三冠未遂 作:ひまんちゅ
ゲートが開いた瞬間、Xの背筋に電撃のような衝動が走った。
(これがG1……)
普段のレースでは感じられない圧倒的な熱量。観客の歓声が壁となって押し寄せる。第1コーナーを回る頃には息が上がり、足元が安定しない。それでも彼女は耐え忍んだ。
『第3コーナー手前! 先頭集団が激しくポジション争いを展開中!』
アナウンスが鼓膜を震わせる。Xはインを突いて僅かに前方へ出た。脚を溜め、残り400m手前でスパートをかける。
「いける……!」
風が切れる音、土煙、心臓の音。すべてが一体化していく。ゴールラインまであと数十メートル。
──だが。
「Xの伸びが止まった!? 後方から粘り腰を見せています!」
隣を走るウマ娘が執拗にマークしてくる。差は一馬身、半馬身、クビ差……そして。
「並んだ───────ッ!」
歓声が地鳴りのように轟く。写真判定。しばらく静まり返った直後、結果が出るまでの長い空白時間が訪れる。
(勝った……? 負けた……?)
やがて場内に響いたのは、衝撃のコールだった。
「1着──X! ハナ差勝利!」
わっと歓声が沸騰し、Xは呆然と立ち尽くした。本当に勝ったのか。このレースを。あのG1を。
「X、お疲れさま」
観客席の方を見ると、指導者は両手で大きく丸を作っていた。彼女の笑顔を見た瞬間、緊張の糸がぷつりと切れ、Xは思わず涙を流した。
表彰式後、取材陣に囲まれたXの足元には、屈辱に肩を震わせるウマ娘たちがいた。彼女たちこそ、かつてXと同じ土俵に立っていたライバルたちだ。
「ハナ差って……あんなの納得いかない」
「運じゃん、完全に」
悪意のない本音だった。けれどそれを聞いたXは、過去の自分と重ね合わせた。
「悔しいのはわかるよ。でも走ったのは私でしょ?」
「それは……そうだけど」
「私の努力は誰にも奪えない。あなたたちだって努力してるでしょ? だったら、それを信じるべきだよ」
その言葉に、ライバルたちの表情が微妙に変化する。嫉妬と羨望が混ざり合いながらも、心の奥底に尊敬の芽が生まれたのがわかった。
ホテルのレストラン。窓際の個室で、指導者とXは祝勝会を兼ねたディナーに舌鼓を打っていた。高級肉を頬張るXを眺めつつ、指導者はワイングラスを回す。
「美味しそうに食べるね」
「だって奢りですし!」
「そうだね。でも今日で終わりじゃない。君の“ハナ差”は通過点だよ」
「わかってます。まだ三冠獲ってないし、世界を見据えてますから」
そこで指導者の目が僅かに潤んだ。かつて自分が諦めた夢。それをこの少女は、真っすぐ掴みに行くと言う。誇らしい反面、一抹の寂しさもあった。
「ひとつ聞いてもいい? どうして私に付いてきたの?」
「だってあなたの走り方は“完成された教科書”だから。教える人に迷いがなくて、その分熱量が凄い。そういう人に習いたかったんです」
思わず笑いがこぼれる。
「私、教える気はなかったんだけどね」
「でも今はここにいる。それがすべてじゃないですか?」
「……そうかも」
その後、デザートのチョコレートケーキを食べながら、Xは意を決したように口を開いた。
「来年のG1、一緒に観に来てください。私の“新しい走り”を見せたいんです」
「当然。どこにいたって君の声は届くよ」
会話が終わると、Xはスマホを取り出し動画を再生した。そこには指導者が初めて講義した時の姿が映っている。汗まみれになりながら走り方の基礎を語るその声は、今よりずっと青くて必死だった。
「この人、全然変わってないな……」とXは呟く。
そのときちょうど、指導者が窓の外へ視線を向けた。星のない都会の夜空を背にして、彼女の横顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「変わらないほうがいいこともある。走りに対する真摯さだけは、誰にも譲れないんだ」
その言葉を聞きながら、Xは心の中で決意を新たにした。指導者の夢も想いも、すべて背負って走り抜く。それが師弟の絆を結んだ意味だ。
(私もいつか、この人みたいに強くなりたい)
窓ガラスに映るふたりの影。遠くを見つめる視線が重なり合い、静かな夜が更けていった。