皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その15 菊花賞(前編)──無敗の三冠をかけて

翌十一月十一日、京都は冷たい雨に煙っていた。晩秋の湿った空気が淀のターフに薄い靄を垂らし、レース靴に勝負鉄を打つ乾いた音だけが、静まり返った場内に響く。

シンボリルドルフは、控室の椅子に腰掛けていた。東条と石上はレース直前の手続きで不在。昨夜のアクシデントの余韻が、さすがの彼女にも影を落としている。スピードシンボリは、あえて何も言わず、ただ静かに寄り添っていた。

そのとき、スマホが震えた。

「はい」

『おーい、ルドルフ! 元気か?』

ホッカイペガサスの声だ。ルドルフの表情が、ぱっと明るくなる。

『どうした、じゃないよ。ルドルフちゃん』

「イズモも一緒か」

電話越しの怒ったような声に、ルドルフは頭を掻いた。

『そう。二人で東京から応援するね。京都にいたかったけど、イズモはレース前でトレーニングだし』

『ペガサスちゃんなんかは昨日府中で走ったばかりだから、さすがに移動は控えるわよ』

ペガサスは三着だったらしい。悔しさを隠すように、明るく言葉を続ける。

『長々話してもアレだし、とにかく頑張れ!』

『テレビの前で、全力で応援してるからね!』

「……ありがとう」

通話が切れたあと、ルドルフはスマホに向かって小さく一礼した。

(……ありがたいな)

現地で声を枯らして応援したいはずだ。それでも、負担をかけまいと短い通話に留めた。

その気遣いが胸に沁みる。昨夜の悪夢の名残が、少しずつ薄れていく。

スピードシンボリが、うんうんと頷いた。

「いい仲間を持ったわね」

ルドルフは小さく笑った。

 

そして午後三時。雨は上がり、パドックには十八人のウマ娘が勝負服で揃い立つ。

ルドルフが姿を見せると、スタンドから大歓声が湧き上がった。

だが、彼女は微動だにしない。

引き締まった身体、沈着な脚運び。

その姿に、他のトレーナーたちから感嘆の声が漏れる。

「ウマ娘の理想形だな……」

やがて本バ場へ。

ルドルフは深く息を吸い、芝の匂いを胸いっぱいに満たした。

「これが……淀か」

向こう正面のポプラ並木、コースのなかにある池の水面。

中山とも府中とも違う、湿り気を帯びた独特の芝の香り。

その匂いが、いよいよ本番であることを告げていた。

彼女は二本の脚で大地を踏みしめ、動かなくなる。

挑戦者たちが準備運動で走るのを、ただ静かに睥睨した。

右手で首を軽く叩き、自らを鼓舞する。

「さあ、行くか」

ダッシュは鋭かった。

脚は滑らかにスライドし、昨夜の不安などどこかへ吹き飛んでいた。

スタート地点付近では、集合合図の黄旗が振られる。

ニシノライデン、スズパレードらライバルたちが、鋭い眼差しを向けてくる。

「今日はウチのホームやで」

「もう二着はいらない」

だが、ルドルフはバ耳東風。

頬を軽く叩き、静かに気力を乗せる。

 

午後三時三十五分。

八万人の観衆、一千万人の視線が画面越しに注がれる中、十八人がゲートに収まった。

三冠をかけた菊花賞――スタート。

ほぼ横一線。

ルドルフは胸を撫で下ろす。

「まずまずだな」

白帽子の逃げウマ娘がハナを切り、スズマッハが三番手。

ルドルフは中団前目、六番手付近。

(マッハは前か……)

三コーナーの坂を駆け上がり、降りる。

外から押し寄せるウマ娘たちをやり過ごし、ルドルフは後方の内側へと位置を落とした。

(……ゆっくり構えすぎたか?)

赤帽子が後方に沈む。

体調の変化が気になる。行き脚がつかないのは、そのせいか。

そのとき、ニシノライデンが動いた。

「ここで行かなんだら!」

ルドルフと同じ位置から、外へ持ち出してポジションを上げていく。

だが、ルドルフは動かない。

前を見据えたまま、沈黙していた。

(……ちょっと厳しいかもしれない)

珍しく弱気がよぎる。

 

スタンドがざわつき始めた。

先行タイプのルドルフが、中団にもいない。

どこを走っているのか分からない――その不安が観客を包む。

スタンドの一角、『チーム・シンボリルドルフ』も同じだった。

「ルドルフさんは、どこに……?」

石上が額に手を当て、前のめりになる。

東条が双眼鏡を構え、必死に赤帽子を探す。

「……いた」

「どこですか!?」

「後方バ群の内側だ。十三番手あたりだな」

石上が愕然とする。

スピードシンボリが、重い声で分析した。

「稍重のバ場……インを走ればスタミナを奪われる。中距離タイプのルドルフには厳しいわ」

跳ね上がる泥が、緑の勝負服を汚していく。

誇り高い皇帝の装いが、無情に染められていく。

「ルドルフ……どうするつもりなの?」

スピードの唇が震える。

「ひょっとしたら……動けないのかも」

石上が言う。

東条は昨夜の胃痙攣を思い出し、拳を握りしめた。

(分かっていたはずなのに……守れなかった)

悔しさが胸を締めつける。

二コーナー。

ルドルフの前には、分厚い壁――ウマ娘たちの背中が立ちはだかっていた。

 

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