三冠未遂 作:ひまんちゅ
彼女は、生まれたときから知っていた。
自分には、才能がない。
周囲のウマ娘たちが初めての坂路で歓声を浴びるなか、彼女はタイムボードを見て黙り込んだ。フォームも悪くない。心肺も平均以上。だが、どこにも「怪物」と呼ばれる要素がなかった。
「……分かりきってました」
そう言って、彼女は笑った。
だったら、やることは一つしかない。
遊びの時間を、全部捨てる。
放課後はトレーニング。休日もトレーニング。誕生日も、正月も、雨の日も、雪の日も。
筋繊維の回復速度、乳酸値の推移、心拍数の回復曲線、脚質ごとの最適ペース配分。
彼女は自分の身体を、実験装置のように扱った。
才能がないなら、理論で埋める。
才能がないなら、回数で潰す。
才能がないなら、時間で殴る。
やがて彼女は、クラシック前哨戦で勝った。
インタビューで、記者が聞く。
「急成長の秘訣は?」
彼女は汗を拭きながら、淡々と答えた。
「一年しか頑張ってない人たちが、私に勝てるわけないじゃないですか」
空気が凍る。
だがそれは、傲慢ではなかった。
ただの事実だった。
彼女は、他の誰よりも長く、重く、深く、走っていたのだから。
勝てた。
嬉しかった。
だが彼女は、タイム表の奥にある未来を見ていた。
(……縮んでる)
最初は一馬身差。
次は半馬身。
次はクビ差。
周囲のウマ娘たちは、伸びていた。
彼女はもう、ほとんど伸びきっていた。
才能とは、初速だ。
努力とは、加速だ。
だが、天井は確かにある。
皐月賞。
直線。
横に並ぶ影。
(ハナ差か……)
ゴール板を駆け抜けた瞬間、彼女は理解した。
勝ったかもしれない。
負けたかもしれない。
どちらでもいい。
――ここまでだ。
ウイニングランを拒否し、マイクを握る。
「引退します」
スタンドが揺れた。
「は?」
「三冠確実だぞ!?」
「怪我か!?」
彼女は静かに首を振った。
「いずれ抜かれます。今が、いちばん強い」
そのまま、レースの世界から消えた。
賞金は十分あった。
浪費もしない。
毎日、レース場に通うだけで暮らせた。
観客席で静かにレースを見る元クラシックウマ娘。
話しかけてくるファンには、塩対応。
「応援してました!」
「そうですか」
「三冠いけましたよね!?」
「無理です」
だが、ある日。
小さなウマ娘が、震える声で言った。
「……ドキュメンタリー、読みました。ずっと血反吐を吐きながら走ってたって……。大好きですっ」
彼女は一瞬だけ、目を細めた。
「……ありがとう」
「私も、あなたみたいになれますか!?」
沈黙。
「なれるよ」
少女の目が輝く。
「でも、やめておいた方がいい」
「え?」
「比喩じゃなく、血反吐を吐くことになるから」
優しい声だった。
残酷なほど、優しい。
ある日、元トレーナーが一人のウマ娘を連れてきた。
「ちょっと見てやってくれ」
そこにいたのは、怪物だった。
走り出した瞬間に分かる。
バネ。反応速度。伸び代。
彼女が一生かけて辿り着いた地点に、まだ中等部のそのウマ娘は立っていた。
「……すごいですね」
「本当ですか!?」
「はい」
だが、粗い。
才能はあるが、制御が甘い。
元クラシックウマ娘は、ノートを取り出した。
そこには、十年分の実験記録。
「あなたは、私の逆です」
「逆?」
「才能がある。だからこそ、潰れる」
彼女は、かつて自分を救うために組み立てた理論を渡した。
ペース理論。疲労管理。心理耐性訓練。
それは、才能を壊さないための理論でもあった。
「……どうして、ここまで?」
少女が聞く。
彼女は、少しだけ笑った。
「私は、才能がなかったから」
ある日、突如チャンネルが開設された。
【元クラシックウマ娘のレース解説】
初配信。
同時接続数、爆発。
「生きてた!?」
「引退理由教えて!」
彼女は淡々と語った。
努力の量。伸びの限界。縮まる着差。
コメント欄が静まり返る。
「……私より頑張った人なんて、一人もいなかった」
炎上しかねない発言である。
だが彼女は続けた。
朝四時起床。年間三百六十五日トレーニング。骨折未満のヒビを抱えて走った日。
コメントが変わる。
「そりゃ誰も真似できないわけだ……」
ライバルたちも、配信を見ていた。
最初はムッとした。
だが、怒れなかった。
怒るには、彼女はあまりにも本気だった。
それから彼女は、人気解説者になった。
利害関係がない。
スポンサーも気にしない。
データと理論だけで語る。
たまに、幼少期の話をする。
「泣きながら坂路を走ったこと、ありますか?」
コメントが流れる。
「ないです」
「ですよね」
小さく笑う。
才能の塊だった少女は、ダービーに出た。
直線。
ハナ差。
ゴール。
勝利。
観客が叫ぶ。
少女は、真っ先に観客席を探す。
そこに、あの人。
目が合う。
彼女は、静かに頷いた。
それだけでいい。
ハナ差で止まった人生。
だが、その向こう側に、確かに未来はあった。
彼女は思う。
(……悪くない)
レースはもう走らない。
だが、走り方を残せた。
それで十分だった。
夕暮れのレース場。
かつて最速だったウマ娘は、少しだけ微笑んだ。