綾瀬先輩のヒント   作:ひまんちゅ

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学習理論が、生活になる

数日後。

春名は講義ノートの端を、爪で潰していた。

 

「強化」「消去」「内発的動機づけ」「外発的動機づけ」

用語が増えるたびに、頭の中が薄い霧で満たされていく。

 

“覚えるしかない”。

そう思うたびに、気持ちが沈んだ。

 

廊下のベンチでため息をついたとき、隣に影が落ちた。

 

「また霧?」

 

綾瀬先輩だった。

いつもみたいに、何を見ていたのか分からない顔で、でも状況は正確に掴んでいる。

 

「はい……。教育心理の用語が多すぎて。結局、暗記じゃないですか」

 

「暗記は悪じゃない。ただ、“暗記しかできない状態”はつらい」

 

先輩は春名のノートを指で軽く叩いた。

 

「内発的動機づけと、外発的動機づけの話、さ。春名ちゃん、普段ゲームってやる?」

 

「たまに……」

 

「じゃあ、課金の話でいこう」

 

春名は目を丸くした。

教育心理が、課金?

 

「最初は楽しくてやってたのに、報酬が増えると、報酬のためにやるようになる。報酬がなくなると急に冷める。これ、“やる気がなくなった”んじゃなくて、“目的がすり替わった”だけ」

 

先輩は指を一本立てる。

 

「授業も同じ。『褒める』は強い。でも褒めるのが目的になったら、子どもは褒められない活動を避ける」

 

春名の頭の中で、用語が動いた。

内発=自分の中の理由。外発=外から与えられる理由。

それが、紙の上の文字じゃなく、生活の記憶と繋がっていく。

 

「……じゃあ、褒めちゃダメなんですか?」

 

「褒めていい。ただ、“何を褒めるか”を選ぶ。結果じゃなくて、過程。比較じゃなくて、工夫」

 

先輩は淡々とした声で言うのに、言葉は妙に温かい。

教えるのが上手いというより、“人がどう感じるか”の地図を持っているみたいだった。

 

「先生にならないのに、どうしてそんなに……」

 

言いかけて、春名は止めた。

先輩の“別の道”に触れるのが怖かった。

 

綾瀬先輩は、質問を待たずに言った。

 

「私は、授業っていう装置が好き。人が変わる瞬間が見えるから」

 

装置。

その言い方が、研究者っぽいと思った。

けれど、先輩はそれ以上、何も言わない。

 

「春名ちゃん、次の模擬授業、テーマ何?」

 

「えっと……『割合』です。子どもが苦手って聞きます」

 

「いいね。“苦手”が集まりやすいテーマは、設計の腕が出る」

 

先輩は小さく笑った。

 

「用語を覚えるとき、春名ちゃんは“何に使うか”を書いとくといい。

たとえば今の話なら――『褒め方の設計に使う』って」

 

春名はノートの端に、恐る恐る書いた。

 

褒め方の設計に使う。

 

霧が少し、薄くなった気がした。

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