皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
『カツラギエース、逃げ切った──ゴールイン!』
アナウンサーの絶叫が府中の空気を震わせた。
カツラギエース、堂々の逃げ切り。念押しするように、さらに大きな声が重なる。
シンボリルドルフは、ちらりと左へ視線を送る。
さらに内には、ベットタイムの姿もあった。
「三着か……」
淡々と事実を噛みしめる。
レースは終わった。ルドルフはゆっくりとスピードを落とした。
そのとき──背後から、まだレースが続いているかのような気配が迫る。
『負けちまったなぁ』
振り返れば、ストロベリーロードが肩をポンと叩いていた。
泥だらけの顔に白い歯を見せ、ニカッと笑う。その無邪気さに、ルドルフの表情がわずかに緩む。
『ルドルフさんよ。勝負は時の運だ。次があるさ』
ノーマークの逃げウマ娘が穴を開ける──そんな展開は珍しくない、と言わんばかりだ。
もう次のレースのことを考えているらしい。
その打たれ強さ、切り替えの早さに、ルドルフは羨望すら覚えた。
自分にはまだ足りないもの──
したたかさ。
そして、異国のウマ娘ともすぐに打ち解ける天真爛漫さ。
(もし海外勢と本気で戦うなら……タフさこそ武器になる)
負けても負けても立ち上がり、ついにG1を勝ち取ったウマ娘。
その強さは、ルドルフの胸に深く刻まれた。
『ストロベリーロード。海外へ遠征することがあれば──一緒に走ろう』
敗戦の痛みを隠すように、ルドルフはロードの腕を軽く小突いた。
日本のウマ娘からの誘いが嬉しいのだろう、ロードは満面の笑みを浮かべる。
『ぜひともだ。そうなるように願っているさ』
痛がる素振りもなく腕を突き上げ、軽快に走り去っていった。
──そして、ルドルフは気づく。
初めて負けたのに、悔しくない。
これも、ストロベリーロードのタフさに感化されたからだろうか。
ただ、身体は限界だった。
上半身はふらつき、脚はガクガクと震える。
(ここまで……身体に“ガタ”がくるとは)
レース中は夢中で、体調不良など意識の外だった。
だが、終わった瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、精神的な疲労が一気に噴き出した。
悪寒が走る。
視界が白い濃霧に包まれていく。
『あっと驚くカツラギエース!』
アナウンサーがダークホースを称える。
「おれ……勝ったんだ……?」
名を呼ばれ、状況を理解したカツラギエースは、自分の顔を指差して呆然とした。
スタンドは騒然としていた。
ミスターシービーでも、シンボリルドルフでもない。
第三のウマ娘が、日本に初のジャパンカップ優勝をもたらしたのだ。
「いいぞー、カツラギエース!」
「優勝おめでとう!」
「エース、お前が一番だ!」
素直な称賛が飛び交う。
その声援を浴び、エースの胸に熱いものが込み上げる。
ゆっくりと一コーナーへ向かう。
一歩一歩、ターフを踏みしめるたび、歓喜が膨れ上がる。
「いっやったーっ!!」
腕を突き上げると、スタンドが揺れた。
拍手の嵐。
誰もが、勝者はエースだと認めた瞬間だった。
エースはもう一度、天へ向けて腕を突き上げた。
最高の瞬間だった。
スタンドでは、マルゼンスキーが清々しい表情で立ち上がり、スタンディングオベーションを送っていた。
「エースちゃん、やってくれるじゃない」
この言葉の真意を理解できるのは、覇者と同じ“逃げ”を極めたマルゼンだけだ。
一方、ビゼンニシキは茫然と立ち尽くしていた。
「ルドルフが……ベストの中距離で負けるなんて……」
ショックが大きすぎて、声が震えていた。
そんなビゼンの肩を、マルゼンが軽く叩く。
「分かっているでしょうけど──勝負事には色々あるのよ」
ノーマークの逃げウマ娘がスローに落としてマイペース。
ルドルフは中団で海外勢を牽制。
シービーは最後方でスローペースに苦しんだ。
すべてが噛み合った結果、エースが逃げ粘った──と。
ビゼンは、まるで自分が負けたかのように憮然としていた。
そこへ、マルゼンが平然と告げる。
「レースに負けるのが嫌なら、出走しなければいいの」
そして、内緒ねと人差し指を口に当てた。
大先輩の真言に、ビゼンもさすがに頷くしかない。
「ルドルフちゃん、本調子じゃなかったのかもね」
マルゼンの言葉に、ビゼンは少し救われた気がした。
「次に期待しましょ」
勝者を称え、前を向く。
そう思うと、晩秋の冷たさが少しだけ和らいだ気がした。
初めての黒星。
敗者となったシンボリルドルフは、本バ場をすぐに後にし、地下バ道へ向かう。
肩は重く、脚は前に出ない。
息も絶え絶え。
視界は靄がかかったように揺らいでいた。
反対側から、見慣れたウマ娘が歩いてくる。
だが、名前が思い出せない。
「ルドルフ、お疲れ」
「……スーさん」
やっとのことで名前を思い出す。
スピードシンボリは、労わるように微笑んだ。
「頑張りましたね」
石上サブトレーナーも、憔悴した顔で寄り添う。
ああ──いつもと変わらない。
そう思った瞬間、力が抜けた。
二人の顔が歪む。
「ああ、待って」と手を伸ばしたが、視界が暗転する。
背中から崩れ落ちる寸前、スピードシンボリが抱きとめた。
「ルドルフ、大丈夫か!」
その声が遠ざかる。
顔に靄がかかる。
URAスタッフが叫んでいる。
普段は大人しい石上が、警備員に怒鳴っている。
周囲が一気に慌ただしくなる気配だけが、最後に残った。
──シンボリルドルフが東京レース場で覚えているのは、ここまでだった。