皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
二日後。
シンボリルドルフは、トレセン学園のコースを単走で走っていた。
ジャパンカップまで、あと四日。
だが――脚が、重い。
赤いジャージに包まれた脚に、力が入らない。
東条トレーナーは所用で、不在。
石上サブトレーナーは、ホッカイペガサスとイズモランドの指導にかかりきりだ。
二人は十二月の中山開催でオープン入りを狙う正念場。
全力で鍛えねばならない。
(……ジャパンカップ出走は、本当に“自分の意志”なのか?)
集中力が途切れ、身体が鉛のように重くなる。
追い切るはずが、スピードが出ない。
結局、流すだけで終わり、最後は歩いてしまった。
スピードシンボリが眉間に皺を寄せる。
「体調、どうなんだ?」
「別に……」
小声で斜めを向く。
スピードは腕を組み、途方に暮れた。
「ルドルフ、状況次第では回避してもいいんだぞ」
右腕を軽く叩き、無理するなと促す。
だがルドルフは、力なく笑った。
「出るしかないでしょ。
東条トレーナーもスーさんも、私に期待してくれてる。
菊花賞から中一週でも、私なら辛抱強いから大丈夫だって……
世界の強豪と走りたいって、勧めてくれたじゃないですか。
だから、私は出走するんです」
「だけど……」
スピードが言いかけた時、
ルドルフはスポーツドリンクを手に取り、喉へ流し込んだ。
冷たい液体が胃を刺激すると、シービーの言葉が脳裏をよぎる。
(自分の意志で、走るんだよ)
――ハッとした。
(まさか……私は、出走を他人任せにしていた?)
振り払うように頭を左右に振った。
「今日は、もう上がります」
G1直前とは思えない軽いメニュー。
だがルドルフは礼を述べ、背を向けた。
夕日が差し込む背中が語っていた。
――誰とも話したくない。
――意見は受け付けない。
「中一週の無茶なローテーション……分かっていたことだ。今更だよな」
スピードが小さく呟く。
「まあ、体調維持もトレーニングだからな」
その言葉が背中に触れた瞬間、
ルドルフの肩がビクリと震えた。
「出走取消なんて、気にするな」
励ましの声が追いかける。
だがルドルフの尻尾は、まるでハエを払うように揺れた。
「……まあ、自分自身で判断していくしか、ないな」
自分を鼓舞するような言葉。
だが、その声には、どうしようもない“残念”が滲んでいた。
「勝てる、かもしれない」
だが、ルドルフに一抹の不安がよぎる。
「果たして、今の調子で勝負なるのか」
ルドルフはそっと、手で腹に触れる。まるで、何かをいたわるように、恐がるように。
そして、遠くの光景を見据える。
方々から、ウマ娘たちの声、嬌声やトレーニングでの気合が漂ってくる。
ルドルフは目を瞑り、学園の息吹を感じている。
「よし、ジャパンカップに出よう!」
そして、出るからには勝つ! と言わんばかりに目を見開き、右腕を引いた。だが、その腕は軽い。
右手の拳に目を落とし、そっと開いた。
「仮に、結果が出ようが、出まいが……菊からJC、中一週を走った事実は残る。そして、それがどんなにウマ娘にとって、過酷なことかは確実に知らしめることができる」
そこで、ルドルフは息を飲む。
「そうすれば、URAもこのローテーションを考え直すだろう」
そして、息を吐いて、顎を引く。
「うん、これからも無敗の三冠ウマ娘はいくらでも出てくるだろう」
ルドルフはゆっくりと視線を落とした。
握った拳が、わずかに震えている。
その震えは恐れではなく、未来を見据えた決意の証だった。
「そう、無敗の初代三冠ウマ娘として……
彼女らが悩まず、走れるようにしたい。それが、先行くウマ娘の使命だ」
言葉を紡ぐたび、ルドルフの横顔に影と光が交互に走る。
秋風が髪を揺らし、深緑のエメラルドが静かにきらめいた。
「ああ、二度と私のような……悩むウマ娘を出したくない。二度とな」
最後の一言だけは、かすかに声が震えた。
胸の奥に沈めていた痛みが、ほんの一瞬だけ表情に滲む。
だがすぐに、皇帝の顔へと戻る。
トレセン学園生徒会長、シンボリルドルフ。
その想いは秋風に乗り、学園の生徒たちの声や躍動に溶けていった。