皇帝の蹄跡 ― ウマ娘 シンボリルドルフ物語 ― 作:久遠 透
東京・銀座。日本有数の繁華街は、十二月ともなれば師走の気配に満ち、行き交う人々の足取りもどこか急いている。だが、百貨店やブランドショップが立ち並ぶメインストリートは、クリスマスを控えたイルミネーションに彩られ、冬の空気にきらめきを添えていた。
その華やぎから少し外れ、昭和通り付近の東銀座へ入ると、街並みは一転する。中小のオフィスビルや古い商店が混在し、昭和の匂いを残す一角がひっそりと息づいている。
その裏路地に佇む、古い商店を改装したバー。そのカウンター席に、東条が腰を据えていた。
冬枯れの街は日が短い。早く落ちた夜の帳の中、カウンターの端に置かれた小さなライトが、ほの暗い空間に柔らかな陰影を落とす。密談にはうってつけの、静かな大人の空気が漂っていた。
東条の前のグラスには、アイラ島のスモーキーな香りを湛えたスコッチが揺れている。泥炭の重い香りが鼻腔をくすぐり、胸の奥にじんわりと沁みていく。
「今日は、トレセン学園からで?」
カウンター越しに、バーテンダーが穏やかに声をかける。
「トレーナーは、休業だ」
「そうですか……」
マスターは残念そうにグラスを磨いた。その時、外から人の気配。重厚な木の扉が軋み、ゆっくりと開く。
「いらっしゃいませ」
入ってきた男は、テンガロンハットとコートを入口のフックに掛けると、東条の隣へ歩み寄った。
「待たせたな、東条さん」
「いえ、一杯目に口をつけたところです。宮園トレーナー」
宮園は軽く指を鳴らし、シェリー樽熟成のスコッチを注文する。黄金色の液体が天然氷の入ったグラスに注がれ、静かに輝いた。宮園はそれを口に含み、甘く苦い余韻を楽しむ。
「で、どんな話だい?」
顎髭を撫でながら、宮園は横目で東条を促した。
東条は俯き、両手でグラスを包み込むようにして言った。
「ルドルフのことです……」
宮園は予想していたように頷き、黙って続きを待つ。
「初めて、負けてしまいました……」
無敗の三冠を達成したわずか二週間後、さらなる高みを求めた挑戦は叶わなかった。
「後悔しているのか?」
「ええ……」
心の奥を突かれた東条は、弱々しく吐露する。グラスをあおり、深いため息が店内に落ちた。
「体調不良なのに、レースに出走させてしまった。なぜ、取り消す勇気がなかったのかと……。ジャパンカップ、私は怖くなって逃げたのかもしれません」
宮園は黙って聞き、ウイスキーを一口で飲み干す。
「失敗ばっかりです……」
東条の声は震えていた。宮園はシガレットケースを取り出し、灰皿がそっと置かれる。
「姉のシンボリフレンドも、潰してしまった……」
自嘲がこぼれ落ちる。
「そうか……」
宮園は紙巻タバコを咥え、古いオイルライターで火を灯した。橙色の火が揺れ、紫煙がゆっくりと立ち上る。
「ルドルフが三冠を取ったのは、彼女自身の能力だ。東条トレーナーが何をしたか、じゃない。結果は事実として残る。誰も逃れられない」
紫煙が、静かに真実を突きつける。
「俺だって、ビゼンニシキをな……」
宮園は遠くを見るように目を細めた。
「……マイルG1なら、サセックスでもジャックルマロワでも勝てる器だった」
世界最高峰のレース名が、静かに落とされた。
東条は気づく。宮園もまた、秋の路線変更でビゼンを故障させ、二度とレースに戻れなくなった苦しみを抱えているのだと。
胸が熱くなり、顔が紅潮する。
「ビゼンは、サブトレーナーを目指している」
宮園は短くなったタバコを灰皿に押しつけた。
「自分が見出したウマ娘を育てたいんだろうな。楽しみだよ、トレーナーとして」
宮園は豪快に東条の背中を叩いた。
東条の目に涙が滲む。
「東条、ルドルフがトレーナーを選んだ日のこと、覚えているか?」
宮園の言葉に、東条はあの日を思い出す。
彼女のことを一番理解していると、必死に訴えた。
その結果、シンボリルドルフのトレーナーになれたのだ。
「ええ……嬉しかったです」
「そうか」
宮園はグラスを傾け、空になった氷がカランと崩れた。
ウマ娘の成長を見守る日々。
歓喜も絶望も味わってきた。
本来、酒に逃げる余裕などないはずだ。
だが、時に人はアルコールに身を委ね、過去を誤魔化す。
それでも――夜は必ず明ける。
東条は静かに悟った。
初心に戻り、前を向くしかないのだと。
「もう、ルドルフから逃げません」
胸を叩き、力強く宣言する。
「再び最強ウマ娘として立ち直らせたい。証明したい」
そして、深く息を吸い、覚悟を言葉にした。
「今後、体調が悪いのに出走しようとしたら……その時は身体を張ってでも止めます」
「なるほど。だが、気をつけろよ」
宮園はタバコを咥え、火をつけながら諭す。
「ルドルフは来年、シニア級だ。身体の成長は止まり、立派なレディになる。もう、自分でトレーニングもレースも判断できる」
紫煙がゆらりと揺れた。
「プライド、高いぞ。シンボリルドルフは。対等に向き合え。ケンカするなよ……」
東条は唇を噛み、黙って頷いた。
宮園は吸いかけのタバコを灰皿に置き、空のグラスを掲げる。
「マスター、もう一杯。今度は東条と同じやつで」
「宮園さん、飲む気満々ですね」
東条の表情が、ようやく緩んだ。
「今夜は、じっくり腰を据えようぜ」
宮園がウインクを送る。
東条は、長い夜になると感じながらも、悪くないと思った。
そして、静かに流れる時間に身を委ねるように、追加の一杯を注文した。