皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その14 三冠に向けて(PART4)──最愛のビゼンニシキ

ビゼンニシキは淡々と語る。

大怪我で救急搬送、即手術。

今日まで安静。

本来なら歩けるはずもない時期だが、医師に無理を言って外出許可をもぎ取ったこと。

病院からここまではタクシーで来たこと。

シンボリルドルフは、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。

「それはなにより。でも、退院ではないんだろ。門限とか、ないのかい?」

「本来は、病院の庭を散策する程度よ」

ビゼンは遠くを見つめ、栗色の髪を払った。

「いいのかい?」

「今日、この時、ここで、あなたと話したかったの」

その笑顔は柔らかいが、どこか壊れそうだった。

ルドルフは、何と返せばいいのか分からなかった。

「行きましょ」

ビゼンは再び歩き出す。

ルドルフも黙ってついていく。

山道は静まり返り、二人の呼吸だけが響く。

木々は鬱蒼とし、夕闇はすでに夜の色を帯びている。

ビゼンの右脚は、わずかに遅れ、わずかに震え、わずかに軋んでいた。

息は次第に荒くなり、肩が揺れる。

それでも彼女は止まらない。

止まることを許さないように、前だけを見て歩く。

ルドルフはその背中を見つめながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。

――ビゼンは、こんなにも強かっただろうか。

いや、強くなったのだ。

怪我をして、夢を断たれ、それでも前へ進もうとしている。

その姿は、かつてのビゼンよりも、ずっと大人で、ずっと美しかった。

やがて道が開け、山頂の東屋が見えた。

二人は最後の力を振り絞ってそこへ向かう。

 

「ああ、疲れた……」

ビゼンは尻から崩れ落ちるようにベンチへ倒れ込んだ。

ルドルフも隣に腰を下ろす。

「帰りは私がおぶっていくよ、ビゼン」

「ふふ、ルドルフの背中は大きそうね」

二人は眼下の景色を見下ろした。

森の向こうに宇治川が銀の帯のように流れ、街の灯りが宝石のように瞬いている。

風が頬を撫でる。

冷たいのに、どこか優しい風だった。

しばし、言葉はなかった。

ただ、静かな時間が流れた。

「あの……」

「その……」

同時に声が重なり、二人は顔を見合わせる。

視線がぶつかり、そっと逸らす。

ビゼンは下を向いた。

栗色の髪が頬に落ち、震える唇は紫がかっている。

「ルドルフ……私ね、右脚、浅屈腱断裂だって」

その言葉は、夜気よりも冷たく、重かった。

ルドルフは息を飲む。

ウマ娘にとって、それが何を意味するか――痛いほど知っている。

ビゼンは続けた。

怪我の痛み、手術の恐怖、復帰への希望、そして絶望。

病床で考え続けた日々。

「まあ、結局、生きるしかないわけで」

軽口を挟みつつも、声は震えていた。

「それなら、ウマ娘として。シンボリルドルフと競り合ったライバルとして」

ビゼンはルドルフの瞳をまっすぐ見つめる。

「私は、後進育成に携わるわ」

その宣言は、芯のある強さを帯びていた。

「ルドルフ。あなたも、いつかは故障して、引退する」

「いつかは引退する、のだけにしてくれないか?」

「そうね。五体無事に引退がいいわよね」

二人はくすりと笑い合う。

「なら私も、先輩として皆を指導しよう」

「ルドルフは、やんちゃな後輩の面倒見そうねぇ」

「活発すぎる娘さんに手を焼くのが、キミじゃないかね」

鼻先を突き合わせ、笑いが弾ける。

「マイラーの私と、中距離のあなた。教え子たちが激突するとすれば」

「府中の2000、秋の天皇賞だな」

「約束」

ビゼンがそっとルドルフの頬にキスを落とした。

ルドルフは驚き、頬に手を当てる。

そして、

「ああ、分かった」

ルドルフはビゼンの肩を抱き寄せた。

月光が二人を照らす。

道半ばで降りた者にも、どうか幸あれ――そう祈るように。

「絶対だからね」

ビゼンはもう一度、軽くキスをして天を仰ぐ。

その美しい横顔を月が照らした瞬間――

一筋の涙が、頬を伝った。

右から、左から、次々と。

止めようと首を振るが、涙は止まらない。

地面に落ち、黒い染みを広げていく。

「走りたかった……」

その声は、風に溶けるほど弱かった。

「走りたかったよぉ。ルドルフと、もう一度だけでいいから!」

ビゼンはルドルフの腕を掴み、揺らし、泣き叫ぶ。

「走りたかったっつ!!」

その叫びは、山頂に木霊した。

ルドルフはただ、受け止めるしかなかった。

ビゼンの栗色の髪を、そっと撫でながら。

十一月の冷たい夜気の中、

抱き合う体温だけが、二人をつなぎ止めていた。

 

 

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