皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
四コーナー近くのメインスタンド。冬制服の二人が並んで腰掛け、眼下のレースを見つめていた。
一人は腕を組み、満足げに頷く。
「まずは、いいペースよね」
マルゼンスキーは、ハスキーな声でカツラギエースの大逃げを楽しんでいた。
まるで、この光景が永遠に続けばいいとでも言いたげな表情だった。
「まさか、耳カバーがここまで効くなんて」
明るい声で手を叩くマルゼン。
隣のビゼンニシキが、痛めた脚をかばいながら問いかける。
「何かしたのですか?」
「耳を塞ぐ皮の覆いモノよ。ほとんど周りの音が聞こえないの。
それから――“自分の世界に入り込んで、思いっきり楽しんで”ってね」
マルゼンはウインクを添えて言った。気持ちの面からのアドバイスだ。
「その結果が、あの大逃げですか……」
ビゼンは目を見張る。
そして、逃げるエースの姿を見つめながら、小さく呟いた。
「……本当は、復帰したい。私も、レースに出たい……」
その声は風に溶けるほど弱かった。
マルゼンはそっとビゼンの肩を叩き、親指を立てて励ます。
ビゼンは照れたように視線を戻し、再びレースへ集中した。
確かに、エースはいい調子で逃げている。
宝塚記念を勝った中距離適性は本物だ。
だが、ここは阪神2200ではない。
府中2400、しかも直線の長い東京。
単純な逃げが通じる舞台ではない――誰もがそう思っていた。
海外勢も同じ判断だ。
先行するベットタイムは射程圏で牽制し、
六番手のルドルフ、最後方のシービーも、冷静に状況を見ている。
1000メートル通過は61秒6。
ミスターシービーは相変わらず後方待機。
ルドルフは、淡々とレースを分析していた。
「もう少し前目がいいのか……?」
だが、菊花賞のように確信が持てない。
思いつきに近い。
追う側のプレッシャーが、無意識に脚を鈍らせているのか。
何より――
「体がふわふわして軽い……ただ、脚が動かない。重い……」
三コーナー。
二番手が後方に飲み込まれ、集団がひとつに固まる。
ルドルフはそこで、わずかに前へ出た。
反撃の足場だけは確保したい――その一念だけが身体を動かしていた。
三、四コーナー。
その動きを見透かしたように、エースが再び加速する。
二番手集団を突き放しにかかる。
『玉砕的な逃げか!?』
アナウンサーの絶叫が響く。
さすがに後方勢も、これ以上離されてはまずいと悟り、追い始めた。
シービーも手足を動かし、捲りにかかる。
「よし、詰められる……!」
ルドルフも、重い腕を振り、脚を前へ繰り出す。
『動くのか、ルドルフ!』
まず反応したのはストロベリーロード。
『動くのね、ルドルフ!』
ベットタイムも呼応する。
二番手以降が一気に奔流となる。
ターゲットはただ一人――カツラギエース。
ダークホースが、主役へと躍り出た瞬間だった。
スタンドでは、スピードシンボリと石上が祈るように声を漏らす。
「行ける!」
「ダービーの時と同じだ!」
ルドルフはカツラギを射程圏に捉えた。
シービーも追い出すが、まだ後方だ。
トレセン学園のチームハウス。
赤いジャージの二人がテレビの前で固まっていた。
「大丈夫かな、ルドルフちゃん……」
「まあ、な。奴なら何とかするだろ」
ペガサスもイズモも、ルドルフの走りに違和感を覚えていた。
中央で喉仏を動かした男が、低く呟く。
「ルドルフ……」
東条トレーナーは、いつもと違う雰囲気を感じ取っていた。
だが、それ以上は言葉にしなかった。
大欅を過ぎる頃、後方集団が一気に迫る。
差は縮まり、誰もが「ここまで」と感じ始めていた。
ベットタイムが二番手へ。
ルドルフとストロベリーロードも続く。
シービーもジリジリと上がってきた。
「まだまだ、粘ってやる!」
エースは先頭を譲らない。
直線へ。
カツラギエースが真っ先に府中のホームストレッチへ躍り出る。
『堂々と先頭!』
だが、差は一バ身。
ベットタイムが内から迫る。
『主役交代よ、ラビットさん!』
外からはルドルフ。
ダービーの再現のような豪脚で襲いかかる。
ストロベリーロードは少し遅れた。
シービーはさらに外から追い込む。
エースは飲み込まれそうだった。
半バ身、クビ――差が詰まる。
「まずい……ここまでか……?」
エースの心が揺れる。
背後から迫る圧迫感。
その正体は――シンボリルドルフ。
「ここだぁっ!!」
ルドルフの雄叫びが響く。
踏み込みが強くなり、泥が後ろへ跳ね飛ぶ。
『2』の標識を過ぎ、ルドルフが加速する。
「いけぇっ!!」
厚い耳覆い越しにも、ルドルフの咆哮が届く。
「やはり来たか、無敗の三冠ウマ娘……! 負けるかぁ!!」
エースも意地の再加速。
疲れているはずだった。
距離の壁があるはずだった。
だが、逃げて差す――奇跡のような踏ん張りを見せる。
後方では、シービーが苦しんでいた。
「ここまで……脚が動かないなんて……!」
スローペースで前が脚を残している。
差し追い込みの切れ味が生きない展開。
早めに動けば体力を失う――そのジレンマがシービーを縛る。
片目を瞑り、歪む顔。
遠ざかるルドルフの背中。
遥か先で点のように逃げるエース。
最後は三人のデッドヒート。
内・ベットタイム。
外・シンボリルドルフ。
前・カツラギエース。
『GO! GO! GO!』
ベットタイムが叫ぶ。
「行けるぞ!」
ルドルフが二番手から迫る。
「うぉぉぉぉ!!」
エースが魂で走る。
フォームは乱れ、暴力的なほどだが――それでも前へ。
二人が肉薄し、交わそうとする。
だが、エースは粘る。
差が詰まらない。
そして――三人の脚色が、完全に同じになった。
その瞬間、ルドルフの胸に違和感が走る。
最後の勝負所。
直線のラスト。
本来なら、ターフの行く末は開けているはずだった。
誰もいない、自分だけの舞台のはずだった。
だが――前に、ウマ娘がいる。
初めての光景だった。
「このままではッ!!」
ルドルフが絶叫する。
だが、景色は変わらない。
腕が重い。
脚が前に出ない。
(は……腹が……痛い……)
初めての感覚だった。
縮まらない差。
そして――終末は、突然に訪れた。