皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ―   作:久遠 透

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★第二章三冠編 その18 三強のグランプリ、有馬記念へ(PART2)──トレーナーたち

東京・銀座。日本有数の繁華街は、十二月ともなれば師走の気配に満ち、行き交う人々の足取りもどこか急いている。だが、百貨店やブランドショップが立ち並ぶメインストリートは、クリスマスを控えたイルミネーションに彩られ、冬の空気にきらめきを添えていた。

その華やぎから少し外れ、昭和通り付近の東銀座へ入ると、街並みは一転する。中小のオフィスビルや古い商店が混在し、昭和の匂いを残す一角がひっそりと息づいている。

その裏路地に佇む、古い商店を改装したバー。そのカウンター席に、東条が腰を据えていた。

冬枯れの街は日が短い。早く落ちた夜の帳の中、カウンターの端に置かれた小さなライトが、ほの暗い空間に柔らかな陰影を落とす。密談にはうってつけの、静かな大人の空気が漂っていた。

東条の前のグラスには、アイラ島のスモーキーな香りを湛えたスコッチが揺れている。泥炭の重い香りが鼻腔をくすぐり、胸の奥にじんわりと沁みていく。

「今日は、トレセン学園からで?」

カウンター越しに、バーテンダーが穏やかに声をかける。

「トレーナーは、休業だ」

「そうですか……」

マスターは残念そうにグラスを磨いた。その時、外から人の気配。重厚な木の扉が軋み、ゆっくりと開く。

「いらっしゃいませ」

入ってきた男は、テンガロンハットとコートを入口のフックに掛けると、東条の隣へ歩み寄った。

「待たせたな、東条さん」

「いえ、一杯目に口をつけたところです。宮園トレーナー」

宮園は軽く指を鳴らし、シェリー樽熟成のスコッチを注文する。黄金色の液体が天然氷の入ったグラスに注がれ、静かに輝いた。宮園はそれを口に含み、甘く苦い余韻を楽しむ。

「で、どんな話だい?」

顎髭を撫でながら、宮園は横目で東条を促した。

東条は俯き、両手でグラスを包み込むようにして言った。

「ルドルフのことです……」

宮園は予想していたように頷き、黙って続きを待つ。

「初めて、負けてしまいました……」

無敗の三冠を達成したわずか二週間後、さらなる高みを求めた挑戦は叶わなかった。

「後悔しているのか?」

「ええ……」

心の奥を突かれた東条は、弱々しく吐露する。グラスをあおり、深いため息が店内に落ちた。

「体調不良なのに、レースに出走させてしまった。なぜ、取り消す勇気がなかったのかと……。ジャパンカップ、私は怖くなって逃げたのかもしれません」

宮園は黙って聞き、ウイスキーを一口で飲み干す。

「失敗ばっかりです……」

東条の声は震えていた。宮園はシガレットケースを取り出し、灰皿がそっと置かれる。

「姉のシンボリフレンドも、潰してしまった……」

自嘲がこぼれ落ちる。

「そうか……」

宮園は紙巻タバコを咥え、古いオイルライターで火を灯した。橙色の火が揺れ、紫煙がゆっくりと立ち上る。

「ルドルフが三冠を取ったのは、彼女自身の能力だ。東条トレーナーが何をしたか、じゃない。結果は事実として残る。誰も逃れられない」

紫煙が、静かに真実を突きつける。

「俺だって、ビゼンニシキをな……」

宮園は遠くを見るように目を細めた。

「……マイルG1なら、サセックスでもジャックルマロワでも勝てる器だった」

世界最高峰のレース名が、静かに落とされた。

東条は気づく。宮園もまた、秋の路線変更でビゼンを故障させ、二度とレースに戻れなくなった苦しみを抱えているのだと。

胸が熱くなり、顔が紅潮する。

「ビゼンは、サブトレーナーを目指している」

宮園は短くなったタバコを灰皿に押しつけた。

「自分が見出したウマ娘を育てたいんだろうな。楽しみだよ、トレーナーとして」

宮園は豪快に東条の背中を叩いた。

東条の目に涙が滲む。

「東条、ルドルフがトレーナーを選んだ日のこと、覚えているか?」

宮園の言葉に、東条はあの日を思い出す。

彼女のことを一番理解していると、必死に訴えた。

その結果、シンボリルドルフのトレーナーになれたのだ。

「ええ……嬉しかったです」

「そうか」

宮園はグラスを傾け、空になった氷がカランと崩れた。

ウマ娘の成長を見守る日々。

歓喜も絶望も味わってきた。

本来、酒に逃げる余裕などないはずだ。

だが、時に人はアルコールに身を委ね、過去を誤魔化す。

それでも――夜は必ず明ける。

東条は静かに悟った。

初心に戻り、前を向くしかないのだと。

「もう、ルドルフから逃げません」

胸を叩き、力強く宣言する。

「再び最強ウマ娘として立ち直らせたい。証明したい」

そして、深く息を吸い、覚悟を言葉にした。

「今後、体調が悪いのに出走しようとしたら……その時は身体を張ってでも止めます」

「なるほど。だが、気をつけろよ」

宮園はタバコを咥え、火をつけながら諭す。

「ルドルフは来年、シニア級だ。身体の成長は止まり、立派なレディになる。もう、自分でトレーニングもレースも判断できる」

紫煙がゆらりと揺れた。

「プライド、高いぞ。シンボリルドルフは。対等に向き合え。ケンカするなよ……」

東条は唇を噛み、黙って頷いた。

宮園は吸いかけのタバコを灰皿に置き、空のグラスを掲げる。

「マスター、もう一杯。今度は東条と同じやつで」

「宮園さん、飲む気満々ですね」

東条の表情が、ようやく緩んだ。

「今夜は、じっくり腰を据えようぜ」

宮園がウインクを送る。

東条は、長い夜になると感じながらも、悪くないと思った。

そして、静かに流れる時間に身を委ねるように、追加の一杯を注文した。

 

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