皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
その晩、シンボリルドルフは京都レース場の宿泊所へ戻った。門限などとうに過ぎている。裏口で警備員を拝み倒し、足音を忍ばせて部屋へ戻った。
一緒に逗留しているスピードシンボリは、何も言わなかった。――いや、知らないふりをしてくれたのだ。
ベッドに横たわる。だが、眠れない。
春にあれほど競り合った相手が別路線へ進み、そして怪我でトゥインクルレースを去る。
寝返りを打ち、天井を仰ぐ。
「……不思議だ」
なぜ自分だけが、無敗の三冠へ挑もうとしているのか。
なぜ、自分だけが“選ばれてしまった”のか。
眠れぬまま、思考は悪い方向へ転がる。
――これはビゼンニシキの復讐なのでは?
自分の不幸を語り、ルドルフを動揺させるために呼び出したのでは?
そんなはずはない。
ビゼンは実直で、真面目で、嘘をつけるような娘ではない。
ただ、応援したかっただけ。
ただ、自分のこれからを知ってほしかっただけ。
……それでも、胸の奥に重い石が沈んだままだった。
眠れない夜は、まんじりともせず過ぎていく。
だが運命は、シンボリルドルフというウマ娘を揺さぶり起こす。
その因果が姿を現すまで、あと少しだった。
東条トレーナーは宇治のホテルでベッドに就いていた。
明日は本番。やるべきことはすべてやった。
セントライト記念をレコードで楽勝し、その後も順調に調整を重ねてきた。
秋を迎えたシンボリルドルフは、もはやシニア級をも凌駕するほどの心身の成長を遂げている。
――史上初の無敗三冠。
それは、ほぼ確実。
だが、東条は意外なほど冷静だった。
ダービートレーナーとなって以来、核のような自信が胸に宿り、先が読めるようになった。
恐れが消え、達観したような心境すらあった。
そんな夢見心地の最中――
部屋の外で、人の気配がした。
武芸者の修行書を思い出す。
宮本武蔵は眠っていても霜の落ちる音を聞き分けたという。
努力は裏切らない。
日々の鍛錬が道を拓く。
――まさにルドルフの歩みだ。
だが、足音は次第に速くなり、
ドンッ、と乱暴なノックが響いた。
「トレーナーさん、起きていますか!」
東条は跳ね起きた。
スマホがチカチカと光り、着信とメールが山のように届いている。
時刻は丑三つ時を過ぎていた。
悪鬼が跋扈すると言われた不吉な時間帯だ。
こんな刻限に、サブトレーナーが夜討ちをかけてくる理由など――ひとつしかない。
ルドルフの事故。
胸が冷たくなる。
だが、妙に落ち着いてもいた。
「こんな深夜に、何かね?」
ドアを開けると、石上が蒼白な顔で立っていた。
「ルドルフさんが……急に苦しみ出して。救急医を呼びました」
京都レース場の出張ルームでの急病――。
「今、スピードさんが付き添っています」
「症状は?」
「胃痙攣だそうです」
「……そうか」
東条の声が低く沈む。
石上はスマホを乱暴に操作する。
「タクシーが……全然捕まりません」
深夜の郊外。
無為に時間が過ぎていく。
焦りだけが胸を焼く。
ようやくタクシーが見つかったが、到着は未定。
待っていられず、二人はホテルを飛び出した。
エレベーターは遅い。
玄関で、来る当てのない車を待つ。
缶コーヒーのブラックが、苦さだけを残した。
「ルドルフは、鋭敏だからな……」
東条が呟く。
「絶好調だと、ちょっとしたことで調子が変わってしまう」
石上も肩を落とす。
永遠のような時間の後、
ようやくヘッドライトが闇を裂いた。
タクシーに飛び乗る。
「病院へ急いで!」
タイヤが悲鳴を上げ、京都の深夜を駆け抜けた。
東条は窓に額を押し当て、苦い思いを噛みしめる。
(感の強いルドルフは繊細だ。分かっていたはずなのに……防げなかった)
静かなミッドナイト。
道の両脇から悪鬼たちが嘲笑っているように感じた。
朝は近い。
それは鬼どもの断末魔か。
「ルドルフ、大丈夫か?」
個室のドアを開けると、薄暗い部屋にスピードシンボリが座っていた。
猫背をびくりと上げ、疲れ切った顔で振り向く。
「申し訳ないです……私がついていながら」
東条は両手を前に出し、連帯責任だと示した。
布団が揺れ、ルドルフがゆっくりと起き上がる。
白い甚平姿の少女が、固い微笑を浮かべた。
「大したことは、ありません」
「ルナ……無理しなくていいのよ」
スピードの声は優しいが、疲労が滲んでいた。
「ご心配をおかけしました。横になったら楽になりました」
ルドルフは髪を払って微笑む。
「ちょっと、緊張してしまったのかもしれません」
その言葉で東条は悟った。
――原因はストレスだ。
無敗の三冠という重圧。
誰より強く、誰より賢い彼女だからこそ、抱え込んでしまったのだ。
「でも、トレーナーさんの顔を見て、ほっとしました」
ルドルフはケロリと笑った。
朝日が差し込み、頬に色が戻る。
「東条さんが来てから、血色がよくなってきたわね」
スピードの声に、わずかな嫉妬が混じる。
石上はどう反応すべきか分からず固まった。
「だって、私がトレーニングしているのに、皆で楽しそうにゴルフなんて……」
ルドルフは口を尖らせる。
大人びた少女が、心を許した相手には子どものような表情を見せる。
大人三人は顔を見合わせ、自然と頬が緩んだ。
「そんなことないわよぉ」
「そうですよ」
ゴルフが原因ではない。
だが、今は追及しない。
「ま、ルドルフが無事なら何よりだ」
東条が目を細める。
その時、ノックが響いた。
白衣の女医が入室する。
救急対応をした医師だ。
「なんだか元気そうですね」
脈、腹部、聴診器。
簡単な問診に、ルドルフはしっかりと答える。
「不思議ですね。痙攣は治まっているようです」
「では、今日は走れるんですね?」
「精密検査の上ですが……まあ、いけるでしょう」
「よかったぁ!」
スピードが抱きつき、ルドルフは涙目で抗議する。
部屋は朝日で明るくなり、輪郭がはっきりしていく。
「ルドルフさん、走れるんですね!」
「早く検査しよう!」
男二人が振り返る。
だが、ルドルフの甚平の衿がはだけ、白い下着が覗いていた。
ルドルフは真っ赤になり、胸を押さえて睨みつける。
「じゃあ、先生、よろしくお願いします」
東条は逃げるように部屋を出た。
石上も続く。
「殿方だったのね」
女医は悪びれもせず言い放つ。
「検査は十五分後にしますね」
ルドルフは羞恥を隠すように枕へ飛び込んだ。
一時間後、検査結果が出た。
神様はルドルフを見放してはいなかった。
そして、ルドルフは――
誰のせいにもせず、
ただ静かに、菊花賞へ挑む覚悟を固めた。