皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その14 三冠に向けて(PART5)──生みの苦しみ

その晩、シンボリルドルフは京都レース場の宿泊所へ戻った。門限などとうに過ぎている。裏口で警備員を拝み倒し、足音を忍ばせて部屋へ戻った。

一緒に逗留しているスピードシンボリは、何も言わなかった。――いや、知らないふりをしてくれたのだ。

ベッドに横たわる。だが、眠れない。

春にあれほど競り合った相手が別路線へ進み、そして怪我でトゥインクルレースを去る。

寝返りを打ち、天井を仰ぐ。

「……不思議だ」

なぜ自分だけが、無敗の三冠へ挑もうとしているのか。

なぜ、自分だけが“選ばれてしまった”のか。

眠れぬまま、思考は悪い方向へ転がる。

――これはビゼンニシキの復讐なのでは?

自分の不幸を語り、ルドルフを動揺させるために呼び出したのでは?

そんなはずはない。

ビゼンは実直で、真面目で、嘘をつけるような娘ではない。

ただ、応援したかっただけ。

ただ、自分のこれからを知ってほしかっただけ。

……それでも、胸の奥に重い石が沈んだままだった。

眠れない夜は、まんじりともせず過ぎていく。

だが運命は、シンボリルドルフというウマ娘を揺さぶり起こす。

その因果が姿を現すまで、あと少しだった。

 

東条トレーナーは宇治のホテルでベッドに就いていた。

明日は本番。やるべきことはすべてやった。

セントライト記念をレコードで楽勝し、その後も順調に調整を重ねてきた。

秋を迎えたシンボリルドルフは、もはやシニア級をも凌駕するほどの心身の成長を遂げている。

――史上初の無敗三冠。

それは、ほぼ確実。

だが、東条は意外なほど冷静だった。

ダービートレーナーとなって以来、核のような自信が胸に宿り、先が読めるようになった。

恐れが消え、達観したような心境すらあった。

そんな夢見心地の最中――

部屋の外で、人の気配がした。

武芸者の修行書を思い出す。

宮本武蔵は眠っていても霜の落ちる音を聞き分けたという。

努力は裏切らない。

日々の鍛錬が道を拓く。

――まさにルドルフの歩みだ。

だが、足音は次第に速くなり、

ドンッ、と乱暴なノックが響いた。

「トレーナーさん、起きていますか!」

東条は跳ね起きた。

スマホがチカチカと光り、着信とメールが山のように届いている。

時刻は丑三つ時を過ぎていた。

悪鬼が跋扈すると言われた不吉な時間帯だ。

こんな刻限に、サブトレーナーが夜討ちをかけてくる理由など――ひとつしかない。

ルドルフの事故。

胸が冷たくなる。

だが、妙に落ち着いてもいた。

「こんな深夜に、何かね?」

ドアを開けると、石上が蒼白な顔で立っていた。

「ルドルフさんが……急に苦しみ出して。救急医を呼びました」

京都レース場の出張ルームでの急病――。

「今、スピードさんが付き添っています」

「症状は?」

「胃痙攣だそうです」

「……そうか」

東条の声が低く沈む。

石上はスマホを乱暴に操作する。

「タクシーが……全然捕まりません」

深夜の郊外。

無為に時間が過ぎていく。

焦りだけが胸を焼く。

ようやくタクシーが見つかったが、到着は未定。

待っていられず、二人はホテルを飛び出した。

エレベーターは遅い。

玄関で、来る当てのない車を待つ。

缶コーヒーのブラックが、苦さだけを残した。

「ルドルフは、鋭敏だからな……」

東条が呟く。

「絶好調だと、ちょっとしたことで調子が変わってしまう」

石上も肩を落とす。

永遠のような時間の後、

ようやくヘッドライトが闇を裂いた。

タクシーに飛び乗る。

「病院へ急いで!」

タイヤが悲鳴を上げ、京都の深夜を駆け抜けた。

東条は窓に額を押し当て、苦い思いを噛みしめる。

(感の強いルドルフは繊細だ。分かっていたはずなのに……防げなかった)

静かなミッドナイト。

道の両脇から悪鬼たちが嘲笑っているように感じた。

朝は近い。

それは鬼どもの断末魔か。

 

「ルドルフ、大丈夫か?」

個室のドアを開けると、薄暗い部屋にスピードシンボリが座っていた。

猫背をびくりと上げ、疲れ切った顔で振り向く。

「申し訳ないです……私がついていながら」

東条は両手を前に出し、連帯責任だと示した。

布団が揺れ、ルドルフがゆっくりと起き上がる。

白い甚平姿の少女が、固い微笑を浮かべた。

「大したことは、ありません」

「ルナ……無理しなくていいのよ」

スピードの声は優しいが、疲労が滲んでいた。

「ご心配をおかけしました。横になったら楽になりました」

ルドルフは髪を払って微笑む。

「ちょっと、緊張してしまったのかもしれません」

その言葉で東条は悟った。

――原因はストレスだ。

無敗の三冠という重圧。

誰より強く、誰より賢い彼女だからこそ、抱え込んでしまったのだ。

「でも、トレーナーさんの顔を見て、ほっとしました」

ルドルフはケロリと笑った。

朝日が差し込み、頬に色が戻る。

「東条さんが来てから、血色がよくなってきたわね」

スピードの声に、わずかな嫉妬が混じる。

石上はどう反応すべきか分からず固まった。

「だって、私がトレーニングしているのに、皆で楽しそうにゴルフなんて……」

ルドルフは口を尖らせる。

大人びた少女が、心を許した相手には子どものような表情を見せる。

大人三人は顔を見合わせ、自然と頬が緩んだ。

「そんなことないわよぉ」

「そうですよ」

ゴルフが原因ではない。

だが、今は追及しない。

「ま、ルドルフが無事なら何よりだ」

東条が目を細める。

その時、ノックが響いた。

白衣の女医が入室する。

救急対応をした医師だ。

「なんだか元気そうですね」

脈、腹部、聴診器。

簡単な問診に、ルドルフはしっかりと答える。

「不思議ですね。痙攣は治まっているようです」

「では、今日は走れるんですね?」

「精密検査の上ですが……まあ、いけるでしょう」

「よかったぁ!」

スピードが抱きつき、ルドルフは涙目で抗議する。

部屋は朝日で明るくなり、輪郭がはっきりしていく。

「ルドルフさん、走れるんですね!」

「早く検査しよう!」

男二人が振り返る。

だが、ルドルフの甚平の衿がはだけ、白い下着が覗いていた。

ルドルフは真っ赤になり、胸を押さえて睨みつける。

「じゃあ、先生、よろしくお願いします」

東条は逃げるように部屋を出た。

石上も続く。

「殿方だったのね」

女医は悪びれもせず言い放つ。

「検査は十五分後にしますね」

ルドルフは羞恥を隠すように枕へ飛び込んだ。

一時間後、検査結果が出た。

神様はルドルフを見放してはいなかった。

そして、ルドルフは――

誰のせいにもせず、

ただ静かに、菊花賞へ挑む覚悟を固めた。

 

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