皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
稍重のバ場は、どのウマ娘にとっても足を取られる厳しい条件だった。五番手争いの中にいるスズマッハは、苦笑を浮かべる。
「何とか……バランスを崩さず、走れてるな」
前脚を必死に掻き上げる周囲のウマ娘たち。そのすぐ後ろ、ニシノライデンの背中を追うように、ルドルフは身体を低く沈め、泥を切り裂くように前を目指していた。
(キツい……長距離でこの緩いバ場は。だが、我慢比べだ)
気構えと意志だけで、ルドルフはこの苦境を耐え続ける。
コーナーを回ると、ニシノライデンがさらに外へと進路を取り、加速した。
「ふっ、ライデンか?」
内を走るスズマッハが横目で捉える。ダービーではなく、京都新聞杯で競り合った相手だ。
「ルドルフやのうて、悪かったな!」
ライデンが外から叫ぶ。
他のウマ娘たちも、我慢しきれずアウトコースへ散っていく。
だが、ルドルフだけは動かない。インコースに張り付いたまま、じっと耐えていた。
その前方が、ぽっかりと空く。
内を突けば、一気に四番手へ――絶好のチャンス。
しかし、ルドルフは動かない。
周囲のウマ娘たちは、軽蔑を含んだ一瞥を投げつけながら、泥を跳ね上げて走り去った。
(ここで動かない……?)
十七人のウマ娘たちは、一斉に理解した。
――ルドルフは苦戦している。
――今こそ、勝機。
彼女らは気合を入れ直し、前へ前へと脚を伸ばす。
標的にされたただ一人のウマ娘は、ただ耐えるしかなかった。
(四コーナー……そこが勝負だ。焦らない、焦らない)
インコースに押し込められたルドルフ。
前のウマ娘が蹴り上げた泥が、頬をかすめる。
首を振って泥を払い、己に言い聞かせるように、ただ辛抱を続けた。
向こう正面へ入る。
先頭は依然として変わらない。
だが、戦機は熟しつつあった。
京都新聞杯の覇者・ニシノライデンが、外から前へ襲いかかる。
「行き切ったる!!」
「そうはさせるか!」
ダービー二着のスズマッハも、内から応じる。
有力ウマ娘たちが一斉にレースを動かし、ペースは一気に上がった。
ルドルフもポジションを上げ始めるが、まだ中団に取りつくのが精一杯だった。
「ルドルフが仕掛ける前に動く! 足音が聞こえんうちに、ゴール前二〇〇まで逃げ切れれば……!」
スズマッハは、ダービーで味わった“あの恐怖”を思い出していた。
ゴール直前、並ぶ間もなく差し切られた悪夢。
あれだけは、二度とごめんだ。
他のウマ娘たちも同じだった。
――好きにさせてなるものか。
その意地が、さらにペースを押し上げる。
ルドルフは、跳ねる泥の中で進路を探し続けていた。
スタート地点を通過し、三コーナーの坂。
ニシノライデンが一気に先頭へ。
「よっしゃぁ!!」
「先頭は私よ!」
スズマッハも外からスパート。
二人は雁行しながら四コーナーへ突入する。
『シンボリルドルフはどこだ!? 間に合うのかっ!?』
アナウンサーの絶叫が響く。
『まだ八番手の内! 前はバ群の壁! 腕が振られている、脚色は良くない!』
ルドルフは息を乱し、苦しげに走っていた。
スタンドでは東条が双眼鏡を握りしめ、唇を噛む。
「ルドルフさん……どこまで辛抱するんですか……」
石上が震える声で言う。
「四コーナーで内が開け……開いてくれ……!」
東条は祈るように呟いた。
スピードシンボリが冷静に告げる。
「京都の直線は平坦。二ハロン以上ある。大丈夫……ルドルフなら、必ず出てくる」
強がりの声。
だが、両手は祈るように組まれていた。
「ルドルフの末脚なら……信じるしかない」
東条の肩は、岩のように揺るがなかった。
――そして。
四コーナーの後半、生垣が切れる。
ニシノライデンは内へ斜行し、ラチ沿いで粘り込みを図る。
スズマッハは外の良いバ場を求め、さらに加速する。
「「あっ!!」」
二人の間が、大きく割れた。
運命の裂け目のように。
「よし!」
生垣の陰で息を潜めていたルドルフの読みは、完璧だった。
――皇帝の道が、開いた。
「京都の四コーナーは必ず内が開く……特に道悪の時は、だ」
ルドルフの瞳が鋭く光る。
「いくぞ、ビゼン!」
親友の名を叫び、奥歯を噛みしめ、ギアを上げる。
走れなくなった友の想いを背負い、赤帽子が風を裂いた。
ライデンとマッハの間へ――突っ込む。
「見ろ! ルドルフが一変した!!」
東条が双眼鏡を投げ捨て、肉眼で叫ぶ。
「皐月賞の速さよ!」
スピードシンボリの顔に光が戻る。
「ダービーの豪脚です!」
石上が右腕を突き上げる。
ルドルフは、過去の栄光すら置き去りにする脚で、前の二人を呑み込んだ。
「いやあああぁぁっ!!」
迸る気合が叫びとなり、前のウマ娘たちの耳が倒れる。
「ちくしょう、二度も抜かれてたまるか!」
「このまま、このまま……!」
だが、二人の必死の抵抗も虚しく、
ルドルフは一瞬で右のライデンを抜き去り、
左のスズマッハは脚が止まった。
――シンボリルドルフ、先頭。
場内が揺れる。
歓声が爆発する。
皇帝の道を、堂々と駆け抜ける。
もう、誰にも止められない。
曇り空に、一筋の光が射した。
「……やった」
勝利を確信したルドルフは、脚を緩めた。
無為に着差を広げるのは無粋――横綱相撲のような、余裕の勝ち方だった。
スピードシンボリのように誇らしく首を上げ、
眦を決してゴールラインを駆け抜ける。
URAの長い歴史。
四人目の三冠ウマ娘は――無敗で誕生した。
場内は歓喜の渦。
「チーム・シンボリルドルフ」も歓声に包まれる。
「ルドルフさーん!」
石上は右腕を振り続ける。
「よし……やったな」
東条は双眼鏡を下ろし、深く息を吐いた。
「ルナ、おめでとう」
スピードシンボリは拍手しながら、涙を浮かべていた。
ルドルフはクールダウンのため、ゆっくりとコースを巡る。
「……終わった」
呟きは静かだった。
(メイクデビューから、ダービーを目指して……
春のクラシックは、本当に苦しかった)
ビゼンニシキとの三度の死闘。
そして、昨日の宇治で知った“走れない者の痛み”。
(ビゼン……出走して、勝つということが、こんなにも……)
目頭が熱くなる。
(忘れない。ビゼンと競った、このクラシックを)
涙がターフに落ち、消えた。
四コーナーの生垣を見つめ、再び走り出す。
最後の直線で立ち止まり、八万人の歓声を受ける。
ルドルフは深く一礼し、胸を張って右腕を突き上げた。
三本の指が、天へ向けて宣誓する。
――我、皇帝になりにけり。