皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
そんな二人のやり取りを、少し離れた場所から見つめている影があった。
二人のウマ娘――そのうちの一人が、悔し紛れに口を歪める。
「なるほど、ワタシは無視かぁ」
不敵な笑みは、どこか寂しさを隠す仮面のようだった。
「そんなことはないと思うけど」
マルゼンスキーが、軽く肩をすくめて宥める。
相手は頭を掻き、ふっと息を吐いた。
「……夢を見たんです」
「どんな夢?」
マルゼンが首を傾げると、相手は遠くを見るように語り始めた。
「前目でレースしていました。ええ、ハイペースで飛ばして……
でも、向こう正面で脚が一杯になってしまって」
その声は、夢の残滓をまだ引きずっていた。
「そこからは、お決まり。海外の見知らぬウマ娘にかわされ、
そしてルドルフに抜かれ、次々と……
最後はシービーでした。気がつけば、最後方で藻掻いていて」
言い終えると、頭を左右に振る。
まるで悪夢を振り払うように。
「ふうん……」
マルゼンは顎に手を当て、しばし考え込む。
「それなら、アナタを変えなきゃね」
「ワタシを……変える?」
「そう。今までとは違う“新しいカツラギエース”を見せてよ。
さあ、息を吸ってーぇ」
マルゼンが大げさに胸を張って息を吸う。
つられて相手も息を飲む。
「はいてぇー」
二人は同時に口をすぼめ、ぷくっと頬を膨らませてにらめっこ。
限界が来て、同時に息を噴き出した。
まるで悪夢という業火を吹き消すように。
「どうかしら?」
マルゼンが笑顔で問いかける。
「……そうか、マルゼンさんの言いたいことは、そういう意味か!」
相手の顔に、ようやく光が戻る。
「ええ、思いっきりやっちゃいなさいよ。
常識なんて、ぶち壊して。
まずは自分自身に自信を持って、集中してごらんなさい。
他人なんか関係ないわよ。
ヒントは秋の天皇賞のあとに話したでしょ?」
マルゼンの言葉に、ウマ娘は右手を握りしめ、左の掌に打ちつけた。
「……ええ、自分だけの世界で勝負してみます!」
腹を押さえ、口元を歪めて笑う。
「やってやります」
その瞳には、覚悟と執念が宿っていた。
マルゼンは、その背中が見えなくなるまで見送った。
「さて、どうなるかしらねぇ」
ミスターシービーが去ると同時に、公開トレーニングは終了した。
報道陣も霧のように消え、学園内は静けさを取り戻す。
シンボリルドルフは、立ち尽くしていた。
胸の奥が熱い――世界とは何か。
異国のウマ娘たちの走りを目の当たりにし、
その問いが、心の底から湧き上がってくる。
(……なるほど。シービーが私を連れ出した理由が、分かる)
彼女もまた、海外勢の力量を見て、闘志を滾らせたのだろう。
その熱が、ルドルフの胸にも伝播していた。
クールダウンの最中、見慣れないウマ娘が近づいてくる。
さきほど鋭い加速を見せた栗毛の彼女――ベットタイムだ。
清楚な雰囲気の奥に、鋼の芯が見える。
『あなたが、シンボリルドルフね』
流麗なクィーンズイングリッシュが耳をくすぐる。
『はい。英国代表のベットタイムさんですよね?』
ルドルフも自然な発音で返す。
幼い頃からスピードシンボリに鍛えられた英会話は、
こういう場でこそ生きる。
二人の視線が絡み、無言の火花が散る。
『ふふ、そうよ。敵情視察かしら?
無敗の三冠ウマ娘、日本のチャンピオンホースは隙がないわね』
挑発めいた笑み。
その瞬間――
『ハローッ!!』
背後から腕が絡みつき、ルドルフの首が締まる。
『ストロベリーロード! 何を考えているの!?』
『ハッハ、親愛の情ですよ! ジャパンでもフレンドが欲しいですから!』
オーストラリア訛りの英語が弾む。
ベットタイムが慌てて引き剥がし、ルドルフは咳き込んだ。
『これだから粗忽者だとバカにされるのよ』
『でも、嫌わないでくださいね』
ストロベリーロードは悪びれず手を差し出す。
ルドルフは握手を返した。
『健闘を期待しているよ』
『モチロンです! 負けませんよぉ!』
カラカラと笑う声が、冬空に響く。
そこでルドルフは、わざとらしく肩をすくめた。
『……まだ、ジャパンカップに出走するとは決めていないんだ』
海外勢は一斉に驚愕の表情を浮かべる。
『あり得ない! ウマ娘の本質は、強い相手と鎬を削ることでしょう!?』
ベットタイムの怒気が、空気を震わせた。
その圧に、ルドルフの肌がひりつく。
『まあ、いいわ。あなたがいないなら、勝つしかないわね』
踵を返し、バーイと手を振って去っていく。
ストロベリーロードは名残惜しそうに振り返る。
『残念です。でも、諦めないで一緒に走りませんか?』
『ロード! しつこいと嫌われるよ!』
ベットタイムの叱責に、ロードは慌てて後を追った。
二人の背中が消えると、ルドルフは唇を噛んだ。
(まったく……シービーにしても、ベットタイムにしても……
そして、ストロベリーロードにしても)
胸の奥に、鋭い棘が刺さる。
(出走したいのは……私の方だ)
握りこぶしが震えた。
その震えは、恐れではなく――渇望。
出走するために越えなければならない壁がある。
それを理解しているからこそ、震える。
(レースへの昂ぶりは、レースでしか贖えない)
ルドルフは、苦渋の選択を迫られていることを再確認した。