「ふあぁ…よく寝たぁ…」
廃墟の固い床で泥のように眠っていたミーナは、朝日が差し込む薄暗い広間で伸びをした。
知性は回復。
体調も万全。
しかし、残された『シエル=激辛』のトラウマは健在で、脳内では毎朝カレーの匂いに悶絶している。
「ミーナさん、おはよう。…あの、私、志貴くんとちょっと話したいことがあるから、先に行ってくるね」
さつきが、どこか不安げな表情で廃墟を出て行った。
(志貴くんに、今の私のことを話すのかな…。あー、もう、絶対『十七分割にしてこい』とか言われるー!)
ミーナは頭を抱えながらも、重い足取りで後を追うことにした。
「…はぁ。やっぱりさっちん、志貴くんと話してる間に泣いちゃったかな…」
夜の公園。
人気のない場所に差し掛かったミーナは、さつきの気配を探しながら歩いていた。
その時、公園の中心に立つ巨大な時計台の影から、異様な気配が滲み出るのを感じた。
それは、まるで凍りついた鉄のような冷たさと、荒々しい暴力性を兼ね備えた「何か」。
ネロが言っていた『リメイク版』の中ボス。
その存在を、ミーナの生存本能が全力で警告していた。
「…そこの貴様。我が主の仇、この三咲町に潜む吸血種か?」
低い、しかし確かな殺意を帯びた声。
月明かりの下に現れたのは、凍気を纏った痩身の男だった。
氷の槍を携え、その瞳には何の感情も映っていない。
「(来たぁぁぁ! 何これ!? うろ覚え知識にない! 誰!? 話、絶対通じない奴じゃん!)」
ミーナの脳内回路がフル回転する。
シエルならまだ「人間的な感情」があった。
ネロなら「論理的な会話」ができた。
だが、目の前の男からは、ただひたすらに「殺す」という明確な意志しか感じられない。
「…あの、えーっと。私はミーナ・アルナストラ。しがない空手家で、趣味は精神統一です。貴方様は、どちら様で?」
精一杯の社交辞令。
しかし、男は無言で氷の槍を構えた。
「返答は不要。我が名はヴローヴ・アルハンゲリ。我が主の命を受け、この地のすべての『化生』を凍結させる」
「…あ。やっぱり話通じないやつだ。ダメだこりゃ!」
ミーナの思考は、即座に結論を弾き出した。
交渉不可。
対話不可能。
殺意100%。そして、何よりこのままだと、問答無用で物理的に凍らされて死ぬという現実。
「ッ…! 簒奪者の宴、全力展開! 琉球空手、初段!」
ミーナは、知性が回復してからの最大出力で魔力を展開。
自身の周囲の「熱」そのものを吸い取り、体温を上げることで凍結を防ぎながら、琉球空手の構えを取る。
「ほう。我が『炎氷』に耐えうるとは…。しかし、無意味だ。貴様のような雑種、一瞬で凍土に変えてやる」
ヴローヴの全身から、凍えるような炎――「炎氷」が噴き出す。
それは、熱と冷気という相反する概念が同時に存在する、狂気の魔術。
「うわあああぁぁぁ!寒い! 痛い! 脳が焼ける! 冷凍される! 私の肉体が物理的にバグるぅぅぅぅ!!」
ミーナは、泣き叫びながら全力で公園を逃げ回った。
根源接続の『無』を発動すれば凍結を防げるだろうが、それは人格崩壊という代償を伴う。
シエルを相手にした時とは比べ物にならない「話の通じなさ」と「純粋な暴力」に、ミーナの「死にたくない」という生存本能が、かつてない悲鳴を上げていた。
(なんでぇぇぇ! 私、せっかく知性取り戻したのに! 難易度おかしいよぉぉぉ!!)
夜の公園に、二十七祖候補の絶叫が虚しく響き渡る。
ヴローヴとの遭遇は、ミーナにとって、これまでのどの戦いよりも過酷で「残念な」ものとなりそうだった。
「…学習したわ。私は、学習する死徒なのよ…!」
ヴローヴの放つ、狂気の魔力が公園の木々を瞬時に凍らせていく。
その地獄絵図の真っ只中で、ミーナは必死に…しかし冷静に、脳内の演算回路をフル稼働させていた。
知性は高い。
前回の『人格ストップ安』の経験から、彼女は学んでいた。
「根源」に触れすぎるのがマズいなら、その手前——魔術回路を「一時的にバイパス」して、高負荷を分散させればいい。
「リメイク版でも出たんだろうけど(確信)…こっちは前世でデスマーチを生き抜いたシステムエンジニアなのよ! 負荷分散くらい、お手の物なんだからぁ!!」
ミーナは両手を前方に突き出す。
右手の指、左手の指。合計十本の指先。
「一発でダメなら、十分割して撃ち出すまでよ! 喰らえ…『指先電磁投射砲・分散型(クラスター・レールガン)』!!」
前回の反省を活かし、一本の指に全出力を込めるのではなく、十本の指先に魔力を小分けに充填。
自身の特性「簒奪」で周囲の凍気を逆に吸い込み、エネルギー源として再利用する。
パパパパパパパパパパンッ!!
夜の公園に、乾いた連続爆音。
十条の光の筋が、ヴローヴの周囲の「炎氷」を強引に切り裂き、その白亜の鎧に直撃する。
「…ッ!? 物理衝撃に、因果の簒奪を混ぜたか…!」
ヴローヴの体が大きく後退する。
一本一本の威力は前回より低いが、弾幕となって押し寄せる光の連打は、リメイク版中ボスの強固な防御すら強引に削り取っていく。
「今よ! さっちん、逃げるわよぉぉぉ!!」
「あ、うん! ミーナさん、すごい…!」
煙が立ち込める中、ミーナはさつきの腕を掴んで爆走を開始した。
前回のように「あへー」とはなっていない。
脳はまだ、ギリギリで論理を保っている。
「…はぁ、はぁ…。あ、危なかった。…でも、やっぱり…ちょっとだけ、頭がふわふわする…。九九の、七の段が…思い出せない…。しちしち、しちじゅうはち…?」
「ミーナさん、それちょっとヤバいよ! 惜しいけど間違ってる!」
知性は保った。
だが、代償として「特定の一般常識」が一時的に簒奪(セルフ消去)されたらしい。
「いいのよさっちん、九九なんて、電卓があればいいの…。それより、今のうちに…どこか、シエルさんのカレーの匂いがしない安全な場所に…」
背後では、ヴローヴが凍りついた地面を砕きながら立ち上がる音が聞こえる。
完全に倒したわけではない。
あくまで「一時的な撃退」。
だが、ミーナは確かな手応えを感じていた。
(…いける。私、このまま行けば、リメイク版の世界線でも『一番長生きする残念な祖』になれるかもしれない…!)
知性は高い(九九は一部忘れたが)。
戦闘力も異常。
ミーナ・アルナストラの、綱渡りのような生存戦略は、ついに「新章」へと足を踏み入れた。
「しちしち…しちじゅう、さん…? いえ、しちじゅう…無(む)!」
九九の概念が脳からログアウトし始めたミーナは、さつきに手を引かれながら公園の広場へと転がり込んだ。
背後からは、ヴローヴが放つ「凍てつく炎」の熱気が、アスファルトを割りながら追いかけてくる。
「――そこまでだ、化け物!」
闇を切り裂く、鋭い声。
街灯の逆光を浴びて、一人の少年が立っていた。
遠野志貴。
その手には、月光を吸い込んで妖しく光るナイフが握られている。
「志貴くん!」
「遠野…さまぁ! しちしち四十九が思い出せません助けてくださーい!」
ミーナは、志貴の姿を見た瞬間、全てのプライドを放り投げてその背中にダイブした。
知性は高いはずなのに、恐怖がピークに達すると真っ先に「一番安全な盾」の後ろに隠れる。
これが彼女の生存戦略だ。
「…ミーナさん、大丈夫だ。さつきも、よく彼女を守ってくれたね」
志貴の瞳は、すでに眼鏡を外し、「死」の線を見据えていた。
追いかけてきたヴローヴが、氷の鎧を軋ませながら足を止める。
「…直死、か。またも忌々しい眼を持つ者が現れたな」
ヴローヴの殺気が志貴に向けられる。
一触即発。リメイク版の暴力の権化と、全てを解体する魔眼の持ち主が激突しようとした、その時。
「待って志貴くん! その人、すごく強くて、すごく話が通じなくて、しかも物理法則が私の知識と違うの! だから、その…」
ミーナは志貴の制服の裾をギュッと掴みながら、涙目でささやいた。
「…後ろから私が、彼の『冷気の出力』を簒奪(ハッキング)して弱めるから! 志貴くんは、あの一番太くて、一番キラキラしてる『線』をプスッといっちゃって!」
知性は高い(九九は忘れたが)。
土壇場で、志貴の魔眼の特性と、自分の簒奪、そしてヴローヴの術式のパワーバランスを演算し、「最小の労力で最大の致死を与える」協力プレイを瞬時に提案したのだ。
「…わかった。タイミングは任せるよ、ミーナさん」
「…いくわよ! 『簒奪者の宴・限定接続』!!」
ミーナが志貴の肩に手を置くと、志貴の視界に映る「死の線」が、より鮮明に、より「止まって」見えるようになった。
ミーナがヴローヴの周囲の事象速度を無理やり吸い取って、遅延させているのだ。
「――そこだ!!」
志貴が踏み込む。
ミーナのサポートを受け、因果すら歪める速度で放たれた一撃。
リメイク版中ボスの「凍てつく死」と、転生した残念な祖候補の「生存への執念」が、今、月下で交差する。
「…ッ!? 概念の、遅延だと…!?」
ヴローヴの氷の槍が、志貴の喉元を貫く寸前で「静止」した。
ミーナが自身の魂をリソースに、ヴローヴが周囲から吸い上げる熱エネルギーを強引に逆流させ、彼の術式そのものを一時的に「フリーズ」させたのだ。
その一瞬の隙。
志貴の短刀が、ヴローヴの胸元に走る「一番太い線」を正確に捉え、奔った。
パキン――!!
ガラスが砕けるような硬質な音。
ヴローヴの纏っていた白亜の凍土が霧散し、彼の胸部から膨大な「死」の気配が溢れ出した。
「…ぐ、お…。ただの死徒(ミーナ)と、ただの人間(志貴)に、この私が…」
ヴローヴはよろめき、その身を灼くような焦燥感に目を細めた。
知性は高いミーナは、すかさず追撃…ではなく、「さあ、今のうちに帰って!」と言わんばかりの全力の威嚇(というか震えているが)を見せる。
「いいですか、ヴローヴさん! 私たちの後ろには、まだ『お腹を空かせた最強の真祖』とか、『カレーが主食の処刑人』とか、もっと話が通じないのが控えてるんです! 今日はこのくらいで勘弁してあげますから、大人しくシベリアあたりに帰ってください!」
「…。ミーナ・アルナストラと言ったか。その忌々しい『簒奪』の理、覚えておくぞ。…我が飢えが満たされる時、次こそは貴様をこの街ごと凍結させてやる」
ヴローヴは、噴き出す凍気の霧に紛れ、その場からかき消えるように撤退していった。
「…ふぅ。…ふぅ。勝った…? 私たち、リメイク版の中ボスに勝っちゃった?」
ミーナは緊張の糸が切れた瞬間、その場にへたり込んだ。
知性は高い。
ゆえに、今自分たちがどれほど薄氷を踏む勝利を収めたのかを理解し、全身の毛穴から冷や汗が吹き出している。
「大丈夫だよ、ミーナさん。彼、完全に気配が消えた。…助かったよ、君のサポートがなかったら、今頃僕はカキ氷になってた」
志貴が眼鏡をかけ直し、優しく手を差し伸べる。
「あうぅ…志貴くん…。私、頑張ったでしょ。褒めて。あと、しちしち四十九って教えて。…あ、あれ? 思い出した! 私、九九、言える! 7×7は、49だぁぁぁ!!」
「よかったね、ミーナさん。…でも、さっきの『簒奪』、ちょっと無理しすぎじゃない?」
さつきが心配そうに駆け寄る。
ミーナは志貴の手を借りて立ち上がり、月を見上げた。
九九は戻った。知性も安定している。しかし、ミーナは気づいてしまった。
(…待って。私、今、ヴローヴの『冷気の理』を一部簒奪したよね? そのせいで…私の体、さっきから『かき氷のブルーハワイ』みたいな匂いがしてない!?)
「…ねえ、志貴くん。私、なんか美味しそうな匂いする?」
「え? ああ、そういえば…なんだか、すごく夏祭りみたいな匂いがするね」
知性は高いが、副作用が常に斜め上。
リメイク版の脅威を退けた代償に、全身からブルーハワイの芳香を放つことになった二十七祖候補。
「…ま、いっか! 生きてるし! さっちん、帰りにコンビニで温かいお茶買って帰ろう!」
「…うん、そうだね。ミーナさん」
こうして、三咲町の長い夜は、甘い匂いと共に一旦の平穏を迎えるのだった。