綾瀬先輩のヒント   作:ひまんちゅ

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教育学部編
「伝わらない」の正体


教育学部の建物は、夕方になると急に静かになる。

廊下の蛍光灯だけが、白く長い影を床に落としていた。

 

「……なんで、伝わらないんだろ」

 

春名(はるな)は、模擬授業の練習室の前で立ち尽くしていた。

さっきまで同級生相手に、算数の「分数」を説明していた。台本どおりに話して、板書も丁寧にした。なのに相手の反応は最後まで微妙だった。

 

「ちゃんと、言葉にしたのに」

 

練習室のドアのガラス越しに、自分の板書が見えた。

綺麗に書いたつもりの式が、急に他人の手で書かれた落書きのように見える。

 

背後から、かすかな足音がした。

 

「……今の、見ててもいい?」

 

振り返ると、上級生らしき女性が立っていた。

背筋がまっすぐで、声が静かなのに、よく通る。目が、妙に落ち着いている。

 

「え、あ、はい……。すみません、うるさかったですか」

 

「ううん。うるさいとかじゃなくて。いま“伝わらない”って言ったでしょ」

 

言い当てられて、春名の頬が熱くなった。

見られていたのだ、と今さら気づく。

 

「……はい。頑張って説明したのに、みんな首をかしげてて……。私、向いてないのかなって」

 

その人は、ふっと笑った。

 

「向いてないかどうかは、まだ早い。今のは、“伝わらない”理由がたまたま分かりやすかっただけ」

 

「理由……?」

 

「うん。たとえばね。いまの説明、最初から最後まで“同じ速度”だった」

 

春名は戸惑った。

速度? 授業に速度なんてあるんだろうか。

 

その人は、練習室の中に入っていって、白板の前に立った。

 

「春名ちゃん、分数って、どこでつまずくと思う?」

 

「えっと……分子と分母が……?」

 

「それもある。けど、もっと手前。“数が二段になった瞬間”に怖くなる人がいる」

 

彼女はマーカーで、ただ丸をひとつ描いた。

その丸を二つに割り、さらに四つに割り、最後に八つに割った。

 

「ピザでも、チョコでもいい。分数は、まず“割る”って感覚から。いきなり『三分の二』って言われると、“どこを割った?”が分からないまま置いていかれる」

 

春名の胸の奥が、少しだけほどけた。

そうか、私は最初から“式”の話をしていた。

 

「……でも、授業って、限られた時間で進めなきゃいけないし……」

 

「うん。だから速度の話。みんなが怖がるところでだけ、ゆっくり歩く。それ以外は走っていい」

 

彼女は白板の端に、短く書いた。

 

怖いところだけ、ゆっくり。

 

それだけ。

なのに、その一文が、春名の中で音を立てた。

 

「先輩……えっと……」

 

「綾瀬(あやせ)。綾瀬紗月(さつき)」

 

「綾瀬先輩って、教師志望なんですか?」

 

質問した瞬間、春名は後悔した。

“教え方が上手い”=“先生になりたい”と決めつけたみたいで。

 

でも綾瀬先輩は首を横に振った。

 

「ならないよ。私は……別の道」

 

言い切ったあと、先輩はそれ以上を語らなかった。

代わりに、板書を消して、春名にマーカーを渡した。

 

「もう一回、やってみよ。春名ちゃんの言葉で。式は最後。怖いところだけ、ゆっくり」

 

春名は喉の奥がひりつくのを感じながら、頷いた。

そして初めて、“説明する”ことが怖いだけじゃないと知った。

怖いところを一緒に歩けば、説明は、ちゃんと進められる。

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