皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
シンボリルドルフが目を覚ますと、白く無機質な壁紙が視界に入った。
四角いシーリングライトは、ただ光を放つだけの機能を淡々と果たしている。
どこかで見た天井だ、とルドルフは瞬きを二、三度繰り返した。
(ああ……この前、胃痙攣で倒れた時の部屋に似ている。ということは、ここは……?)
ゆっくりと身体を起こす。淡いグリーンの病院服が、和服のように胸元で揺れた。
「無理しなくていいのよ」
優しい女性の声が耳に届く。
壁際の椅子に座っていた二人が立ち上がった。
その直後、小さなノックが三度。返事を待たずにドアが開く。
「ルドルフ、起きたのか」
明るい声。
見慣れた顔。記憶がようやく追いつく。
「東条トレーナー……それに、スーさん」
きょとんとするルドルフを、スピードシンボリがそっと抱き寄せ、背中に手を回した。
「よかったわ。気がついて」
「まずは、これで安心だな」
二人の声音には、深い安堵が滲んでいた。
「私は……一体?」
「三日三晩、眠っていたのよ」
スピードシンボリが耳元で囁く。
「そう……なんですか」
ルドルフは呟き、ふと胸の奥に引っかかるものを思い出す。
「ジャパンカップは? 私は……走っていたはずですが」
「うん……」「ええ……」
東条とスピードシンボリは、言葉を濁した。
その時、開け放たれた扉から新たな影が差す。
「お気づきになられましたな」
初老の医師が看護師を伴って近づいてくる。
その後ろには、帽子をかぶったワンピース姿の女性――人には猫。
さらにその後ろに、緑のダブルスーツを纏った秘書らしき女性。
三人は壁際に静かに並び立った。
東条とスピードシンボリは、無言で軽く会釈を交わす。
医師はルドルフの手首を取り、脈を測った。
「うん、大丈夫だ。だが――」
穏やかな声が、急に厳しさを帯びる。
「あんまり無茶しなさんな」
「無茶……?」
「そうだよ。ジャパンカップの出走時、あなたは歩くのもやっとだったはずだ。
ましてやレースに出るなんて、無謀どころか狂気の沙汰だ」
「確かに、体調は良くありませんでしたが……」
「“体調不良”なんて言葉じゃ済まないよ」
医師は静かに告げた。
「疲労とプレッシャーからくる重度の下痢。滝のような排泄だったはずだ。
普通のウマ娘なら、歩くどころかベッドから起き上がれない状態だよ」
ルドルフは恥ずかしさに俯いた。
「それでもレースを走った……しかも、上がりは自己ベスト。驚異的だよ」
医師は深く息をつき、壁際の小柄な少女――理事長へ視線を向けた。
「無茶だよ、理事長さん!」
理事長は肩を落とし、項垂れる。
「菊花賞3000メートル、ジャパンカップ2400メートル。
中一週で、東西の異なるレース場を転戦して……合計5400メートル。
成長途上のクラシック級に、こんなローテーションはあり得ない」
「まさか、菊花賞の後にジャパンカップへ出走するウマ娘がいるなんて……」
理事長は悔しげに唇を噛んだ。
「理事長、来年以降の番組改編テーマですね」
URA中央諮問委員会の長が、きりりとした声で告げる。
秘書がバインダーを開き、淡々と続けた。
「最低でも、中二週にする必要がありますね」
「そうだな。それがいい」
医師が頷く。
「できれば、中四週は欲しいですね」
東条が、トレーナーとしての痛切な思いを吐露した。
医師はルドルフの肩を軽く叩く。
「シンボリルドルフ君。君は“菊花賞から中一週でジャパンカップ”を走った最後の三冠ウマ娘になるだろうね」
そして、皆に退出を促した。
「さあ、これから十分に休ませてあげよう」
部屋に静けさが戻る。
医師が振り返り、優しく言った。
「ルドルフ君。君には、まだ成し遂げたいことがあるんだろう?」
「……あの」
ルドルフの唇が震える。
「何だい?」
「有馬記念……出られますか?」
部屋の空気が止まった。
ジャパンカップから約一か月後。
ファン投票で選ばれる、年末の大一番。
ルドルフは真っ直ぐに医師を見つめた。
その瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。
医師は根負けしたように微笑む。
「順調に回復すれば……出られると思うよ」
その言葉に、ルドルフの瞳が輝いた。
こうして、有馬記念へ向けて――周囲は静かに動き始めた。