皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編  その15 菊花賞(後編)──栄光のインコース

稍重のバ場は、どのウマ娘にとっても足を取られる厳しい条件だった。五番手争いの中にいるスズマッハは、苦笑を浮かべる。

「何とか……バランスを崩さず、走れてるな」

前脚を必死に掻き上げる周囲のウマ娘たち。そのすぐ後ろ、ニシノライデンの背中を追うように、ルドルフは身体を低く沈め、泥を切り裂くように前を目指していた。

(キツい……長距離でこの緩いバ場は。だが、我慢比べだ)

気構えと意志だけで、ルドルフはこの苦境を耐え続ける。

コーナーを回ると、ニシノライデンがさらに外へと進路を取り、加速した。

「ふっ、ライデンか?」

内を走るスズマッハが横目で捉える。ダービーではなく、京都新聞杯で競り合った相手だ。

「ルドルフやのうて、悪かったな!」

ライデンが外から叫ぶ。

他のウマ娘たちも、我慢しきれずアウトコースへ散っていく。

だが、ルドルフだけは動かない。インコースに張り付いたまま、じっと耐えていた。

その前方が、ぽっかりと空く。

内を突けば、一気に四番手へ――絶好のチャンス。

しかし、ルドルフは動かない。

周囲のウマ娘たちは、軽蔑を含んだ一瞥を投げつけながら、泥を跳ね上げて走り去った。

(ここで動かない……?)

十七人のウマ娘たちは、一斉に理解した。

――ルドルフは苦戦している。

――今こそ、勝機。

彼女らは気合を入れ直し、前へ前へと脚を伸ばす。

 

標的にされたただ一人のウマ娘は、ただ耐えるしかなかった。

(四コーナー……そこが勝負だ。焦らない、焦らない)

インコースに押し込められたルドルフ。

前のウマ娘が蹴り上げた泥が、頬をかすめる。

首を振って泥を払い、己に言い聞かせるように、ただ辛抱を続けた。

向こう正面へ入る。

先頭は依然として変わらない。

だが、戦機は熟しつつあった。

京都新聞杯の覇者・ニシノライデンが、外から前へ襲いかかる。

「行き切ったる!!」

「そうはさせるか!」

ダービー二着のスズマッハも、内から応じる。

有力ウマ娘たちが一斉にレースを動かし、ペースは一気に上がった。

ルドルフもポジションを上げ始めるが、まだ中団に取りつくのが精一杯だった。

 

「ルドルフが仕掛ける前に動く! 足音が聞こえんうちに、ゴール前二〇〇まで逃げ切れれば……!」

スズマッハは、ダービーで味わった“あの恐怖”を思い出していた。

ゴール直前、並ぶ間もなく差し切られた悪夢。

あれだけは、二度とごめんだ。

他のウマ娘たちも同じだった。

――好きにさせてなるものか。

その意地が、さらにペースを押し上げる。

ルドルフは、跳ねる泥の中で進路を探し続けていた。

スタート地点を通過し、三コーナーの坂。

ニシノライデンが一気に先頭へ。

「よっしゃぁ!!」

「先頭は私よ!」

スズマッハも外からスパート。

二人は雁行しながら四コーナーへ突入する。

『シンボリルドルフはどこだ!? 間に合うのかっ!?』

アナウンサーの絶叫が響く。

『まだ八番手の内! 前はバ群の壁! 腕が振られている、脚色は良くない!』

ルドルフは息を乱し、苦しげに走っていた。

 

スタンドでは東条が双眼鏡を握りしめ、唇を噛む。

「ルドルフさん……どこまで辛抱するんですか……」

石上が震える声で言う。

「四コーナーで内が開け……開いてくれ……!」

東条は祈るように呟いた。

スピードシンボリが冷静に告げる。

「京都の直線は平坦。二ハロン以上ある。大丈夫……ルドルフなら、必ず出てくる」

強がりの声。

だが、両手は祈るように組まれていた。

「ルドルフの末脚なら……信じるしかない」

東条の肩は、岩のように揺るがなかった。

 

――そして。

四コーナーの後半、生垣が切れる。

ニシノライデンは内へ斜行し、ラチ沿いで粘り込みを図る。

スズマッハは外の良いバ場を求め、さらに加速する。

「「あっ!!」」

二人の間が、大きく割れた。

運命の裂け目のように。

「よし!」

生垣の陰で息を潜めていたルドルフの読みは、完璧だった。

――皇帝の道が、開いた。

「京都の四コーナーは必ず内が開く……特に道悪の時は、だ」

ルドルフの瞳が鋭く光る。

「いくぞ、ビゼン!」

親友の名を叫び、奥歯を噛みしめ、ギアを上げる。

走れなくなった友の想いを背負い、赤帽子が風を裂いた。

ライデンとマッハの間へ――突っ込む。

 

「見ろ! ルドルフが一変した!!」

東条が双眼鏡を投げ捨て、肉眼で叫ぶ。

「皐月賞の速さよ!」

スピードシンボリの顔に光が戻る。

「ダービーの豪脚です!」

石上が右腕を突き上げる。

 

ルドルフは、過去の栄光すら置き去りにする脚で、前の二人を呑み込んだ。

「いやあああぁぁっ!!」

迸る気合が叫びとなり、前のウマ娘たちの耳が倒れる。

「ちくしょう、二度も抜かれてたまるか!」

「このまま、このまま……!」

だが、二人の必死の抵抗も虚しく、

ルドルフは一瞬で右のライデンを抜き去り、

左のスズマッハは脚が止まった。

――シンボリルドルフ、先頭。

場内が揺れる。

歓声が爆発する。

皇帝の道を、堂々と駆け抜ける。

もう、誰にも止められない。

曇り空に、一筋の光が射した。

「……やった」

勝利を確信したルドルフは、脚を緩めた。

無為に着差を広げるのは無粋――横綱相撲のような、余裕の勝ち方だった。

スピードシンボリのように誇らしく首を上げ、

眦を決してゴールラインを駆け抜ける。

URAの長い歴史。

四人目の三冠ウマ娘は――無敗で誕生した。

 

場内は歓喜の渦。

「チーム・シンボリルドルフ」も歓声に包まれる。

「ルドルフさーん!」

石上は右腕を振り続ける。

「よし……やったな」

東条は双眼鏡を下ろし、深く息を吐いた。

「ルナ、おめでとう」

スピードシンボリは拍手しながら、涙を浮かべていた。

 

ルドルフはクールダウンのため、ゆっくりとコースを巡る。

「……終わった」

呟きは静かだった。

(メイクデビューから、ダービーを目指して……

春のクラシックは、本当に苦しかった)

ビゼンニシキとの三度の死闘。

そして、昨日の宇治で知った“走れない者の痛み”。

(ビゼン……出走して、勝つということが、こんなにも……)

目頭が熱くなる。

(忘れない。ビゼンと競った、このクラシックを)

涙がターフに落ち、消えた。

四コーナーの生垣を見つめ、再び走り出す。

最後の直線で立ち止まり、八万人の歓声を受ける。

ルドルフは深く一礼し、胸を張って右腕を突き上げた。

三本の指が、天へ向けて宣誓する。

――我、皇帝になりにけり。

 

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