皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
翌十一月十一日、京都は冷たい雨に煙っていた。晩秋の湿った空気が淀のターフに薄い靄を垂らし、レース靴に勝負鉄を打つ乾いた音だけが、静まり返った場内に響く。
シンボリルドルフは、控室の椅子に腰掛けていた。東条と石上はレース直前の手続きで不在。昨夜のアクシデントの余韻が、さすがの彼女にも影を落としている。スピードシンボリは、あえて何も言わず、ただ静かに寄り添っていた。
そのとき、スマホが震えた。
「はい」
『おーい、ルドルフ! 元気か?』
ホッカイペガサスの声だ。ルドルフの表情が、ぱっと明るくなる。
『どうした、じゃないよ。ルドルフちゃん』
「イズモも一緒か」
電話越しの怒ったような声に、ルドルフは頭を掻いた。
『そう。二人で東京から応援するね。京都にいたかったけど、イズモはレース前でトレーニングだし』
『ペガサスちゃんなんかは昨日府中で走ったばかりだから、さすがに移動は控えるわよ』
ペガサスは三着だったらしい。悔しさを隠すように、明るく言葉を続ける。
『長々話してもアレだし、とにかく頑張れ!』
『テレビの前で、全力で応援してるからね!』
「……ありがとう」
通話が切れたあと、ルドルフはスマホに向かって小さく一礼した。
(……ありがたいな)
現地で声を枯らして応援したいはずだ。それでも、負担をかけまいと短い通話に留めた。
その気遣いが胸に沁みる。昨夜の悪夢の名残が、少しずつ薄れていく。
スピードシンボリが、うんうんと頷いた。
「いい仲間を持ったわね」
ルドルフは小さく笑った。
そして午後三時。雨は上がり、パドックには十八人のウマ娘が勝負服で揃い立つ。
ルドルフが姿を見せると、スタンドから大歓声が湧き上がった。
だが、彼女は微動だにしない。
引き締まった身体、沈着な脚運び。
その姿に、他のトレーナーたちから感嘆の声が漏れる。
「ウマ娘の理想形だな……」
やがて本バ場へ。
ルドルフは深く息を吸い、芝の匂いを胸いっぱいに満たした。
「これが……淀か」
向こう正面のポプラ並木、コースのなかにある池の水面。
中山とも府中とも違う、湿り気を帯びた独特の芝の香り。
その匂いが、いよいよ本番であることを告げていた。
彼女は二本の脚で大地を踏みしめ、動かなくなる。
挑戦者たちが準備運動で走るのを、ただ静かに睥睨した。
右手で首を軽く叩き、自らを鼓舞する。
「さあ、行くか」
ダッシュは鋭かった。
脚は滑らかにスライドし、昨夜の不安などどこかへ吹き飛んでいた。
スタート地点付近では、集合合図の黄旗が振られる。
ニシノライデン、スズパレードらライバルたちが、鋭い眼差しを向けてくる。
「今日はウチのホームやで」
「もう二着はいらない」
だが、ルドルフはバ耳東風。
頬を軽く叩き、静かに気力を乗せる。
午後三時三十五分。
八万人の観衆、一千万人の視線が画面越しに注がれる中、十八人がゲートに収まった。
三冠をかけた菊花賞――スタート。
ほぼ横一線。
ルドルフは胸を撫で下ろす。
「まずまずだな」
白帽子の逃げウマ娘がハナを切り、スズマッハが三番手。
ルドルフは中団前目、六番手付近。
(マッハは前か……)
三コーナーの坂を駆け上がり、降りる。
外から押し寄せるウマ娘たちをやり過ごし、ルドルフは後方の内側へと位置を落とした。
(……ゆっくり構えすぎたか?)
赤帽子が後方に沈む。
体調の変化が気になる。行き脚がつかないのは、そのせいか。
そのとき、ニシノライデンが動いた。
「ここで行かなんだら!」
ルドルフと同じ位置から、外へ持ち出してポジションを上げていく。
だが、ルドルフは動かない。
前を見据えたまま、沈黙していた。
(……ちょっと厳しいかもしれない)
珍しく弱気がよぎる。
スタンドがざわつき始めた。
先行タイプのルドルフが、中団にもいない。
どこを走っているのか分からない――その不安が観客を包む。
スタンドの一角、『チーム・シンボリルドルフ』も同じだった。
「ルドルフさんは、どこに……?」
石上が額に手を当て、前のめりになる。
東条が双眼鏡を構え、必死に赤帽子を探す。
「……いた」
「どこですか!?」
「後方バ群の内側だ。十三番手あたりだな」
石上が愕然とする。
スピードシンボリが、重い声で分析した。
「稍重のバ場……インを走ればスタミナを奪われる。中距離タイプのルドルフには厳しいわ」
跳ね上がる泥が、緑の勝負服を汚していく。
誇り高い皇帝の装いが、無情に染められていく。
「ルドルフ……どうするつもりなの?」
スピードの唇が震える。
「ひょっとしたら……動けないのかも」
石上が言う。
東条は昨夜の胃痙攣を思い出し、拳を握りしめた。
(分かっていたはずなのに……守れなかった)
悔しさが胸を締めつける。
二コーナー。
ルドルフの前には、分厚い壁――ウマ娘たちの背中が立ちはだかっていた。