皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
十一月二十五日。東京レース場――今年最後の開催日、ジャパンカップデー。
府中の杜に立つ木々は赤や黄に染まり、薄曇りの空の下で冷えた風に揺れていた。晩秋の色彩はどこか寂しげだが、ここはシンボリルドルフがダービーで圧勝した芝2400メートルの舞台でもある。
レースの一番人気はミスターシービー。ルドルフは四番人気。
本来ならもっと支持されてもいいはずだが――派手な追い込みを見せるシービーとは対照的に、ルドルフのレースぶりは王道の先行抜け出し。
そして何より、中一週という無茶なローテーションが嫌われているのだろう。
ファンは鋭い。今のルドルフの状態を、見抜いている。
確かに、菊花賞の疲労は抜けきっていない。
頭が重い。呼吸も浅い。
この状態で冷静な判断ができるのか――そんな弱気が胸をかすめるが、泣き言を言っても仕方がない。
ただ前を向き、走るだけだと、ルドルフは自らを叱咤した。
スタンドでは、スピードシンボリと石上サブトレーナーが、険しい表情で黙り込んでいた。
ホッカイペガサスとイズモランドの姿はない。二人は十二月の中山開催に照準を合わせ、東条トレーナーはそのサポートに回っている。
今、石上は東条の代行としてここに立っていた。
ルドルフは、東条のいないトレーナー席をじっと見つめる。
(そんなに心配するなら、菊花賞のあと中一週でジャパンカップなんて走らせなければいいのに……)
苦笑が胸の奥で転がる。
いや、違う。これは自分が選んだ道だ。
覚悟を決めるように、両手で頬を叩いた。
集合合図が出る。
出走ウマ娘たちが、スタンド前の発送地点へと集まっていく。
見たことのない海外勢が大半だ。なぜか、皆が強そうに見える。
『ルドルフ、出走してきたのね』
英語の声。ベットタイムが不敵な笑みを浮かべていた。
『まあ、お互い頑張りましょう』
ルドルフが小さく手を上げると、背中にドン、と衝撃が走る。
「ルドルフ、やっと一緒に走れるよ」
シービーが肩を組んできた。レース直前とは思えない軽さだ。
ルドルフは器用に身体を捻り、腕の重みから抜け出す。
「楽しみにしているよ」
二本の指を額に当て、離すと同時にルドルフを指さす。
その仕草に、ルドルフは小さく息を吐き、12番枠へ吸い込まれていった。
『ハーイ! 嬉しいです』
左隣からストロベリーロードがウインクを飛ばす。
「ワタシ、マケマセン!」
妙にイントネーションの高い日本語に、ルドルフは思わず苦笑した。
(うん……レースを走れるって、いいな)
昂ぶりが胸の奥でじわりと沸き上がる。
厳しいローテーション、万全ではない体調――それでも、出走する価値はある。
海外勢の視線も鋭い。無敗の三冠と競り合いたいのだ。
その気迫が、ルドルフの勝負心をさらに研ぎ澄ませていく。
カツラギエースが、近くの喧噪に顔をしかめていた。
三冠ウマ娘とG1ウマ娘――立場の違いは明白だ。
だが、エースの耳は白い頭巾の下でピクリと動き、前走とは違う気配を漂わせていた。
ファンファーレが鳴り響く。
府中の杜に、熱狂が満ちる。
奇数枠から順にゲートへ向かう。
1枠1番のミスターシービーが悠然と入り、7枠11番のストロベリーロードが続く。
後入れの偶数枠、シンボリルドルフが12番へ。
左隣のロードが不敵に笑う。
ルドルフは逆に口を引き締め、静かに頷いた。
6枠10番のカツラギエースが深く息を吸い、ゆっくり吐く。
3枠4番のベットタイムが最後に収まる。
全ウマ娘ゲートイン。
大歓声が一瞬、凍りつく。
――ゲートが開いた。
スタートはややバラついた。
ルドルフは微妙に出足がつかない。
「ちっ……」
珍しく舌打ちが漏れる。
手足が重い。息が苦しい。口が割れる。
対照的に、カツラギエースは鋭く飛び出した。
「よし、行くぞ!」
エースの声が弾ける。
「速いな……」
ルドルフも気合を入れ直し、先団を追う。
ベットタイムもロードも出遅れ気味。
シービーはいつものように最後方で腹を括っていた。
エースは迷いなく前へ。
その姿勢は、まるで何かに取り憑かれたように一心不乱だった。
二番手には海外勢が並び、ルドルフは五番手に落ち着く。
シービーは最後方で静かに構える。
一、二コーナーでエースの推力が増す。
後続との差が、みるみる開いていく。
(あんなに飛ばしたら、スタミナ切れになる……)
ルドルフは冷静にレースを俯瞰する。
だが、エースは聞く耳を持たない。
「やる時は、やってやる!」
向こう正面に差し掛かる頃には、二番手と10バ身、ルドルフとは15バ身、シービーとは20バ身の大差がついていた。
気持ちのいい大逃げ。
ゆったりと、しかし速い。
白い耳覆いが小気味よく上下し、エースは軽快に先頭を飛ばしていく。
(いい調子で逃げている……そろそろ後ろからプレッシャーをかけないとな)
そう判断しながらも、ルドルフは動かない。
(ここで動けば、海外勢の思う壺か……)
ベットタイムは前へ、ロードはルドルフの直後。
シービーは最後方で静観。
誰も動かない。動けない。
『さて、皇帝サマのご聖断を見極めさせてもらうわ』
『ルドルフのスパートに、ついていくだけデス』
海外勢の言葉は、身も蓋もない。
(他が仕掛けなければ、何もできない……)
レース全体が、ルドルフの判断を待っていた。
ふと、脳裏に映像でしか知らない勇姿がよぎる。
圧倒的なスピードで逃げ、誰にも捕まらない――
(この戦法は……まさか)
「マルゼンスキー、そのものだ」
ルドルフは呟いた。
カツラギエースは逃げに逃げる。
赤い飾り紐を揺らし、淡々とペースを刻む。
「静かだ……集中できる。ここはあたしの世界だ」
エースは驚いていた。
いつもと違う。気負いがない。
ただ、気持ちよく走れている。
「ああ、常識なんて……ぶっ壊してやる!」
その叫びは、熱ではなく、確かな覚悟だった。
頭は冷静に、心は熱く。
エースは、誰もいないターフをただひたすらに駆け続けた。