「……ということで、わたくしは今日一日で、これまでの人生で培ってきた常識のすべてを根底から覆されるような、恐ろしい体験をしたのですわ」
メジロマックイーンは、疲れ切った声でそう締めくくると、手元のマグカップに入った温かいハーブティーを一口飲んだ。夜の栗東寮。マックイーンと同室のイクノディクタスは、自身のデスクに向かって何やら資料を整理していた手を止め、静かに眼鏡の位置を直した。
「……なるほど。地下の巨大ジンギスカン鍋で四足歩行の未知の生物と対峙し、地上に戻れば爽やかなスポ根ドラマが展開され、学食では喋るハンバーグが鼻毛で網焼きにされていた……と。そういうことですね?」
イクノディクタスの声は、いつも通り淡々としており、論理的だった。マックイーンはコクコクと力強く頷く。
「ええ、そうですわ! しかもテイオーったら、あの喋るオレンジ色のトゲトゲを『有機野菜のハンバーグ』だなんて……! わたくし、本当に頭がおかしくなってしまったのかと……!」
「マックイーン」
イクノディクタスは、静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声で、マックイーンの言葉を遮った。
「落ち着いてください。あなたの仰る状況は、確かに非論理的かつ常軌を逸しています。しかし、一つだけ明確な事実をお伝えしましょう」
「……事実?」
イクノディクタスは、手元のタブレット端末を操作し、画面をマックイーンに向けた。そこには、学園の公式イントラネットに掲載された、新任トレーナーの紹介ページが表示されていた。
「本日付で、当学園に新しいトレーナーが赴任したことは事実です。名前は『ボボボーボ・ボーボボ』氏。そして、彼と専属契約を結んだのが、ゴールドシップさんであることも、また事実です」
「な……っ!?」
マックイーンは、タブレットの画面に釘付けになった。そこには、金髪のアフロヘアーにサングラスという、どう見てもカタギではない巨漢の顔写真が、堂々と掲載されている。しかも「得意な指導方針:ハジケ、毛根の救済、ところてんの有効活用」などと、意味不明な文言が並んでいた。
「嘘……嘘ですわ……! 学園側も、あんな不審者を正式なトレーナーとして認めたというのですか!?」
「認可プロセスにどのような事情があったのかは不明ですが、データとして登録されている以上、彼は正規のトレーナーです」
イクノディクタスは、冷徹な事実を告げる。
「ただ……」
彼女は少しだけ眉をひそめ、言葉を継いだ。
「私が夕方、トレーニングルームの前を通りかかった際、彼らを見かけましたが……あなたが仰るような、巨大なちくわや喋るハンバーグの類は、一切確認できませんでした」
「えっ……?」
「彼らは、非常に熱心に、そして真面目に、ウェイトトレーニングのフォーム確認を行っていましたよ。ボーボボ氏の指導は的確で、ゴールドシップさんも真剣な表情でそれに応えていました。少なくとも、私の目には『情熱的なトレーナーと、それに応えようとするウマ娘』の美しい師弟関係にしか見えませんでした」
「……ええ……?」
マックイーンの顔面から、再びスッと血の気が引いていく。地下から戻った直後の、あの異常なまでの「シリアス空間」が、イクノディクタスの前でも展開されていたというのか。
「……じゃあ、わたくしが見たアレは……やっぱり、幻覚……?」
「ストレス性の幻覚、あるいは極度の疲労による白昼夢の可能性は否定できません。ゴールドシップさんの奇行に付き合わされることで、あなたの精神的な負担が限界に達していたとしても不思議ではありませんから」
イクノディクタスは、引き出しから小さなピルケースを取り出し、カプセルを一つ取り出した。
「胃腸の調子も優れないご様子。念のため、胃薬を飲んでおきますか?」
「……はい。いただきますわ……。ありがとうございます、イクノさん」
マックイーンは、力なく胃薬を受け取ると、水で一気に流し込んだ。胃の奥に広がる、冷たい感覚。
(そう、ですわよね。イクノさんの言う通り、自分が疲れているだけ。そうに決まっています。あのオレンジ色のトゲトゲも、水色のゼリーも、すべては自分の脳が作り出した幻影に決まっています)
「今日はもう、ゆっくりお休みになった方がいいでしょう。明日のトレーニングに支障が出ないよう、十分な睡眠をとることをお勧めします」
「……ええ。そうしますわ。イクノさん、おやすみなさい」
マックイーンは、ベッドに潜り込み、布団を頭まで被った。暗闇の中で、目を閉じる。
(そうだわ……すべては幻。明日の朝になれば、いつもの平和なトレセン学園に戻っているはず……)
そう自分に言い聞かせながら、マックイーンは深い眠りへと落ちていった。
■
……しかし、彼女は知らなかった。
彼女が眠りについた後、イクノディクタスがタブレット端末の電源を切り、小さくため息をついたことを。
そして、そのイクノディクタスの背中――正確には、彼女の制服の襟首の裏側に、「極小サイズの首領パッチ」がセミのようにガッチリとしがみつき、ニヤリと不敵な笑みを浮かべていたことを。
『……ピスピスピスピス。こちら首領パッチ。第4ターゲットの無力化に成功。メガネっ娘の背中は、案外居心地がいいぜ。オーバー』
深夜の栗東寮に、誰にも聞こえないハジケリストの通信が、密かに響き渡っていた。