三冠未遂 作:ひまんちゅ
秋の風が冷たく感じる頃、公式サイト上で一文が掲載された。
《当チームに、新たに"元クラシックウマ娘"氏を迎え入れました。専門スタッフとしての第一歩に、ご期待ください》
記事公開直後からSNSは荒れた。
(冗談だろ? あの人、引退即復帰じゃないか)
(いや、ちゃんと育成理論を体系化できる人材が足りなかったのは事実)
(どの面下げて戻ってきたんだよ)
(才能がないからこそ、説得力がある)
賛否両論が入り乱れる中、匿名掲示板は熱を帯びていく。やがて議論は二極化していった。
・批判派「ハナ差で止められた奴が、何を偉そうに」
・擁護派「あの人の努力量を知らないなら黙ってろ」
夜、自宅のベッドでそれらのスレッドを眺めていた彼女は、静かにスマートフォンを閉じた。コメントを読むたびに胸が痛んだが、指先には力がこもっていた。
(大丈夫。私はやるべきことをやるだけ)
翌日の朝。チームミーティングが始まる前に、彼女は全員に向けて簡潔に挨拶した。
「皆さん、はじめまして。長い間トレーニングから離れていましたが、もう一度走り方を伝える機会を得ました。失敗した部分も含めて、すべて曝け出していきます。遠慮は不要です」
ざわつくメンバーの中に、一人だけ目を逸らさない者がいた。Xだった。その姿を見つめると、自然に頷き合った。
「よろしくお願いします!」
彼女の声が室内に響き、空気が変わった。戸惑いよりも、期待が広がっていく。そこには、かつて頂点を目指した魂と、新しい輝きを求め続ける若者たちが確かに存在した。
午後十一時。照明を落としたコースで、Xは一人で走っていた。暗闇の中、シューズの擦れる音だけが聞こえる。
「やっぱりすごい……」
呼吸が落ち着いても、頭の中は走りの記憶でいっぱいだった。今までの先生は「もっと強く踏みなさい」とか「我慢しなさい」としか言わなかった。けれどあの人は違った。
「まず脳で理解する。それが肉体に行き渡ってこそ、合理的な躍動ができる」
理論と感情の境界線を、丁寧になぞってくれる。だから納得して、受け入れられる。技術の断片ではなく、思想そのものが伝わってくるのだ。
(あの人が血反吐を吐いて築いたものを、私が繋げる。そのためなら……)
暗闇の向こうに浮かんだのは、ゴール板を駆け抜けた先の景色。誰よりも早く、誰よりも美しく、誰よりも「ハナ差を超えた」自分。
「……行こう。本番まであと半年」
胸を押さえながら、彼女は深呼吸した。その息遣いには、確かな決意と情熱が混在している。
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11月初旬。天気予報は曇り。午前五時の陸上トラックは霧がかかり、肌寒い風が吹いていた。
「足首の角度が3度浅い。跳ねた時の膝の位置、右が1センチ高い」
メガホン越しの声が響くたびにXの表情が険しくなる。それでも指示された通りにフォームを調整し、5mダッシュを繰り返す。走り終わると膝に手をつき、息を整える。
「これでラスト5セット。今朝の目標タイムは?」
「……10秒8フラットです」
「2秒短縮してるから自己ベストだね」
Xは無意識に拳を握った。指導は厳しくとも、間違いなく“成長”を感じられる環境だった。走っている途中で体が軽くなる。記録更新するたびに新たな疑問が湧く。そのサイクルに陶酔しそうになる。
「次は緩やかにスピードダウン。ケイデンスを落とさずに歩幅を詰める。これが最も難しい」
「はい……!」
指導開始から約2ヶ月。すでに彼女の走りは骨格レベルから再構築されつつあった。脚の運び方も重心の使い方も、以前とは全く別物だった。その変貌ぶりを見て、現役選手たちも驚愕を隠せない。
「Xちゃん、最近の調子すごくいいよね」
「どこでそんな走り方覚えたの?」
Xは照れくさそうに笑う。
「教え方が上手なの。毎日少しずつ改良されていく感じ」
ある日、Xが寝不足で集中力を欠いた時、元クラシックウマ娘はストップウォッチを叩きつけた。
「君は何のために走ってるの?」
「……勝ちたいからです!」
「それは“なぜ走るのか”じゃない。“なぜ今ここにいるのか”を考えなさい」
厳しい言葉だったが、その奥にある温もりを感じ取ったXは深く頭を下げた。そして翌日からは、睡眠と栄養バランスの管理まで自主的に始めた。
Xの人気はネット上でも火がついた。SNSでは#X速報 や #次世代エース候補 などハッシュタグが次々生まれ、動画投稿サイトには練習中の盗撮映像すらアップされるようになった。
「スカウトマンから“ぜひうちのチームへ”っていうメール、毎日届いてます……」
「でしょうね。でも君はもうこちらに所属してる。余計な噂には耳を貸さなくていい」
オフィスのデスクで彼女は資料に目を通しながら冷徹に言い放つ。けれどその指先はわずかに震えていた。かつて自分もスカウトの嵐に巻き込まれた時期があった。その渦中に、逃げ出す選択肢がなかったこともよく知っている。
(私は逃げた。でも彼女は、きっと真正面から立ち向かうだろう)
「……怖くないんですか? こんな注目浴びて」
「怖いよ。でも、走るなら一度は浴びなきゃいけない熱だ」
彼女の答えを聞いて、Xは力強く頷いた。
「私、走ります。必ず勝ちます。あの人の期待を裏切りたくない」
その宣言を聞いた途端、彼女は思わず笑ってしまった。かつての自分と瓜二つなセリフ。そのあまりの滑稽さに胸が痛んだ。
(“期待”だなんて、私はそんなもの与えていないのに)
パソコンの画面を閉じると、窓の外から冷たい風が吹き込んできた。冬の足音が近づいている。シーズンインまであと少し。Xのデビュー戦は来年3月だ。もう猶予はない。
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Xデビュー戦から4戦目、ついにG1シリーズが目前に迫った。世間の期待は最高潮に達していたが、チーム内には異常なほどの静けさが漂っている。
控室。Xは鏡の前でストレッチをしながら、心臓の鼓動を数えるように深呼吸していた。彼女にとってG1は憧れであり畏敬の舞台でもある。あの独特の緊張感は、本番にならないと分からないと言われてきた。
「緊張してる?」
ノックもなしに入室してきたのは、元クラシックウマ娘だ。白衣ではなく、シンプルなジャケット姿で腕を組んでいる。
「……当たり前ですよ」
「私もそうだった。皐月賞の前日、トイレに何回行ったと思う?」
「……さぁ」
「8回」
Xは思わず噴き出した。
「その割に冷静な顔してましたよね」
「表面的にはね。内面は荒波だよ。でも当日になると不思議と落ち着く。人間、本能に従えば意外と大丈夫なのかも」
Xはその言葉を何度も反芻した。
確かにこれまでのレースで、直前になって冷静さを取り戻したことが多かった。それは指導のおかげではなく、自分自身の精神が鍛えられてきた証拠かもしれない。
「君なら行ける。信じて走っておいで」
背中を軽く押されて、Xは力強く頷いた。
「行ってきます」