美咲町の近くに使徒の気配を感じ駆けつけたミーナを待っていたのは忘れもしない後悔でした。
「…さっちん、志貴くん。…悪いけど、ここからは一人でやらせて」
三咲町の境界線、人跡未踏の荒野。
そこに立つミーナの背中からは、これまでの「残念」なオーラが一切消え失せていた。
月明かりを浴びて現れたのは、かつて煮湯を飲まされた第十位、ヴローヴ・アルハンゲリ。
「…夏の残響か。その甘い匂い、今度こそ氷土の下で永遠に凍結させてやる」
「…悪いけど、ヴローヴ。今の私は、ちょっと『機嫌』が悪いんだ」
ミーナが指先を自分の喉元に当てる。
知性は高い。
ゆえに、自分を縛る「社畜精神」という名の最強のリミッターを、どの術式で解除すればいいか、彼女は正確に理解していた。
「【概念制限、全面解除(アンリミテッド・ログオフ)】。…定時退勤の時間よ。残業(吸血衝動)代は、高くつくわよ?」
その瞬間。
ミーナの周囲を漂っていた「ブルーハワイの甘い匂い」が、一瞬で「絶対零度の虚無」へと塗り替えられた。
白髪はさらに伸び、瞳は血のような赤を通り越し、深淵の闇を湛えた「黒」へと変質。
「死にたくない」という卑屈な執念が、「生きるためにすべてを食い尽くす」という純粋な簒奪の意志へと昇華。
周囲数キロメートルの「熱」と「理」を強制的に吸い上げ、彼女の立ち位置が世界の中心(根源への穴)となる。
「…な、んだと…? そのプレッシャー、貴様、本当にあの時の女か…!?」
ヴローヴが驚愕に顔を歪める。
彼が放った「炎氷」が、ミーナに届く前に、まるで最初から存在しなかったかのように彼女の影へと吸い込まれて消えていく。
「…九九? 七×七は…死(し)だ。 七×八も…死(し)だ。」
ミーナが静かに一歩を踏み出す。
もはや九九を忘れているのではなく、「すべての演算の答えを『死(簒奪)』に固定」しているのだ。
「【簒奪者の晩餐会(カニバリズム・イーター)】」
ミーナが右手を軽く薙ぐ。
それだけで、ヴローヴが纏っていた数千年の氷の鎧が、ボロボロと砂のように崩れ落ちた。
魔力だけでなく、彼の「存在の連続性」そのものが、ミーナという巨大な虚無に食われ始めている。
「…あ、あぁ…。これが、根源に触れた者の…本性か…!」
ヴローヴは、恐怖という感情を数百年ぶりに思い出した。
目の前にいるのは、可愛い女の子ではない。
「生きたい」という呪いそのものが受肉した、理不尽な神の欠片だ。
「…消えて。私の平穏な夏を、邪魔する奴は…全員、簒奪する」
ミーナの指先から、電磁投射砲などという物理現象を超えた、「事象そのものを消去する黒い閃光」が放たれた。
戦いの後、ヴローヴは、その存在の半分以上を失い、霧散するように逃走した。
第十位を、正面から、文字通り「格の違い」で見せつけて圧倒したのだ。
「…ふぅ。…あ、れ…?」
数分後。
リミッターが再び閉じたのか、ミーナの瞳に光が戻り、髪が元の長さに戻っていく。
そして…
「…はっ! 私、今、カッコいいこと言った!? 『残業代は高くつく』とか言っちゃった!? うわあああ、恥ずかしい! 死ぬ! 死んでるけど恥ず死するぅぅぅ!!」
「…ミーナさん、戻ったみたいだね」
「うん…。すごかったけど、やっぱりいつものミーナさんだ」
志貴とさつきが、呆れ半分、安心半分で駆け寄る。
ミーナの体からは、再び「ブルーハワイ」の甘い匂いが漂い始めていた。
「志貴くん! 今の、動画とか撮ってないよね!? 黒歴史確定だよ! 九九の答えが全部『死』とか、中二病の極みじゃない! 誰か私の記憶を簒奪してぇぇぇ!!」
知性は高いが、覚醒した後の「賢者タイム(羞恥心)」も人一倍。
最強の力を持ちながら、結局は頭を抱えてのたうち回るミーナ・アルナストラ。
彼女が「夏の残響」として三咲町の平和(?)を守る日々は、まだしばらく続きそうである。
「…はぁ。まったく、貴女という人は」
ヴローヴを「精神的黒歴史」と共に追い払った翌日。
三咲町のファミレスで、シエルは向かい側に座るミーナを、これ以上ないほど冷ややかな、しかしどこか納得したような目で見つめていた。
「…えへへ。シエルさん、そんなに私を見つめないでくださいよ。ブルーハワイの匂い、そんなに癖になります?」
ミーナは、パフェのチェリーを突きながら、いつものようにヘラヘラと笑っている。
だが、シエルはその背後に潜む「深淵」を、昨夜の戦いの残滓から確かに感じ取っていた。
「…お世辞ではありません。正直、貴女のことを『運良く転生しただけの残念なイレギュラー』だと侮っていました。ですが、訂正します。貴女、ちゃんと第十二位に相応しい『格』を持ち合わせていたんですね」
「…えっ?」
ミーナの手が止まる。
シエルは、あえてカレーを一口食べてから、真剣な口調で続けた。
「ヴローヴの『炎氷』を術式ごと、概念ごと飲み干すなんて。…あの瞬間、貴女から感じた気配は、もはや死徒ではなく『世界の穴』そのものでした。教会の記録に並ぶ、歴代の怪物たちと同等の…いいえ、それ以上に質の悪い恐怖を、私は貴女に感じましたよ」
「………」
「…ですから、呆れているんです。それほどの力を持ちながら、何故、普段はそんなに『ダメな隣人』のフリができるのか。あるいは、その強大な力を、どうして『真祖ににゃんこ語を教える』なんていうゴミのような用途に消費できるのか…。その精神構造こそが、最大の神秘ですよ」
シエルは、心底信じられないものを見るような目で、深く、深いため息をついた。
「あ、あの、シエルさん? それ、褒めてます? 遠回しにディスられてる気がするんですけど」
「褒めていますよ。…『人類にとって、敵対しなくて済むのならこれほど有難い怪物はいない』という意味では」
シエルはそう言うと、伝票をひょいとつまみ上げた。
「今日の代金は私が持ちましょう。第十二位が本気を出して、この街を『無』に書き換えられても困りますから。…その代わり、ミーナさん」
「は、はい!?」
「九九の七の段、もう一度最初から言ってください。 私が納得するまで、ここから出しませんよ」
「ひっ!? し、しちいちが…しち。しちに…じゅうし。しち…しち…死(し)!!」
「…やっぱり、貴女の知性は、どこか致命的に欠けているようです」
知性は高い(はず)。
格も足りている(らしい)。
しかし、三咲町の日常において、ミーナ・アルナストラが「格好いい祖」として扱われる日は、永遠にやってこないようであった。
ある日、それは突然やってきた。
「…やれやれ。どの編み目(平行世界)を覗いても、決まって『ネロの胃袋行き』がテンプレだったはずの小娘が。まさか、運命を簒奪して第十二位にまで上り詰めるとはな」
三咲町の公園、その街灯の下。
空間が万華鏡のように歪み、一人の老人が姿を現した。
キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。
平行世界を観測し、多重次元を統べる「魔道元帥」が、ただ一人の「バグ」を見るためだけに、わざわざその足を運んだのだ。
「ひっ!? ちょ、ちょっと待って! そのマント、その宝石のような魔力、そしてその『お前、面白いことになってるな』っていう、すべてを見透かしたような意地の悪い視線…!」
ミーナは、パフェを食べていたスプーンを落とし、本能的にさつきの背後に隠れた。
知性は高い。
ゆえに、目の前の存在が「リメイク版」だろうが「旧作」だろうが、関わったら最後、人生がさらに滅茶苦茶になる特大のイレギュラーであることを察知したのだ。
「ミーナ・アルナストラ。…いや、『夏の残響』だったか」
「そ、その名前で呼ぶなぁぁ! ゼルレッチのおじいさま! 私はただの、目立ちたくない、長生きしたいだけの、しがないブルーハワイ死徒ですよ! ほら、宝石とか持ってないし、魔法も使えません!」
ゼルレッチは、愉快そうに喉を鳴らした。
「左様。あらゆる平行世界において、お前という魔術師は『ネロ・カオスに出会い、そして喰われる』という一点において安定していた。…だというのに、この世界ではネロと交流し、真祖を懐柔し、挙句の果てに自力で根源の門をノックした」
老魔術師の一歩。それだけで、周囲の並行世界の可能性が激しく明滅する。
「お前が死徒になった。その一点で、この世界の未来予測はすべて白紙になった。…面白い。実に面白いぞ、小娘。お前は、私が観測してきた数多の『ミーナ』の中で、唯一、ネロの腹の中から脱出した個体だ」
「…うう、それ、喜んでいいのか微妙なところなんですけど…。というか、他の世界の私、死にすぎじゃないですか!?」
「案ずるな。その『生存本能』こそが、お前をここまで連れてきたのだ。…だが、これほどの大金星を挙げたのだ。その代償として、今後お前の人生には、退屈という文字は二度と現れんぞ?」
「そんなの、今すぐクーリングオフしたいんですけどぉぉぉ!!」
ゼルレッチは、高笑いと共に再び空間の彼方へと消えていった。
後に残されたのは、あまりの出来事に魂が抜けかかったミーナと、不思議そうに空を見上げるさつき、そして――。
「…ねえ、ミーナさん。今の人、誰だったの?」
「…。…さっちん。…明日から、さらに変な奴らが来る気がする。私、やっぱり今からでも、ネロおじさんの胃袋に自分から飛び込んだ方が安全だったかもしれない…」
知性は高い。
ゆえに分かる。
「魔道元帥に目をつけられた」という事実が、これまでのどんな二十七祖との戦いよりも、彼女の「平穏な隠居生活」を絶望的なものにしたことを。
「…ま、いっか! 生きてるし! ゼルレッチさんにもらった(?)、このブルーハワイの匂い…いや、これは自前か! さあ、帰って寝ましょう、さっちん!」
「うん! 明日は志貴くんも一緒に、みんなでピクニックだよ!」
最弱の生存戦略で、最強の運命を簒奪し続ける女、ミーナ・アルナストラ。
彼女の「夏の残響」は、並行世界の果てまで、甘い匂いと共に響き渡っていく。
数年が経ち「夏の残響」という物々しい二つ名を持ちながら、実態は「ブルーハワイの匂いがする、ちょっと知性が残念な居候」として定着したミーナ。
ついに学校を卒業したさつきを連れて、彼女は人生最大の「決戦」に挑んでいました。
ヴローヴ戦より、ロア戦より、何ならゼルレッチとの遭遇よりも緊張するステージ。
そう、弓塚家のリビングルームです。
「…えー、コホン。本日はお忙しい中、お時間をいただき、誠にありがとうございます。…株式会社『夏の残響』、代表取締役のミーナ・アルナストラです」
「ミーナさん、会社じゃないから! それにその名刺、さっき私が手書きしたやつでしょ!」
さつきが隣で顔を真っ赤にして突っ込みますが、ミーナは正装(といっても簒奪してきた高級ブランド風のスーツ)に身を包み、膝が笑うのを必死に抑えていました。
対面に座る、さつきの両親。
彼らの目には、ミーナは「娘が一番苦しい時に寄り添ってくれた、恩人で、親友で、…なんだか不思議なほど若々しさを保っている謎の年上女性」と映っています。
「…お父様、お母様。単刀直入に申し上げます」
ミーナは意を決して、畳に頭をこすりつけました。
琉球空手の構えよりも、ずっと力強い土下座です。
「さつきさんを、私にください! 今後、彼女の衣食住、および魔力供給…ではなく、健康管理! そして何より、彼女の笑顔を、私が一生をかけて『守り抜く』ことを誓います!!」
「ミーナさん…!」
さつきの瞳に涙が浮かびます。
知性は高い。
ゆえに、ミーナはこの数年間、自分たちが「人間とは違う生き方」をしなければならない現実と、それでも「家族」として認められたいという矛盾に、ずっと向き合ってきました。
「…ミーナさん。顔を上げてください」
さつきの父親が、静かに口を開きました。
「正直なところ、貴女が何者なのか、私たちには完全には理解できていません。さつきが、あの日を境に少しだけ『特別』な子になったことも、貴女がそれを守ってくれていることも…親として、薄々感じてはいました」
「…あ」
「でも、この数年間のさつきは、今までで一番幸せそうでした。貴女と、遠野くんたちと一緒にいる時のあの子の顔を見れば、分かります。…娘が、貴女と一緒にいたいと言うのなら、私たちに反対する理由はありません」
母親も優しく微笑み、お茶を淹れ直しました。
「さつきをお願いしますね、ミーナさん。…でも、時々はあの子を連れて、うちに遊びに来てくださいね。美味しいイチゴのパフェ、用意しておきますから」
弓塚家を出て、三咲町の夕焼け空の下を歩く二人。
ミーナの体からは、緊張が解けたせいか、いつにも増して濃厚なブルーハワイの香りが漂っていました。
「…ねえ、ミーナさん。今の、プロポーズってことでいいのかな?」
「う、うるさいわね! 知性が高い私としては、公的な手続きを優先しただけよ! …でも、まあ。これでようやく、隠居生活も本格始動ね」
「ふふ、隠居なんて言っても、またアルクさんやシエルさんが騒ぎを持ってくるんでしょ?」
「その時は、さっちんが守ってね。私は後ろで九九の練習してるから」
二人の影が、長く伸びて重なります。
どの並行世界でもネロに喰われていたはずの小娘は、この世界で、最愛の弟子であり家族である少女の手を握りしめていました。
「…行こう、さっちん。私たちの、新しい『残響』の始まりよ!」
「うん、ミーナさん!」
彼女たちの夏はまだ終わらない。
あとがき
一旦ここまでになります。
次はおそらくメルブラを軽く流して(あの設定だと色々強いだろうから)もう少しだけ続くと思います。