと笑い合う。
「なら私も、先輩として皆を指導しよう」
「ルドルフは、やんちゃな後輩の面倒見そうねぇ」
「活発すぎる娘さんに手を焼くのが、キミじゃないかね」
鼻先を突き合わせ、笑いが弾ける。
「マイラーの私と、中距離のあなた。教え子たちが激突するとすれば」
「府中の2000、秋の天皇賞だな」
「約束」
ビゼンがそっとルドルフの頬にキスを落とした。
ルドルフは驚き、頬に手を当てる。
そして、
「ああ、分かった」
ルドルフはビゼンの肩を抱き寄せた。
月光が二人を照らす。
道半ばで降りた者にも、どうか幸あれ――そう祈るように。
「絶対だからね」
ビゼンはもう一度、軽くキスをして天を仰ぐ。
その美しい横顔を月が照らした瞬間――
一筋の涙が、頬を伝った。
右から、左から、次々と。
止めようと首を振るが、涙は止まらない。
地面に落ち、黒い染みを広げていく。
「走りたかった……」
その声は、風に溶けるほど弱かった。
「走りたかったよぉ。ルドルフと、もう一度だけでいいから!」
ビゼンはルドルフの腕を掴み、揺らし、泣き叫ぶ。
「走りたかったっつ!!」
その叫びは、山頂に木霊した。
ルドルフはただ、受け止めるしかなかった。
ビゼンの栗色の髪を、そっと撫でながら。
十一月の冷たい夜気の中、
抱き合う体温だけが、二人をつなぎ止めていた。